第6話

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 連休の最終日は、爽やかな風の吹く晴天だった。ヘルパーとして働いている美桜はそれまで宿とダイビングショップの大掃除や草刈りに専念していたが、我慢の限界に達したのか、居間で大海と顔を合わせた途端にこう言った。

「ねぇ、ヒロミくん。今日一緒にダイビングしない?」

「いいけど……ミオウさん、昨日お酒飲んでないよね? ちゃんと寝れた?」

「飲んでないし、ぐっすり九時間寝たから大丈夫だよ」

「わかった。じゃあ、カズキさんに聞いてくるね」

 ダイビングをしたいと以前から言ってはいたが、もしかすると気晴らしのためではなく、喜一に冷たくされたことで泣いてしまった自分を慰めるためかもしれない。そう思うと、大海は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 突然の申し出にも関わらず、一喜は二つ返事で了承してくれた。彼は船に燃料を積んでくると言って先にビーチへ向かい、大海はその間必要な器材を軽トラックに乗せることになった。

 美桜の身長・体重・足のサイズが書かれたメモを確認しながら、ショップの奥にある器材置き場を物色する。ちょうどいいサイズのウェットスーツを探していると、美桜が大海のもとにやって来た。

「ヒロミくん、ボクも手伝うよ。何したらいい?」

「いいよ、ミオウさんはお客さんなんだから」

「でも、ヘルパー待遇で半額にしてもらっちゃってるもの。何もしないわけにはいかないよ」

「そう? じゃあ、ちょっと重いけど、タンクを運んでもらいたいな」

 少し遠慮がちな口調で、敷地の奥のコンプレッサー小屋を指差す。

「タンクって、酸素ボンベのこと?」

「厳密に言うと、酸素ボンベではないんだ。周りの空気を取り込んでそれを圧縮して充填してるから、窒素とか二酸化炭素とかも大気と同じ割合で入ってるんだよ」

「へぇ、そうなんだ。初めて知ったよ」

 小屋からタンクを持ち出し、台車で軽トラックまで運び、大海が荷台に乗って美桜からそれを受け取り横に倒した。その傍らに、その他のダイビング器材を入れたメッシュバッグを置く。さんぴん茶を入れたウォータージャグの用意もでき、ちょうど準備が整った時、一喜がビーチから戻って来た。

「ご苦労さん。忘れ物はないだろうな?」

「大丈夫、ダブルチェックしたから」

「よし、じゃあ出発だ」

 軽トラックを一喜が運転し、その後を二人が走って追いかける。ビーチに到着すると三人で荷物を船に移し、それから一喜が美桜にダイビングのレクチャーを始めた。

 美桜が受けるコースは、体験ダイビングというものである。まだライセンスを持っていないゲスト向けのもので、器材の使い方やハンドサイン、潜水中の注意点などを教わってから水中世界を楽しむという内容になっている。大海は既にジュニア向けのライセンスを持っているので、ブログ用の写真撮影に徹することになった。

 説明が終わると、一喜はすぐに船のエンジンを掛けた。大海はカメラを置き、浅瀬に飛び込んでアンカーを船に上げ、再び乗船してからアンカーロープを丸める。

「ヒロミくん、手際いいね。プロみたい」

「別に、慣れたら誰でもできるよ」

 後方で体育座りをしている美桜と向かい合うように座り、左右のバランスを取る。船はゆっくりと湾を抜け、リーフエッジ――珊瑚礁の浅瀬と深い海の境界線――を越えるとすぐにスピードを上げた。腰が浮き、塩辛い飛沫が顔にかかる。それでも、美桜は遊園地のアトラクションに乗っている子供のように無邪気に笑っていた。その嬉しそうな声は、エンジンの轟音に掻き消されることなく大海の方まで届く。

「しょっぱいねぇ、でもちょっと美味しいかも!」

「ダメだよ、魚の糞とか微生物がたくさん入ってるんだから!」

 海水から採れる沖縄の塩はもはや名産品の一つとなっているが、生で飲み込めば腹を下しかねない。

「そりゃそうかもしれないけどさ、熱中症対策には良さそうじゃない?」

「いや、だから……」

「大海、今日はここにするぞ。準備しろ」

 スピードを緩め、指示を出す。アンカーを下ろす準備をしろという意味だ。大海は大急ぎで腰まで着ていたウェットスーツを完全に装着し、曇り止めを済ませたマスクを着け、フィンを脇に挟んでから船首へ移動する。

