第二五五話 シャルロッタ 一六歳 弑逆 〇五

「……ウインガー子爵はまだ陛下をお連れできんのか……」


「今のところは……」

 王都の地下に広がる地下水路に身を潜めている一団、中立派貴族達のアルセスト伯爵は部下へと尋ねるが困ったように首を振る部下達を見てため息をつく。

 国王救出作戦は実働部隊であるウインガー子爵と、安全に王都外へと連れ出す護衛役のアルセスト伯爵の二役が存在している。

 アルセスト伯爵自身は中立派と言っても強硬策を好まない穏健派であり、戦争自体を嫌ってどちらの派閥にも属さなかった人物だ。

 今回行動を起こしたのは、王国を覆う戦乱の予兆に心を痛めたことも確かだが、それまで中立派は王国貴族内において権力闘争の渦からは遠ざかっている。

「……まだ待つしかないか……」


「ですが、ここで国王陛下をお救いできれば我々の勢力が大きく拡大しますな」

 基本的にイングウェイ王国の政治は元来複数人いる王位継承権を持つ王族とその派閥によってバランスをとってきた。

 中立派貴族はそのどちらにも属さないが、その時代ごとに派閥を転々として生きているものが多い……日和見主義と言われても仕方のない貴族達の総称とも言えた。

 だが……その中立派の権力が拡大すれば……とアルセスト伯爵は内心ほくそ笑む、先祖代々アルセスト伯爵家は王家に忠誠は誓ってはいるものの重職を勤めた経験はない。

 だが大きな功績を上げられれば……現在主流となっている第一王子派に対しても、それに対抗しようとしている第二王子派へも一定のインパクトを与えられるのだろう。

 それを手土産に有利な立場で交渉を進めたい、というのが彼が描いた青写真ではあったのだ。

「……何かきますな」


「……ウインガー子爵か?」

 地下水道の中は数年前に突如神聖なる魔力が溢れ、汚れひとつ無い清浄な空気の流れる場所へと変貌している……長時間身を隠すにはちょうど良い場所なのだが、そこへ水路の方からぱしゃん、と何かが水を叩くような音が聞こえて全身がハッとして身を硬くしながらも剣の柄へと手を伸ばした。

 地下水路にはほぼ動物の類は住んでいない……以前は不衛生な超小型の魔物なども散見されたが、清浄なる魔力の影響なのか、そういった魔物は一掃され姿を消しているはずだ。

 それも奇跡だという者がいる……ちょうど時を同じくして第二王子クリストフェルが長らく患っていた病魔から解放されたこともあり、信心深い者達は女神の慈悲なのだと話していたのだが。

 ぱしゃ……ぱしゃ、と水の中を何かが進む音と共に、水路に人影のようなものが見えアルセスト伯爵はそちらへと目をこらす。

 水の中から彼ら一団を見守っているものがいた……美しい黄金の髪の毛が水面に広がっており、鼻のあたりまでが水に浸かっているものの美しい青色の瞳とその頭に乗せられた小さな冠を見て、彼らは思わず声をあげそうになった。


「ひ、妃殿下……! ご無事でありましたか?!」

 水の中にいるのは紛れもないイングウェイ王国王妃ブリューエット・マルムスティーン……元々はクイーンズライチ侯爵家の令嬢であり、若かりし頃は絶世の美女とまで謳われたその人が水の中からじっと彼らのことを見つめていることに違和感を覚えつつもアルセスト伯爵は恭しく彼女へと頭を下げた。

 だがブリューエット王妃は警戒を続けているのか、水面から鼻のあたりまでしか顔を見せずにじっと彼らのことを見つめている。

 その様子に訝しげながらもアルセスト伯爵はなんとか敬愛する王族の一人を、この王都より救い出そうと敵意がないことを示すように両手を広げて話しかけた。

「妃殿下、国王陛下の忠実なる僕であるアルセストでございます……国王陛下につきましては忠実なる臣下であるウインガー子爵がお助け申している最中……ここは危のうございます、妃殿下もさあこちらへ……」


「コク……オウ? チュウジツ……」


「妃殿下……?」

 ブリューエット王妃は水の中でゴボゴボと何かを考えるように言葉を発する……そしてアルセスト伯爵の言葉を理解したのか、納得をしたのかわからないが黙って彼らの方へと水の中をゆっくりと進みながら近づいていく。

 ホッとした気持ちでアルセスト伯爵は微笑みつつ、周りにいた兵士たちに武器を下ろすように手を振る……だが、その笑顔はすぐに凍りつくことになった。

 水の中を進むブリューエット王妃は水面を滑るように次第にその姿を現していく……下半身までは裸体で、豊満な肉体や白磁のような美しい肌はさすが絶世の美女と謳われた王妃だけはあると思えた。

 だが腰のあたりからおかしなことが起き始める……美しいはずの腕が水面より何本も突き出し、次第に様々な表情をしたブリューエット王妃の顔がいくつも水面より姿を現したのだ。

「コクオウ……タスケ……ワタシ……ハラヘッタぁ!」


「……ブリューエット妃殿下……?」

 アルセスト伯爵だけでなく、その場にいた兵士たち全てがその冒涜的な姿を目にして思考が完全に麻痺してしまった……それは幾重にも腕や足がまるで出鱈目に生えた肉塊のような生物だった。

 そしてその腕や足の間から美しいはずの王妃の顔が彼らを見て微笑み、ある顔は憤怒の表情を浮かべ……そしてある顔はまるで泣き叫ぶような表情を浮かべながら一斉に訳のわからない言葉を喚き散らしているのだ。

