第10話
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「大海、そこのパイナップルを全部切ってお皿に盛りつけて。美桜さんは、このお刺身をお願いします」
上客を迎える日の夕方。聡美と大海、そして美桜の三人は、与那覇家の台所で次々と仕事をこなしていた。その日は朝からベッドメイキングや食材の調達で忙しかったが、休んでいる暇はない。聡美はあぐーじゅーしぃ――あぐー豚の炊き込みご飯――を炊く準備をしながら、二人に指示を出している。
リビングの中央に置かれたテーブルで、美桜と大海は作業に取りかかる。しばらくして、向かい側で刺身を切っている美桜が、大海に目配せをした。テーブルに置いたスマートフォンで、録音を開始したという合図だ。頷き、パイナップルの皮を剥ぎながら、聡美に尋ねる。
「……ねぇ、お母さん。どうしてわざわざ社長をここに呼んだの?」
「だって、おじいちゃんは元気のないご老人だもの。最初は東京に来てくれって言われたけど、老体を労わって欲しいって食い下がったのよ」
おばあちゃんが亡くなった後すっかり弱っちゃったからね、と言いながら二品目の調理を始める。
「社長さんは、何でおじいと話がしたいのかな?」
「決まってるでしょ。あの人たちはおじいちゃんに、リゾートホテル建設に反対する島民たちを説得して欲しいのよ。島のみんなはもう町長になんか期待してないけど、昔漁労長だったおじいちゃんの信頼はまだ厚いみたいだからね」
食材棚から車麩を取り出し、薄く切って水に戻している。どうやら、副菜はフーチャンプルーのようだ。
「でもさ、おじいだって本当は、リゾートホテルなんて建てて欲しくないんじゃない?」
「そうね、そうだと思うわ。確かにお客さんはたくさん来てくれるかもしれないけど、その代わり、島の自然が壊されてしまうものね」
「どっちみち、島が平和にならないと観光客なんて来ないと思うけどね?」
「……ええ、そうね」
人参を切りながら、聡美は声を低くして答えた。
「だからさ、もしかしたら社長さん、ワイロを渡してくるかもしれないよ」
「そうね、私たちの足元を見てそうするかもしれないわ。でも、おじいちゃんはお金を受け取って悪いことをする人なんかじゃない。だから大丈夫よ」
「……でも、島を守るためなら、きっと何だってするよね」
「……そうね、そういう人だと思うわ」
顔色一つ変えずに答えながらニラを冷蔵庫から取り出し、洗う。
「サトミさん、お刺身できました!」
「あら、美桜さん盛り付け上手ね! ありがとう、じゃあラップかけて冷蔵庫に入れておいてくれる?」
わかりました、と言って指示通りに動く美桜。そこには、食材の他にさんぴん茶の入ったピッチャーと、水道水の入れられた一・五リットルのペットボトルが二本置かれていた。凹凸のあるボトルは、いつも喜一が泡盛を水割りにするために使っているものだ。もう片方は凹凸のない寸胴型である。
「あれ、今日は水のペットボトル二本用意したんだ?」
「ええ。もう一本はお客様用よ」
「別に、一本だけで十分じゃない? 島酒飲むのおじいだけでしょ、どうせ」
「もしかしたら、気に入ってくださるかもしれないでしょ?」
「それにしたって、一人一本ずつは多すぎるよ。なんか喉乾いちゃったし……飲んでいい? この水」
わざと間を置いてから尋ねると、聡美は血相を変えて大海の方を見た。彼は、寸胴のペットボトルを持っていた。蓋を開け、口を付けようとした瞬間、聡美が叫ぶ。
「やめなさい!!」
同時に、大海からそのペットボトルを奪い取った。中身が飛び散り、大海の顔を濡らす。
「大海、大丈夫!? その水、飲んでないわよね!?」
タオルで彼の顔を拭きながら、凄まじい剣幕で問い詰める。
「ううん、平気。でも……なんでおれは飲んじゃいけないの? それ、社長さん用だったんだよね?」
「そ、それは……」
「目薬を入れたから、ですよね? 塩酸テトラヒドロゾリンが含まれているユタの聖水なんかを、大切なヒロミくんに飲ませるわけにはいかないってことでしょう?」
聡美が振り返ると、そこにはスマートフォンのレンズを向ける美桜の姿があった。いつの間にか録音を止めて、動画の撮影に切り替えている。全てを悟った聡美は脱力し、黙って床に座り込んだ。
「なるほど……何もかも、お見通しってわけね」
俯きながら、無気力に笑う聡美。
