第3話

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 次の日から、俺たちは早速作業に取り掛かった。小説は未完成のものを使うことにしたので、ある程度のあらすじを彼女に伝え、挿絵と表紙の構想を練ってもらった。デジタルで絵を描くための道具とアプリは姉が持っていたので、彼女はそれらを借りて作業を進めた。

 原稿は無事締め切りまでに完成し、印刷会社へのデータ送信を終えた瞬間、俺たちは万歳をして喜び合った。あとは、SNSでの告知を済ませ、会場へ向かうだけだ。

 当日は、うだるような暑さと湿度だった。しかし、熱中症対策は万全である。冷たい水の入った水筒二本に生理食塩水の粉末、扇子に熱冷ましシート、濡らすだけで冷感を出す百均の首掛けタオル、保冷バッグの中に入った大量の保冷剤に帽子、そして日傘。気合い十分の装備で会場へ乗り込み、自分たちのスペースを探す。

「A21b、A21b……あっ、ありましタ! あそこでス、シュンヤサン!!」

 彼女が指さした先に、確かに俺たちのスペースはあった。そこに、大きな段ボール箱が置かれている。その中に、完成した同人誌が五十部入っているはずだ。

 高鳴る鼓動を静めるように、深呼吸をしてからカッターで浅めに切り込みを入れる。蓋をゆっくりと開けると、そこにはみっちりと俺たちの作品が詰められていた。

「シュンヤサン! スゴイでス、ちゃんとできてまス!! 素晴らしいでス!!」

「ああ、出来てるな! 良かった、本当に良かった!!」

 当たり前のことに感極まってしまい、涙目になりながら俺たちはまた万歳をした。周囲の視線なんて気にしない。俺たちにとって今大事なのは、一生に一度かもしれない感動を共有することなのだから。

 しばらくして落ち着くと、俺たちはスペースの設置作業を始めた。机にシートを敷いたり同人誌を置いたり値札を立てたりと、意外とやることは多いのである。

「あっ、アキサン! おはよございまス!!」

 タオファさんがサークルのポスターを飾ろうとした時、隣のスペースの女性に声をかけた。アキさんということは、つまり本物の織田明姫さんということか。俺が見遣ると、そこにはショートボブの小太りの女性が、自信なさげな表情で小さく会釈していた。歳は、俺と同じぐらいだろうか。

「おはよう、タオファさん。今日はお隣さん同士、よろしくね」

「ハイ、よろしくお願いしまス! アキサンがトナリで、私、トテモ嬉しい!!」

「ありがとう。えっと、そちらの方は、七夕祈さん?」

「あっ……はい、初めまして。今日はよろしくお願いします」

 俺は本来の人見知りな性格を発揮して、どぎまぎと挨拶をした。

「初めまして、祈先生。私、ドロポスでいつも作品読んでました。良かったら、一部頂けませんか? タオファさんとの合作、ぜひ拝見したいんです」

「あっ、どうも、ありがとうございます。あの、いつもお手紙の仲介、ありがとうございました。アキさんのも、一部頂けますか?」

「えっ、いいんですか? 私、絵が下手で、あんまり自信がないんですけど……」

 彼女が視線を落とすと、俺は少し声を強めて言った。

「そんなことは関係ありませんよ。大事なのは、推しへの愛なんですから! むしろ、文しか書けない俺にとって、漫画が描けるアキさんのことが羨ましいくらいです」

「そうですか……? では、お近づきの印ということで。お代は結構です」

「いえいえ、そんなわけにはいきません! 俺も払いますよ」

「私も、アキサンの同人誌、買いたいでス!!」

 そう言うと、タオファさんも俺に倣って五百円玉を差し出した。

「じゃあ、お言葉に甘えて……ありがとうございます、本当に」

 アキさんは恥ずかしげに五百円玉二つを受け取り、俺たちに同人誌とお釣りを渡した。

「ありがとうございまス、アキサン! シュンヤサン、アキサンは、トテモ優しいでスよ! 空港に来てくれテ、車デ家まデ送ってくれテ、歯ブラシとタオルを貸してくれましたでス!!」

「えっ……?」

 俺が理解し兼ねていると、アキさんが事情を話してくれた。

「最初の一泊目は、私の家に泊まってくれたんですよ。うち、成田空港から近いので。スーツケースがなくなったって言ってて、彼女、車の中でもずっと泣いてて……だから、いつかどこかのホテルから持ち帰った未使用の歯ブラシと新しいバスタオルを貸してあげたんです。夜中だったから、下着は買えなかったんですけど」

「な、なるほど……」

「私、びっくりしたんです。お二人が、合同サークルとして盆コミに参加するって知って。だって、てっきり今頃観光を楽しんでいるんだろうなと思ってたから……」

 本来なら、それから東京、京都、奈良と旅行を続けるはずだったのに、ホテルの予約ができていなかったせいで、俺たちは今こうして二人でいて、合作まですることになった。財布まで失くしてしまったタオファさんには悪いけど、俺にとってはとても幸運な偶然だったわけだ。

