異話観
くろかわ
花売り
伽藍洞みたいにぽっかりと空いた我が家は、空々しく私に接する。
朝の陽射しは家の中を薄ぼんやりと照らし、二部屋しかない小さなアパートの一角を寂しさで埋め尽くす。
キッチンがあるほうの部屋に父の姿は無く、母の姿は私の記憶にも無い。
今日もメモ帳の切れ端が一枚置いてあるだけ。
『お父さんは先に仕事に行ってきます』
毎日同じ文面なのだから、紙も使い回せばいいのに、と常々思う。
シンクの上で顔を洗ってからタオルに水滴を食べさせてようやく、私が十六歳の女だと思い出す。毎朝の儀式。記憶の同期。おはよう、昨日までの私。今から私が私を引き継ぐから、安心して眠って。
冷蔵庫の中身を適当に温め直して、食事にする。お昼はどうせその残り物だ。自分の食べ物に頓着なんてしたことない。そんなことよりも、学校へと向かう電車の時間が気になる。授業なんてどうでもいい。けれど、父親に連絡が行って心配させるのは嫌だ。面倒くさい。
こちこちと時間を刻む器械がそろそろと出立を促す。
やれやれと息をついて、世間体なんてものに縛られる私と父親を嘆く。ひとしきり気落ちしたふりをしてから、昨日稼いだお金の入った封筒を、ずしりとお膳の上へと置いた。
革靴を鳴らして一歩街へと出れば、朝の喧騒がじわじわと私を蝕まんと襲い来る。せわしないと一笑に付して、母親譲りだという黒い髪をかきあげて、色んな物語たちを無視して歩く。
「
学校へ向かう電車に乗り合わせた友人に声を掛けられる。ぼんやりしていた私は、思わぬできごとに少しだけびっくりする。
「おじょうちゃん」
「おはよ」
おじょうちゃんと呼ばれた彼女は私を物理的に上から見下ろす。警戒心のかけらも無く、にへらと笑う。私だってそんなに背は低くないのだが、彼女と比べられると誰だって短足になってしまう。
変わったあだ名だとは思うけれど、下の名前で呼ばれたくないと本人が言うので、いつの間にか名字をもじったこの呼び方が定着していた。
「おはよ。今日もいい匂いだね」
私が素直に感想を言うと、決まっておじょうちゃんはびっくりした顔をする。彼女を赤面させて遊ぶと楽しいが、みんなそのことを本人に言うつもりは無いみたいだ。
「えぇ……へへ、先輩にいいシャンプー教えてもらったの」
もじもじと体を小さくくねらせ、照れながらつぶやく彼女はまるで恋する乙女にも見える。件の先輩が誰かを知っている人はいないし、聞いてもはぐらかされるそう。
まぁ、私にとっては真相なんてどうだっていい。
他愛のない話をしながら学校へ向かう。
学校の中はまるで泡のように思える。いつだって空虚で退屈だ。授業だってろくに聞かない。教科書に載っていることをそのまま書けば、赤点は免れる。
だから授業中は空のことばかり見ている。今日は窓が閉まっているから、カーテンの囁きは聞こえない。薄膜一枚隔てた向こうに、かきわりみたいな世界が広がる。
学校ではどのグループにも所属していない。顔が広いおじょうちゃんと時々お昼を一緒にするくらいなもの。
けれど決まって、私とおじょうちゃんとがお昼を食べると、クラスの隅で厭らしい視線が象られる。
私のこともおじょうちゃんのことも理解できない人たちはたいていそういう反応に
なるようだ。
退屈と窮屈を圧縮してからゼリーみたいにした空間から抜け出したころ、私に一通のメールが届く。
今日のお仕事だ。通りを抜けて小さな路地へと回る。くるくる歩けば世界は簡単に裏返る。ぐるりと回って、知らない小道へ一歩出れば今日の車が停まっている。
お仕事のルールは簡単。車で来ること。事前に連絡すること。一人で来ること。
たったそれだけ。
「こんばんは」
ノックに対して無言で開くドア。後部座席が開いたということは、
「ルール違反」
身なりのいい黒のスーツ。引き締まった体につるりとした顎。こういうお客はお金もたくさん持っている。
「運転手くらいいいだろう」
「いいですけど」
本音だ。どうだっていい。世間体や、周囲の目、学校の噂なんて興味無い。この人にどう思われるかとか、運転手がいるだとか、そんなこともどうだっていい。
「君は特別だと聞いてね」
どこで聞いたのだろう。どこでもいい。
男性は興奮を隠しきれない様子で、席に座るよう私を促す。
私は滑り込むように、退屈と窮屈から押し出されて車の中に舞い込む。
「それで、だ。君の技術は特別だと」
待ちきれない様子で男は言う。
「特別な人なんて誰もいなから、誰しもが特別なんですよ」
「そういう哲学的な話じゃない」
ため息交じりに男は言う。もしかして、思春期特有の変な思想だと思われたかも。