「お母さん……どうして、こんなことしたの? SNSで岩田さんたちと接触したのもお母さんなの? 悪いことだって、ちゃんとわかってたよね……!?」
声を震わせながらも、真っ直ぐに母を見つめ、問う。最愛の息子から責められ、唇を噛む聡美。しかし、観念したのか、やがていつもより低い声で話し出した。
「もちろん、わかってたわよ……でも、断り切れなかった。だって、今私たち親子が満足に暮らしていけるのは、おじいちゃんたちのお陰だもの。与那覇家のみんなが助けてくれなかったら、私、あなたを産むことさえできなかったのよ……!?」
聡美も震え、涙を流しながら、真っ直ぐに息子の顔を見る。
「でも、これで全部お終いね……私たちは逮捕されて、島は津波に呑まれる運命なんだわ」
「お終いじゃないよ。まだやるべきことはある」
今度は大海が母の両肩を掴み、彼女の双眸を食い入るように見つめた。
「お母さん、津波から島のみんなを守ろう。満月の日までに、避難物資を車で赤(アカ)城(グスク)山の頂上に運ぶ手伝いをして欲しいんだ」
「えっ……!?」
「そして当日は、みんなを山頂に集めて欲しい」
「け、けど……津波が来るなんて言ったって、誰も信じてくれないわよ?」
「大丈夫。その日に避難訓練をするように町長にお願いしてって、おじいに頼んでみるよ」
「でも……」
「いいから、おれのお願いを聞いて。そして、社長さんも殺さないで。……約束、してくれるよね?」
「…………」
しばらく逡巡していた聡美だったが、息子の力強い視線に負けて、左手の小指を差し出した。大海もそれに応え、互いに小指同士を絡ませる。
「ごめんね、大海。今までずっと黙っていて、騙していて、本当にごめんなさい……」
「いいよ、もう。その代わり、これからはおれたちに協力してね」
もちろんよ、と呟きながら、彼女は瞼を指で拭った。
もらい泣きをしたようで、美桜も右腕を目元に当て、鼻を啜っていた。
*
何も知らないままやって来たエルシオンリゾートジャパンの社長・西園寺は、翌朝不満げな表情を浮かべながら帰って行った。喜一は、彼の申し出をはっきりと断ったらしい。
どうやら二日酔いは免れたようで、その日の夕方も彼は縁側で胡坐をかき、三線を弾きながら歌っていた。
「おじい。ちょっといい?」
座布団を抱えて、大海が背後から尋ねた。返事はなく、遠慮がちに横に座る。演奏が終わると、喜一は三線を傍らに置いた。
「また安里屋(あさどや)ユンタ?」
安里屋ユンタとは、石垣島の南に位置する小さな島・竹(たけ)富島(とみじま)の古謡である。琉球王朝時代に実在した島の絶世の美女・安里屋クヤマが、王府から派遣された役人の求婚を頑なに拒み続けたというエピソードが元となっていて、現在でも多くのアーティストによって唄われている。
「……まぁ、いい曲だからな。美桜さんもできるようになったぞ」
「へぇ、そうなんだ」
その時、森からフルートの音色のように美しい鳥の鳴き声が響いてきた。どうやら、アカショウビンが近くで囀っているようだ。真っ赤なその姿は森の中ではとても目立つが、何故か滅多にお目にかかれない珍しい鳥である。
「ねぇ、おじい。赤間のお墓を掃除してたのって、おじいだったの?」
「ああ、そうだ」
「あのね、おれたちこないだ、タンクの本数を数えたんだ。そしたら、管理表の本数より一本少なかったんだよ」
「悪い子だな。勝手にショップに入ったのか」
「ごめんなさい。でも、どうしても確かめたくて」
「それで、何が言いたいんだ?」
「タンクなんて高価なもの、カズキさんがそう簡単に無くすわけないと思うんだよね。今年は赤字が続いてたんだから、尚更」
「ああ、そうだな……」
並んで座ってはいるものの、互いに正面を向いたまま話す。
「あのね、須崎さんが珊瑚の産卵を見に行く日の昼間に、コンプレッサーの音がしたっていう証言があるんだ。しかもその日、お母さんはおれたちに木炭をセットさせなかった。つまり、その木炭をコンプレッサー小屋の中で燃やして一酸化炭素を発生させて、それをタンクの中に入れて須崎さんに使わせたんじゃないかって考えた。
タンクの中に少しでも一酸化炭素が残ってたらまずいし、当然須崎さんの遺体にもそれは含まれてる。だから、遺体とタンクをウエイトベルトか何かで縛って海に捨てて、証拠隠滅を図ったんじゃないかと思ってるんだけど……違う?」