 ダイビングポイントは、主にその日の風向きによって決まる。例えば夏場は安定して南風が吹くので島の北側、東風が吹けば西側に行くのが常なので島の全てのダイビング船が同じポイントに集中してもおかしくないのだが、余程客がいないのか、そこには彼らの船しかいなかった。

 水深三メートルほどの珊瑚の山にちょうどいい窪みがあったので、大海はそこを狙い、アンカー片手に深呼吸をしてから飛び込んだ。耳抜きをしながら潜り、アンカーをその窪みに掛ける。

 水面に浮上し、OKのサインを出すと、一喜はアンカーロープを素早く固定した。波はほとんどなく、透明度も抜群である。体験ダイビングにはもってこいのコンディションだった。

「お待たせ、ミオウさん!」

 海水を滴らせながら、フィンを外して梯子から上がる。そんな彼を、美桜は拍手で出迎えた。

「やっぱり凄いよ、キミは! よっ、海の男!!」

 口笛まで吹かれてしまい、返答に困る。しかし決して嫌ではなく、大海は照れ笑いをした。

「いつも悪いな、大海」

 不意に、頭を軽く叩かれる。手腕を買われていることは嬉しいが、本来ならワンシーズンだけのアシスタントを雇っているはずなので、大海は複雑な気持ちになった。

「よし。じゃあ潜りましょう、美桜さん」

「はい!」

 意気込んでいるのが、その返事だけで伝わってくる。大海は美桜にウェットスーツとウエイトベルト――鉛の重りを通したベルト――を身につけさせ、その間に一喜はタンクの準備をした。

 タンクはレギュレーターと呼ばれる呼吸器と、BCDという空気の出し入れで膨らんだり縮んだりするベスト状の器材に繋がれる。そのベストに腕を通して体に固定し、マスクとフィンを着け、呼吸器を咥えれば準備は完了である。

 一喜が先に飛び込み、それから美桜が船の縁から海に入った。彼の体はすぐに水面に浮かび、少し泳いで梯子を掴む。

 しばらく水面で呼吸の練習をさせ、海に慣らしてから一喜は美桜を潜らせ始めた。二人がロープを掴みながら順調に潜っていくのを確認しつつ、大海も準備を整えて水面へ飛び込む。

 初めての潜水に緊張し、スムーズに潜れないゲストは多い。酷い時にはパニックを起こしてしまうこともあるが、美桜は肝が据わっているのか、思わず感心してしまうほど上手に下りていっている。

 二人が海底に到着し、一喜が水面に向かってOKサインを出してから、大海はBCDの空気を抜いて潜っていった。水深は五メートルほどで、周囲にはカラフルな珊瑚の塊がいくつもあり、熱帯魚たちの数も種類も申し分ない。潮流もなく、これなら落ち着いてダイビングを楽しんでもらえそうだった。

 海底でも少し呼吸の練習をし、美桜の状態が安定していることを確認してから一喜はゆっくりと動き始めた。その後ろを美桜が這うようについて行き、大海は少し上の方で浮きながらカメラを構え、その様子を撮影していった。

 ダイビング中はもちろん話せないので、生物の説明などをする時は水中スレート――磁気ペンで文字が書ける小さなボード――を用いて文章で伝えるしかない。背後から表情を見ることはできないが、美桜は一喜の解説を何度も頷きながら熱心に聞いていた。

 どうやら二人はカクレクマノミをじっくり観察しているようだ。後で撮っておこうと考えていると、呼吸と泡の音に交じって、どこからか聞き覚えのある声が聞こえてきた。


それは、今でも時折島中に響き渡る、人魚の歌声だった。


 まさか、と思い目を凝らして辺りを見渡す。やがてリーフエッジの方からイルカのような海洋生物の影が見えてきたが、それはイルカでもサメでもなかった。人のものとしか思えない両腕と長い髪が、確かに生えていたのだ。

 大海は予備の呼吸器でタンクを叩き、一喜を呼んだ。一喜が気づいてから人魚のいた方角へ指を差したが、その時既に人魚は姿を消していた。

 しかし、その代わりに別の生物が現れた。マンタだ。リーフエッジの向こう側で、藻掻くようにぐるぐると同じ場所を泳ぎ回っている。

 不審に思い近づくと、その頭部には漁獲用の網が絡まっていた。破れた箇所の多い古びたそれは、恐らくどこかで漁師が捨てたものだろう。当然ながら、マンタ自身がそれを外すことはできない。