 そしてその頂点、肉塊の上に美しかったブリューエット王妃の腰から上が生えた奇怪な姿……幾重にも生えた足が醜く捩れながら水面を掻き分け、その狂気に近い姿を完全に表した。

 この場にシャルロッタがいればその冒涜的な怪物の正体が分かったであろう……だがこの場にいたアルセスト伯爵や中立派に属する兵士たちは混沌に関する知識が著しく欠けていた。

「きアアアアアアアアッ!」


「か、怪物が……うわああああッ!!」

 ブリューエットだったはずの奇怪な怪物……それは混沌の眷属へと堕ちた人間が変異した新しい生命。

 人間であった生命体を強制的に変異させ、思考能力を犠牲に回復能力を強化し、肉体を破壊しながら突き進む狂気に満ちた存在が凄まじい速度で彼らとの距離を詰める。

 そして混沌の眷属へと強制的に進化した意志なき怪物……堕落の落胤バスタードと呼ばれる飢餓状態の猛獣が、呆然とした表情のまま固まるアルセスト伯爵の喉を食いちぎった。

 血飛沫を上げながら、笑顔のまま絶命するアルセスト伯爵がゆっくりと倒れ伏す中、兵士たちは慌てて死んでいく主人を守ろうと剣を引き抜くと、それを見た堕落の落胤バスタードが悲鳴とも咆哮ともつかない甲高い声をあげながら兵士たちへと襲い掛かった。

「にくいああアアアアアアアッ!」


「う、うわああああああッ!」

 怪物の体から出鱈目に生える腕や脚はその自重を支え切れないのか、へし折れてあらぬ方向へと捻じ曲がり真っ赤な血を吹き出しながらも目の前にいた一人の兵士を踏み潰した。

 砕け散る肉体と血飛沫が舞う中、自らの肉体が破壊された痛みで悲鳴をあげる王妃の顔や、その痛みすら感じないのかケタケタと狂気に満ちた笑い声を上げる顔が兵士たちの恐怖をさらに掻き立てた。

 雄叫びをあげて堕落の落胤バスタードへと切り掛かる兵士たち……肉体は普通の人間と一緒なのだろう、剣が突き刺さった顔からは脳漿と血液が吹き出し、切り裂かれた腕は地面へと落ちたあとに魚のように跳ね回る。

「痛アアアアアアア! タスケ……アアアアアッ!」 


「この……怪物め!!」

 兵士たちは堕落の落胤バスタードの攻撃を躱しながら、手に持った剣を振るって何度も何度も切りつけていく……怪物の動きは遅く肉体は恐ろしく脆いようで血まみれになった怪物は何度も悲鳴をあげながらも、必死に肉体を再生しようと腕を足を、そして出鱈目に顔を生やしながらその大きさを変えていく。

 だが無尽蔵に見えた回復能力は次第にその勢いをとめ、あたりの壁や床に肉片と血液を撒き散らしながらその活動を止めていく。

 何度も剣を突き刺した兵士たちは、堕落の落胤バスタードが完全に動かなくなったことを理解するまで、執拗に怪物の肉体を破壊したあと、肩で息をしながらようやく攻撃の手を止めた。

「……し、死んだか……?」


「な、なんなんだよ……こいつは……」


「顔は妃殿下だった……肉体はわからん……伯爵は?」

 一人の兵士が地面に倒れたままのアルセスト伯爵を抱き上げるが、すでに喉笛……いや首を半分もぎ取られた伯爵は絶命しており、抱き上げた勢いでブチブチという音を立てながらその首が地面へと落ちていくのを兵士たちは呆然とした表情で見つめていた。

 中立派貴族の筆頭かつ主人とも言えるアルセスト伯爵がいなくなってしまったら、彼らはどうなるのだろうか……? どうして良いのかわからずに兵士たちはお互いの顔を見合わせる。

 だがそこへパチパチとゆっくりとした拍手が聞こえて、兵士たちは音の方向へと目をむける。

 そこには、鳥を模したような仮面を被りその眼窩にはどこまでも深く暗い赤色の瞳が光る不気味な黒いローブ姿の男が立っていた。

「おめでとう、おめでとう……これによって現在の国王夫妻と宰相閣下は非業の死を遂げられた……犯人は全てアンダース国王代理、いや今後は国王陛下となられるが、彼の名によりその場で殺されることになる」


「お、お前は誰だッ!」


「雑兵に名乗る名など持ち合わせてはいないのだが、黄泉路の土産に教えてやろう……我が名は闇征く者ダークストーカー

 漆黒の魔人はまるでおどけるような仕草で兵士達へと深々とボウアンドスクレープをしてみせるが、その仕草はまるで高位貴族としても通用するくらい洗練された所作であった。

 少しの間をおいて闇征く者ダークストーカーは顔を上げると兵士たちの数を数えるかのように何度か頷くような仕草を見せたあと、ゆっくりと彼らとの距離を詰めるように歩き出す。

 一歩一歩闇征く者ダークストーカーが前へと進むたびに、兵士たちの心に抗えない恐怖と絶望感が満ち溢れる……その魔人が発する闇の魔力は強大であり、普通の人間が意識を保つことすら困難なくらい濃密かつ邪悪な者だったからだ。

 兵士たちは震えながら目の前に迫る死を感じ、心の中で女神へと助けを乞う……それが絶対に聴き入れられないものだったとしても、それ以外にこの絶望的な状況を逃れる術はないかのように思えたからだ。

 そんな兵士たちを見てまるでくだらないものでも相手にしているかのような冷たい声で闇征く者ダークストーカーは呟いた。


「……つまらんな、人間など所詮はこの程度の生命体……やはり強き者を殺すまではこの心の飢えは満たされないものらしい」

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