BCDやレギュレーター、マスク、フィンといった器材を遺体から外して船の上に残したのは、ダイビング中の事故ではなく、船での移動中の落下事故であることを偽装するためだろう。
「面白い推理だな。だが、コンプレッサー小屋に一酸化炭素を充満させたら誰も中に入れないじゃないか」
「問題ないよ。BCDと普通の空気が入ってるタンクを背負って、レギュレーターで呼吸すればいいんだから。マスクをすれば、鼻も覆えるし」
「コンプレッサーの音を不審に思って、誰かが様子を見に来たらどうする?」
「カズキさんがその作業をしている間は、お母さんが掃除する振りをして警戒すればいいだけだよ。小屋は敷地の奥にあって、門からは見えないしね。どうして充填してるのって聞かれたら、しばらく使ってないタンクの空気を入れ替えてるだけだって言えばいいよ。おれだって、最初はそうじゃないかと思ったもん」
「本当にそうだったかもしれないじゃないか。今のところ、証拠は何もない」
「そうだよ。でも、証拠はなくても推理の根拠はある。タンクが一本少なくなっていることを管理表と刻印で証明して、警察や海保にタンクと遺体の捜索を頼むことだってできるはず。それで本当に見つかってしまったら、もう逃げ場はないし……それに、昨日お母さんが全部話してくれた。録画もしてあるから、自白としては十分だよ」
「……そうか。成程な」
「……でもね、おじい。おれは、警察に自分の家族が犯人だなんて言いたくない。だから、せめて……自首、して欲しいんだ……」
「自首、か……」
耐え切れなくなり、嗚咽を漏らす大海。何も言わぬまま、ライターでタバコに火を付け、咥える喜一。一息吐いてから、彼は徐に話し出した。
「おかしな話でな、最初はいいことをしていると思っていたんだ。毒で死んだ自殺願望者を西崎(いりざき)から落として生贄にすれば、彼らを望み通り逝かせられる上に、この島を守ることにもなる。一石二鳥じゃないかと、本気でそう信じていたんだ。だが……」
「……岩田さんの遺体が見つかって、計画が狂い始めた?」
「それもあるが、ご遺族が警察に再捜査を頼み込んでいるというニュースを見て、ようやく我に返ったんだ。例え彼らが世間や自分自身に絶望して死にたがっていたとしても、その家族や友人は彼らの死を嘆き悲しんでいる。愛してくれていた人たちがいたのに、私は自分の都合で彼らの命を奪ってしまった。彼らを死なせるのではなく、焦らずゆっくり励まし続ければ、再び希望を持って生きることができたかもしれない。そう考えると、堪らなくなってしまってな……」
「…………」
紫煙が、風に乗って空へ消えていく。
「須崎さんを殺したのは、人魚を守るため?」
「ああ、そうだ。都合よく満月の日に来てくれたというのもあるが、万が一彼のような人間に捕らえられてしまったら、あっという間に世間の目に晒されてしまうだろう。それが神の逆鱗に触れないとは思えないからな」
「目薬は、どう言って調達させたの?」
「離島では買えないからついでに持って来て欲しいと言った。それだけだ」
「……ねぇ、おじい。わかってたんだよね、おれがティダヌファだってこと。だから、おじいが名前をつけてくれたんだよね。ダジャレなんかじゃなくて、ちゃんと予言通りになるように」
「そうだな。たまたま語呂合わせができる誕生日だったが、もしかするとそれすらも必然だったのかもしれない」
「おれ、本当に適当(てーげー)に名付けられたと思ってたよ」
はは、と力なく笑い、足元を見つめる。
「……あのさ、おじい。カズキさんは、お母さんが赤郷の人間で、しかもアメリカ人の子供を身籠ってるからこの島に連れてきたの? 本当に赤い髪の予言の子が生まれてくるかもしれないっておじいが思ったから命令したの?」
「…………」
「おじいは……おれが予言の子だから、可愛がってくれたの? だから、船から落ちた時も命がけで助けてくれたの? そうじゃなかったら、大切になんかされなかったってこと……?」
彼の頬は、すっかり涙で濡れそぼっていた。声も震え、小さくなっていく。顔を上げることもできない。
しばらく沈黙していると、喜一は愛用している島ぞうりを履き、ちょっと待ってろと言い残して家へ向かった。彼はすぐ縁側に戻って来て、泣いている大海にあるものを差し出した。それは、赤間ナインがカンムリワシ杯で活躍した時の新聞記事のコピーをラミネートしたものだった。大海について語られている部分は、ピンク色の蛍光ペンで囲まれている。