 居ても立っても居られなくなり、大海は一喜のダイビングナイフをケースから抜き、全速力でマンタのもとへ向かった。その体を傷つけないよう、動きを見ながら慎重に網を切り裂き、引き剥がしていく。

 網は無事に取れて、マンタは自由の身となった。大きな鰭を翼のようにはためかせ、悠々と泳ぎ去っていく。その姿が見えなくなってから大海は海面に浮上し、てぃだぬかじの船まで戻っていった。

 船に上がり、回収した網を引き上げ終わった頃に一喜と美桜も帰ってきた。大海が縁から顔を覗かせると、客の前であることを忘れて一喜が怒りの声を上げる。

「馬鹿野郎、何考えてんだお前は!? そのナイフでマンタやお前がケガしたらどうするんだ!! ナイフがなくても体当たりされただけで大事故になるんだぞ!?」

「ご、ごめんなさい……」

 覚悟はしていたものの、やはり実際にお叱りを受けると縮こまってしまう。

「まぁまぁカズキさん、ヒロミくんはマンタを助けてあげたんですから……」

「甘やかさないでください、美桜さん。何事もなかったから良かっただけで、あれは本当に危険な行為だったんです。もう二度とするなよ大海、わかったか!?」

「はぁい……」

 素直に反省しつつ上がってくる美桜の手を取り、床に座らせて器材を外した。続いて一喜も船に上がり、大海は潜降ロープを引き上げる。

「はい、ミオウさん。喉乾いたでしょ」

「ありがとう。カッコ良かったよ、ヒロミくん」

 さんぴん茶の入ったコップを受け取ってから、ウインクする美桜。大海は、困ったように笑って見せた。

「……ねぇ、ミオウさん。聞こえたよね、人魚の歌」

 耳打ちをして尋ねたが、彼はきょとんとした顔でこう言った。

「ううん、全然?」

「えっ……」

 美桜が嘘を吐く理由はない。ならば、彼の傍にいた一喜にも聞こえておらず、大海しか気づかなかったということになる。考えてみれば水中で歌声を出すことはできないが、ならばどのような手段で大海に聞かせたというのだろうか。

「大海、そろそろ帰るぞ」

 携帯灰皿に吸い殻を入れながら、一喜が言った。再びマスクとフィンを装着して海に入り、アンカーロープを伝って潜っていく。

 アンカーを外して船に戻り、梯子を掴む。すると、海の彼方から再びマンタが現れた。背中の白い傷跡から察するに、先ほどと同じ個体で間違いないようだ。

 急に加速して下の方へ潜ったかと思うと、マンタはそのまま勢いよく水面へ上がり、そのまま空中へ飛び出して見事なジャンプを披露した。そして大きな飛沫を上げて水中に戻り、そのまま泳ぎ去っていく。

「す、凄い……!! マンタって跳ぶんですね!?」

「ええ、でも直接見たのは俺も初めてです……」

 衝撃的な光景に心を奪われたのか、数分前の怒りはすっかり静まってしまったようだ。

「きっと、ヒロミくんにお礼を言ってくれたんですよ! ね、カズキさん!!」

 興奮が冷めない美桜に説得されて、ばつの悪い顔をする一喜。

「……今回は、マンタと美桜さんに免じて許してやる。だが、次はないからな」

「うん、もうしないよ。ごめんなさい、カズキさん」

「それにしても、どうしてここにいたんだろうな? まだマンタのシーズンじゃないのに」

 一喜の言う通り、マンタの時期はまだ五か月ほど先である。繁殖期に石垣島のポイントへ向かうルートで見かけるのがほとんどだが、大海たちが潜った場所はその道筋からは大きく外れているので、例年の傾向を踏まえて考えると極めて異様な出来事だ。

 やはり、あのマンタは人魚に導かれて大海たちのもとへやって来たのかもしれない。そうだとすれば、マンタが現れる前にあの歌が聞こえてきたことにも頷ける。

 歌声だけならまだ言い逃れができたかもしれないが、これでもう認めざるを得なくなった。人魚は、確かにこの島の近海にいる。しかし、何のためかは未だにはっきりしない。やはり、迫り来る危機を彼らに知らせるためだろうか。それとも、他に理由があってのことだろうか。

 ビーチへ戻る船の上で、大海は髪から潮水を滴らせながら物思いに耽っていた。



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