 しかし、今思うと不自然だ。一か所のホテルの予約が取れていなかったのならわかるが、全ての予約が白紙になっていたなんてことがあるだろうか。

「皆様、大変お待たせいたしました。ただいまより、一般の方の入場を開始いたします。押し合わず、ゆっくりとお進みください。本日は、ご来場いただき誠にありがとうございます」

 気づくと、既に一般客の入場時間となっていた。アナウンスが鳴りやまぬ間に、大量の腐女子たちが押し寄せてくる。盆コミの会場は、男性向け、女性向け、創作など、ジャンルごとにエリアが振り分けられているので、ここに来るのはほとんどが腐女子なのである。

 そして、そのうちの数人が駆け足で俺たちの前にやって来た。三つ編みのお下げに眼鏡がトレードマークの、まるでメイド服のような衣装を纏った女性が、半ば興奮気味に俺たちに尋ねてくる。

「あのっ、七夕祈先生とモモカ女史ですか!? 私っ、お二人の大ファンなんです!! しかも、モモカ女史は初めてのサークル参加で、いきなり祈先生と合作だなんて……もはやご褒美です!! 友人にも頼まれておりますので、三部ください!!」

「は、ハイっ!!」

 メイド服の彼女は、大声を張り上げながら頭を下げてお金をタオファさんに差し出した。金額は千二百円ジャスト。きっとイベント慣れしていて、財布の中には千円札と百円玉が大量に入っているのだろう。

「ありがとうございます、これからも頑張ってください! それでは、失礼します!!」

「ありがとうございました!」

「あっ、ありがとうございましタ!!」

 彼女に負けじと大声で見送ると、次々とお客さんがやって来た。彼女たちの話を聞くと、やはりモモカさん、もといタオファさんの薄い本――同人誌の別名――を買えることがとても嬉しいようだった。その中には、有難いことに前回出品した俺の本を買ってくれた人もいた。

 五十部は多すぎだっただろうかと心配していたが、それは杞憂に終わった。なんと、一般客の入場開始時刻からわずか二十分足らずで合同誌は完売してしまったのだ。俺の本はまだ数部残っているので、タオファさんの人気が如何なるものであるかを見せつけられたようなものだ。しかし、なぜか誇らしげに思ってしまう自分がいる。

「アイヤー……もう終わってしまいましタね、シュンヤサン」

 予想外の売れ行きに圧倒されたのか、疲れ切った声でタオファさんが言った。背もたれに寄り掛かると、パイプ椅子特有の軋む音がする。

「タオファさんのお陰だよ。本当にありがとう」

「ソ、ソンなことありませんでス! シュンヤサンの小説がなかっタラ、私、参加できませんでしタかラ!!」

「でもさ、タオファさんのファンだっていっぱい来てくれたじゃん。今度イラスト本出してくださいっていう人、結構いたよ?」

「……ハイ、本当に、嬉しいかったデス。日本に、私の絵、好きな人いル……信じられませんデス」

「良かったね、タオファさん。初めてのイベント参加、楽しかった?」

 すると、横からアキさんが話しかけてきた。アキさんの本は、開始時刻からあまり減っていない。

「ハイ、トテモ楽しいでしタ!!」

「でも、まだ自分が欲しいものを買ってないでしょ。俺、ここにいとくから、買い物行ってきなよ」

「え、いいでスか?」

「もちろん。あ、俺と姉貴のお遣いもよろしくね」

 そう言って、一枚のメモを手渡す。俺と姉貴が欲しい作品を売っているサークルさんの名前とスペースの場所、そして同人誌のタイトルが書かれてあるメモだ。姉貴も当然参加したがっていたが、今年はお袋と一緒に両親の実家巡りをすることになったのだ。どうせオヤジどもに早く結婚しろだの何だのと言われるに決まってるわ、と文句を垂れていたが、それまでは毎年俺が行ってやっていたんだから感謝して欲しいぐらいである。