「おじい……これ、読んでくれてたの?」
「……お前が生まれてくるまでは、孫として接するつもりなどなかったよ。だが、いざお前の顔を見てみると、ぎこちなく抱いてみると、本当の孫のように可愛く見えてしまってな……」
語りながら、泣き腫らした大海の横顔を見つめる。
「一喜の面倒なんて碌に見なかった癖に、お前には野球を教えて、海にも連れてってやった。お前がティダヌファとして生まれてきた時点で、この島に危機が訪れることはわかっていたはずなのに……そんな現実から逃げるように、ほぼ毎日お前と遊んでいたな。お陰で、本当に楽しかった」
「おじい……」
「試合のことを、素直に褒めてやれなくてすまなかった。自分が人殺しだとわかっていて、お前に合わせる顔がないと、祖父として失格だと思っていたんだ」
ようやく、傍らの祖父に目を向ける。喜一も、大海と目を合わせて相好を崩した。
「安心しろ、一喜が聡美さんに惚れているのは本当のことだよ。だから、いずれはきちんと夫婦になってくれたらとも思っていた。だが、もうそういうわけにもいかなくなってしまったな……」
大海の頭に手を乗せながら、空を仰ぎ見る。
「聡美さんにまで協力させてしまって、本当に申し訳なかったと思ってる。お前にも辛い思いをさせて、すまなかった。お前の言う通り、自首しよう」
「……ほ、本当?」
「どうせ、今の会話も録音しているんだろう? わかっていて話したんだ、私は逃げないよ」
大海のズボンのポケットに、持っていないはずのスマートフォンが入っていることを彼は見抜いていたようだ。
「でも、その前に島のみんなを避難させなくちゃ……!!」
「ああ。だが、人魚の予言が根拠で津波が来ると言っても誰も信じないだろう。だから、全員を赤(アカ)城(グスク)の頂上に集めるしかない」
「じゃあ、その日に避難訓練をして欲しいって、町長にお願いしてくれる?」
「ああ、もちろんだ。私は元漁労長だからな、今の町長とは古い付き合いなんだ。お前たちはそれまでに、大変だろうがグスクへ食糧や水、日用品をなるべく多く運んでもらえるか? 訓練でも運ばせるようにするが、あまり期待できないからな。年寄りはありったけの車を総動員して早めに連れて行くとするか」
「うん……」
不安げな表情で俯くと、喜一は灰皿でタバコの火を消しながら大海の背中を軽く叩いた。
「大丈夫だ。大きな地震と津波があれば、すぐに宮古や石垣から助けは来る。ほんの少しの辛抱だ」
「……そうだね、頑張ろう」
島民の命がかかってるんだから、と自らに言い聞かせて大海は言った。
「頼んだぞ、ティダヌファ」
そう言って大海を激励するその瞳は、間違いなく、愛する孫に向けられるそれと同じ温もりを宿していた。
*
その日は、朝から避難訓練の放送が島中に響き渡っていた。きちんと本番を想定して動く者もいれば仕方なく参加している輩もいたが、喜一が細かく町長に指示を出してくれたお陰で、島の老人の運搬は順調に進んでいた。
食糧や日用品などは、事前に聡美がバンで赤(アカ)城(グスク)山の頂まで運んでいた。しかし一台だけでは限界があったので、大海はクラスメイトの親たちにも頭を下げて協力を仰いでいた。初めは皆渋っていたが、姪である波音から何か聞いていたのか、大悟だけは率先して動いてくれた。彼の説得で他の大人たちも協力するようになり、その甲斐あって、千人強という人口が一日は持ち堪えられるだけの物資が揃っている。先に到着した老人たちはそんな物資の山を見て目を丸くしていた。
「凄いねぇ、まるで本当の避難みたいさぁ」
「でもさ、うちの牛や山羊は朝から何だか落ち着きがないわけ。集落で野良猫も鳥も見かけなかったし、もしかすると本当に何かあるかもしれないさぁ」
だからね、と島の老婆たちが不安そうな顔をして頷き合う。家畜たちは島の東側、赤(アカ)城(グスク)山の麓にある牧場に集められていて、そこから彼らの興奮気味な鳴き声が響いてくる。
徒歩で登頂してきた人々が集まってくると、各集落の代表が点呼をとり始めた。しかし、まだ来ていない島民がまだ三割ほどいるようだ。
「まずいよ、まだ全員来てないなんて……!」
「落ち着け、大海。大丈夫だ、地震が起きてすぐ津波が来るわけじゃないだろう」
浮足立つ彼を、篤志が冷静に宥める。