この人も理解してくれないみたいだ。本当に大丈夫だろうか。どちらでもいいか。お金さえ払ってくれるなら、私はなんだってするのだから。
「それじゃあ、今から案内しますから。運転手さんは指示通りにお願いします」
私は背中をふかふかの背もたれに預けて、道案内を始める。
「本当に、喪った人を完全に思い出せるものがあるんだね?」
男は疑いの眼差しを向ける。今更だ。少なくないお金だって払ったばかりなのに。
「もちろんです。思い出せなかったら、お金はお返しします」
私は自分でもわかるほどつまらなそうに言い放って、それから黙ることにした。
学校から一時間。つまらない日常は全部壊れて、代わりにつぎはぎの正常へ帰る。
目の前には大きな鉄柵。扉もきちんとついている。それは蔦が絡んで茶色と緑とで混じり合ったモザイク模様を作っている。
私の庭。私の場所。私の花園。
「ようこそお客様」
私の魂の在処へ。
ぎぃと錆びついた音が鳴り、運転手を一人残して男を連れ出す。
「ここが、君の」
「あなたの望みの叶う場所。私はなんにも関係ないの。ただ案内するだけ」
でも、と石畳を踏みしめながら人差し指を立てて言う。
「ルールは必ず守って」
道の横には美しく狂った花々。季節なんて狭苦しい言い訳はなし。椿と桜はいつも仲良し。ポピーとコスモスは隣合わせ。ひまわりはいつだって月の色を望んでいて、月下美人は太陽を見つめあっている。
「お一人様、一輪まで。それ以上の保証はなし」
男は私の話を聞いているのか曖昧に、酩酊した表情を浮かべ花園を歩き回る。
私は中央のティーパーティーセットで一人お茶を楽しむ。誰がお菓子を用意したかなんてつまらないことは考えない。花園の真ん中にテーブルとティーセットがある。だから当然アフタヌーンティーは用意されている。
夕暮れも近く、日が沈みそうだ。私はオフラインのままで遊べる携帯端末のアプリをいじりながら男を待つ。
がさりと音がして、ようやくかと顔を上げる。でもそこには、
「お一人様、一輪まで、ですよ」
花束を抱えた男がいた。
「だめなんだ。選べない。バラは妻の香りがする。コスモスは小学生の時に嗅いだ。藤には祖母いて、たんぽぽには母が宿っている」
女の人ばかりじゃないか。男の人ってみんなそう。
「死んだ人間と思い出を一つ選ぶなんて、できない。全部持って帰るのは──」
「──私は、構いませんけど」
招待するのがお仕事で、お金は車の中でもらった。
「一人、一輪まで、というのは」
「ルール、ですよ」
私は説明責任があるだけ。
「守るかどうかは、あなた次第」
だって、それ以上は私には関係ないのだから。
「じゃあ」
そういって。男は。
「持って帰ろう。萎れない、枯れない、世話も要らない。そうだったね?」
そう。いつでも変わらないものがそこにある。あなただけのものになる。
これが私の物語。ここが私の在処。
「香りを嗅げば思い出す。花弁を見れば頭の中で蘇る。それがこの花」
だから。だけど。だからこそ。
「全部、持って帰ろう」
男はそういって、全て包んで外へ出た。
失った以上のものを取り戻すと、溢れる。零れる。それは仕方のないことだ。
帰りは気楽なもので、夜の商店街は騒がしくも静けさがある。
十分ほどで学校を通り過ぎ、駅へと向かい歩を進める。
家路の電車も静かだった。私は名前の通り静寂が好きだ。無音はとても好い。
家の中も時が止まっているようだ。父親の帰宅はまだ先。
軽くシャワーを浴びたあと、料理のお供にテレビを点ける。テレビのいいところは錯覚できる点だ。自分の周りだけが静止していて、でも世界はあくせく動いている。そんな幻覚が見られるところ。今日のニュース、明日の天気、明後日の記念日。
扉を開けたら地続きなのにもかかわらず、モニターなんてかきわりを通すからだ。全部を薄っぺらく感じられる。
八時のニュースはセンセーショナルに見せたいようだった。番組をつくる人も大変なのだろう。
何せ、大手企業の重役が首を吊って自殺したのだ。
場所は車の中。
そんなはずない、とコメンテーターたちは言う。第一、車の中で首吊りなんて。
運転手が気付かないはずはないと口々にし、続報として彼の人となりが晒される。
違う。首吊りじゃない。
ただ、溢れてしまっただけ。
ちょっと、零れてしまっただけ。
ただ、それだけ。
彼はきっと、幸福になったのだろう。
まぁ、私には関係ないけれど。
テレビのモニターに映る先程まで見ていた顔は、幸せな表情で虚空を見ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます