世界が救われた翌朝

 地平線からは透明な朝の光が溢れだし、空は群青を押しのけるようにして白、その下からオレンジが、カクテルのような層になっていた。風は無く、まだ何者にも乱されていないひんやりとした空気は、夜の形のまま、ただそこに置いてあった。


 男はしばらくその光景の中にまだ洗っていない顔をさらして、朝の感触を味わっていた。


 やがて少しずつ早起きな人間が活動を始め、彼らの声が男の耳にまで届いてきた。男は遠くの地平線を見るのを止めて、眼下の彼らを見た。焼野原のがれきの中から現れる彼らはお互いに声を掛け合い、作業を始める。彼らががれきの上に立ち、歩くと、砂塵が舞って、地上付近の空気は白く濁った。


 世界は昨日、部分的に終わりを迎えた。来る終末の日の訪れに世界中の人々は憂い惑い、祈ったり殺したりした。昨晩、たくさんのものががれきと化した。たくさんの人間が灰か塵か、その類になって消えた。しかし、夜が来れば朝が来るように、終末の日の後にも例外なく朝が訪れた。


 まるで、終わったと思った手持ち花火がまた火花を放ち始めたかのようだ、と男は思った。花火が終わり、煙が静かに一本の乱れ無き線になって空に昇っていったはずなのに、また乱れだす。


「それを使ってどうするつもりだい」


 後ろから声がした。男の良く知る声だった。昨晩、共に世界の終りに抗った友であった。


「別に。ただ、夜と朝について考えていただけだよ」


 男は手に持っていた、錆びついた刃のナイフを鞘に戻した。友は男の足元のがれきに腰を下ろした。二人は人々を眺めた。


「やるなら、今なんじゃないかなぁ」


 しばらく沈黙があって、ぼそりと友が言った。男は友を見た。服はすすや、こびりついて変色した赤黒い血で汚れ、元の形を思い出せないほどぼろぼろに破けていた。たくさんの人間の手を取り、救ったその手は真っ黒になっていた。


「どういう意味だ?」


「そのままの意味だよ。君のやろうとしていること」


 なにもかも見透かすような瞳に見つめられて男は息を吐いた。この友とは、世界が終わる前に何度も何度も言葉を交わし、隣を歩き、共に戦い、世界を救った。相手の考えていることは手に取るように理解できた。


「今だとして、君は俺を許すのか?」


 友は朝日に目を戻す。


「さぁ。でも、少なくとも君は救われることができる。世界を救った英雄が救われないなんて、そんな救いのない話なんてあんまりだ」


 男は鞘の上からナイフをさするようにした。男の手も、友の手のように真っ黒だった。この手でたくさんの人の手を握り、武器を握った。その汚れは、生かした人たちの血であった。同時にその汚れは、手からすり抜けた、救うことができなかった人たちの血でもあった。


 救えなかった人の中に、男の愛する恋人も含まれていた。世界を救うためには犠牲が必要だった。何も失わないで何かを救うことは不可能だった。大きな流れの中で揉まれて手を放してしまった。


「彼女がいないなら、なぜ俺は世界を救ったんだろう」


 大切なものを守るために英雄になったはずだった。しかし、大切なものだけが世界から消え、どうでもいいものしか残らなかった。


 男は、花火がまた燃え始める前に水をかけて踏みつけて、火薬のすべてに水が染み込むまでぐちゃぐちゃに潰してしまいたかった。男にとってもはや世界は、燃えカス以外の何物でもなかった。また朝が来て目を覚ました世界を、まだ朝焼けの消えないうちに、今度は二度と目覚めないように、永遠に眠らせてしまいたかった。


「どうせ昨日終わるはずだったんだから、今俺が終わらせてもたいした違いは無いはずだよな」


「今ならね」


 男は地平線から頭を出す太陽に背を向けた。ところどころ染みの目立つがれきに長い影が伸びた。


「僕のことは放っておくのかい」


 友が言った。


「死ねと言いなよ。親友の僕にも、昨日君が無責任にいろんな人に振りまいた言葉を言うのか?」


 昨晩は何度も生きろ、と叫び、手を伸ばした。それは、使命だったから。人を救うのは、英雄の義務だったから。


「確かに、俺は君に言わなくちゃならないな。だって、最愛の人にも言ったのに、親友の君に言わないのはおかしいな」


 声が震えた。言葉を続けようとしたが、唇がひどく震えた。


 男は、昨晩恋人を殺した。世界の終りを横目で秒読みしながら、彼女を手に掛けた。世界中の人間が平等に死ぬ瞬間に、世界中の多くの人間と同じように彼女が死ぬのが耐えられなかった。彼女の死はもっと特別で、彼女の存在は普遍的な大勢とは別であると信じたかったのだった。


「僕も君の中で特別になれたなら光栄だ」


「俺にこれ以上最低になれって言うのか」


「もう十分最低だ」


 少しずつ空の色が明度を増していく。群青は西に追いやられ、生命力にあふれた輝かしい水色が空を染める。


「死ねよ」

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