「そうだよ、さすがに地震が来たら怖くなっちゃってここまで来るはずだよー」
真珠も声をかけたが、本能で危機を察知しているのか、体が震え出していた。顔も青ざめている。
「んだよ、お前マジで信じてんのかよ! ダッセー!!」
「何よー、バカジマくんだってホントは怖がってんじゃないのー!?」
「はぁ!? んなわけねぇだろ!!」
「真珠、遼平くん。恥ずかしいから静かにして、お願い」
彼らを咎める渚はまるで母親のようで、とても同級生には見えなかった。波音は、その傍らで呆れたような顔をしている。
「あれ……ねぇ、おじいは?」
辺りを見回して、大海はようやく喜一の姿がないことに気づいた。人込みを掻き分けながら探したが、それでも見つからない。
「ミオウさん、おじい見なかった!?」
「ううん、見てないけど……先に車に乗ったんじゃないの?」
「喜一さんなら、まだ準備できてないから後で自分で行くって言ってたけど。まだ来てないわけ?」
そう言ったのは、大悟だった。嫌な予感がして、海を見渡す。すると西の方に、水平線に向かって走る一隻の船があった。その屋根は、青い海に映えるオレンジ色だった。
「ヒロミくん……あれ、てぃだぬふぁ号だよね!?」
「そんな……おじい……!!」
二人が驚愕していると、突如足元が揺れ始めた。地震だ。それはかなり激しく、島民たちが一斉に悲鳴を上げる。立っていられないほどの揺れで、各々が木の幹や石垣に縋るようにしがみつく。
ようやく大地が静まると、船は更に小さくなっていた。我を忘れ、取り乱す大海。
「おじい、おじい!! イヤだ、行かないで!!」
「大海、駄目だ! もう間に合わない!!」
「放せっ、放せよ!!」
「バカ、今下りたら津波に呑まれちまうぞ!?」
山を下りようとした大海を、篤志と遼平が必死に押さえ込む。それでも暴れる彼を、聡美は平手打ちで黙らせた。彼女の頬は赤く、瞳には涙が浮かんでいた。息子を叩いた手も震えている。
「……わからないの、大海。あれが、おじいちゃんの……喜一さんの、意思なのよ」
「お母さん……なんで……」
「彼の罪の重さは、彼が一番わかってる。だから、私も止めることができなかったわ……」
「でも、でも……!!」
「行かせないわ、大海。喜一さんに頼まれているの、絶対に、何があってもあなたを守り抜きなさいって」
「……おい、見ろよ、あれ! 海が……!!」
遼平が、西の岸を指差した。まだ干潮の時刻ではないのに、波が異様なスピードで引いていく。
島民たちが騒ぎ出す中、聡美は静かに大海を抱きしめていた。
「……ごめんね、大海。辛い思いをさせて、本当にごめんなさい。でもね、喜一さん、言ってたわよ。あなたが孫になってくれて、本当に幸せだったって」
母の言葉を聞きながら、声を殺して泣く大海。
「でもね、こんなことも言っていたの。あなたを殺人犯の孫にするわけにはいかないから、事件の秘密を守るためにはこうするしかなかったって……」
「……おじい、自首してくれるって言ってたのに……!!」
「ダメよ、大海。喜一さんの意思を無下にしちゃダメ。本当は、悪いことだけど……喜一さんはね、あなたに堂々と立って欲しいのよ。甲子園という、晴れ舞台に」
「……甲子園……?」
「そう、甲子園よ。そこへ行ってあなたが優勝旗を掲げることが、何よりの弔いになるはずだから……」
大海。甲子園っていうのはな、凄いところなんだぞ。日本中の強い球児たちが集まって、泥まみれの汗まみれになって、雄叫びを上げながら戦い合うんだ――少年のように興奮し、誇らしげにアルバムを見せて語る喜一の姿を、大海は今でも覚えていた。
おじい、すごいね、カッコイイ! おれも、おじいみたいに甲子園へ行けるかな!?
行けるに決まってるさ。だってお前は、この私の孫なんだから。
「大丈夫よ。私ね、ちゃんとあなたのバット持ってきたから。喜一さんの魂(マブイ)が、きっと宿っているはずだから」
これからも傍にいて、見守ってくれるはずだから――。
「ああ、俺たちの島が……!!」
「見るな、遼平、真珠!!」
二人の目元を覆い、地面に伏せる篤志。震える渚を抱きしめ、唇を噛みながら、波に呑まれていく島を一人で見つめる波音。瞼を閉じ、胸元の十字架を握り締める美桜。
東の海からは、人魚の歌が響いていた。
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