「祈先生。申し訳ないんですけど、私の荷物、見ててもらえますか? ちょっとお手洗いに行きたくて……」

「あ、もちろんです。良かったらそのまま買い物に行っちゃっても大丈夫ですよ」

「……それは、どうせ私の本なんか売れないだろうからってこと?」

 急に低い声で言ってきたので、少し気後れしてしまった。表情も、気のせいか僅かに険しくなっている。

「えっ……あ、いや、俺がアキさんの本を売ってもいいなら、っていうつもりで言ったんですけど……」

「……お優しいんですね、祈先生。今のは冗談です、すみません。じゃあ、もしお客さんが来たら、お願いします」

 瞬時に柔和な顔に戻し、小さく会釈してから彼女は去っていった。少し速くなった脈は、まだ収まりそうにない。

「ただいまでス、シュンヤサン! お買いモノ、間違ってませんでスか!?」

 タオファさんは、十五分ほどで戻って来た。驚いたことに、頼んだ品々は完璧に揃えられている。

「凄いじゃん、タオファさん! 一つも間違ってないし、足りないものもないよ! ありがとう!!」

 俺が興奮気味に叫ぶと、えへへ、と嬉しそうにはにかむ。

「良かたでス。私、ユウカサンとシュンヤサンの役に立ちましたでスね!」

 そう言いながら、再びパイプ椅子に腰掛ける。アキさんはまだ戻って来ないので、やはり買い物に行ったのだろうか。

「シュンヤサン。日本の人タチ、本当に、優しいでスね。私が日本語間違えてモ、笑顔で話してくれましたでス。中国人でスと言ってモ、全然、嫌がられませんでしタ」

「それは良かったけど……タオファさん、日本人の皆が皆、優しくて親切なわけじゃないよ?」

「わかてまス。中国人も、どこの国モ同じでス。いい人いる、悪い人いる、当たり前。でモ……」

「でも?」

 彼女の声がなぜか小さくなり、イベント会場の雑踏に紛れそうになったので、耳を彼女の方に近づけた。

「シュンヤサン、『井の中の蛙(かわず)大海(たいかい)を知らず』ッテ、知ってまスか?」

「ああ、もちろん。あれ、もとは中国の言葉なんだよね」

「そです。でモ、日本人が続キを考えてくれましタ、聞いたコトありまスか?」

「続き?」

「ハイ。『井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る』……カエルは井戸ノ外ノ世界、知りまセン。大きナ海、知りまセン。でモ、青い空ノ美しいは知っていまス。ソンな意味でス」

「へぇ……」

 外の世界のことは知らないけれど、身近なものの美しさや大切さは知っている――そんな意味を込めて、蛙を慰めるために考えた言葉だろうか。だとしたら、その続きを考えた人は、心優しい人に違いない。

『李(リ)桃(タオ)華(ファ)お嬢様ですね?』

 微笑ましい話に耳を傾けていると、突然凄みの利いた男の声が響いた。しかも中国語だ。正面を見ると、まるで政治家や要人を守るSPのような恰好をした、サングラスと黒いスーツを着た背の高い男が二人立っていた。

『こんなところで何をされているのですか。お祖父様とお祖母様が心配していらっしゃいます。すぐに上海へ帰りましょう』

「…………」

 男は手を差し出したが、タオファさんは黙ってそれに応えようとしない。それどころか、瞬きを忘れ、微かに呼吸が荒くなり始めている。

「シュンヤサン……」

 震える手で、俺の手を握る彼女。その直後、彼女は俺を連れて走り出した。何とか貴重品の入ったバッグだけは掴めたが、それ以外は全てスペースに置いてきてしまった。

『待て、待ちやがれっ!!』

 男たちは吠え、俺たちを追いかけ出した。イベント会場が女性たちの悲鳴に包まれ、パニックに陥る。そのお陰で、男たちはうまく俺たちを追うことができなくなったようだ。やがて彼らの姿は見えなくなったが、それでも彼女はその足を止めようとせず、真っ直ぐに最寄り駅へと急ぐ。

「ちょっと、どうしたんですか、タオファさん!?」

 俺は彼女の前に出て力の限り叫んだが、彼女はそれを無視して懸命に走り続ける。駅に到着し、改札を通り、出発しようとしている電車に駆け込んで何とか乗車したところで、ようやく彼女は話し出してくれた。但し、耳元で、子供が内緒話をするかのように。

「ごめんなサイ、シュンヤサン。あの人タチ、キット、Chinese Mafiaでス」

「はっ……!?」

 意味がわからず、それしか返せない。すると、次に彼女は、電車のドアの上の液晶画面を指した。ちょうど、ニュースの画面になっていた。そこに出てきた顔写真は、タオファさんのものだった。けれど、眼鏡はかけておらず、髪も下ろしていない。それどころか、茶色に染めておらず黒髪のままである。一見別人のようだが、間違いなく彼女だ。画面には、このように表示されていた。

『中国最大手の通信会社・棗紅(ツァオフォン)の令嬢、李(リ)桃(タオ)華(ファ)さんが日本にて行方不明。現在、各都道府県の警察が捜索を急いでいる』

「え……!?」

 あまりの事態についていけず、開いた口が塞がらない。俺の体も震え始め、冷や汗も出てきた。

「後デ、全部話しまス。トニカク、急いデ帰りまショウ」

 コクコク、と頷くことしかできない。寒気もしてきて、貧血を起こして倒れそうになる。だが、ここで連中に捕まるわけにはいかない。タオファさんの言う通り、彼女が捜索されている行方不明者だとばれないように、かつ出来るだけ早く帰宅するのが先決だと悟った。



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