(幕間) 少女 〇一
——黒くしなやかに輝く毛皮を持つ幻獣が街の中を歩いているが……その首に付けられた首輪に光る紋章が彼にその自由を与えている。
「暇ですなあ……我も平和に慣れすぎて緩んでしまいそうです……」
幻獣ガルム族のユル……今は人間界において長き旅路の途中、契約者を得てしばらくこのイングウェイ王国にあるインテリペリ辺境伯領の領都であるエスタデルの街をのんびりと散歩しているところだった。
今彼は契約者であるシャルロッタ・インテリペリ……素性を隠してはいるが、異世界で魔王を倒した元勇者の少女から自由にしていて良いと告げられて暇を持て余して散歩に興じているところだったのだ。
シャルロッタの元には王都……イングウェイ王国の首都から彼女の婚約者であるクリストフェル・マルムスティーンという金髪の少年がやってきており、お茶を共に楽しんでいるためだ。
「……それにしてももう少ししたらここから王都に移住するというのに、
シャルロッタは少し迷惑がっているが、クリストフェルは頻繁にエスタデルへと赴き、美しい婚約者の顔を見に来るようになっている。
本来の目的はシャルロッタの父であるクレメント辺境伯との政治的な話ということだが、はっきり言ってそちらの時間よりもシャルロッタの顔を見つめながら笑顔で語りかけている時間の方がはるかに長い。
まあそれだけご執心ということなのだろうが……シャルロッタも身体的にはすでに子を産める年齢、そういった生理現象も起きていることもあるため、いつ子供を作るのだろうなぁとユルは通りを歩く親子連れを見ながら思いを馳せる。
婚約者殿とシャルロッタの子供であればさぞかし見目麗しい子供が生まれるのだろうな……我が世話して立派な戦士に育てなければと今からそんな未来を想像してしまい口元が緩む。
だが……いきなりユルの尻尾をグイッと引っ張った存在に気がつき、彼は驚いて背後へと顔を向ける。
「え? な、何……?」
「ママぁ……ママを探して……」
「……は? ママ? 誰が? え? ちょっと……」
彼は自分の尻尾をしっかりと握る小さな少女の存在に気が付き、ぎょっとした顔で少女の顔を見つめる。
歳の頃は出会った頃のシャルロッタよりももっと小さい……六つか七つ程度だろうか? 青色の髪は少しくすんでおり、生活は決して楽ではないことがわかる。
庶民というやつですな、とユルはその少女の格好を見て少しだけ哀れに思った……シャルが貴族の娘ということもあって何不自由なく生活をしているのを見て感覚が麻痺しているが、大半の庶民は質素な服装や食事などで日々を過ごさねばならない。
インテリペリ辺境伯領は安定している……はずだが、それでも貧困に喘ぐ層は少なからずとも存在しており、領内で起きる犯罪の大半はそう言った貧困から生まれるものなのだ、とシャルロッタが話していたことを思い出す。
街中を散歩する時には尻尾には炎を灯しておらず、周りからの目はちょっと大きな狼、という感じで見られているはずなのだが、それにしてもママ?
ユルはその少女の顔をじっと見るが、その少女は青い髪と同じくらい明るい青い目にいっぱいに涙を溜めてガルムの目をじっと見つめている……これは断れないやつだな、と軽くため息をついてから今にも泣き出しそうな少女へと話しかけた。
「あ、あの少女よ……我はママでは……」
「ママぁ……」
少女の目に大粒の涙が浮かぶ……ええ……と困惑しながらも、ユルはそっとその少女の顔に大きな前足を優しく寄せて涙をぬぐう。
ここではない異世界、ガルムたちの生まれ故郷にはユルの兄弟……いやもうすでに異母兄弟なのかなんなのかわからない存在がたくさんいた。
そこでよく年下のガルムをあやしていたことを思い出して、ほんの少しだけ懐かしい気持ちになった彼は、相手を傷つけないように優しく少女の頬を舐めて落ち着かせようとする。
どうやら母親とはぐれてしまったのか、寂しそうな表情でじっとユルのことを見つめている……幻獣ガルムにも情や愛といった概念はあり、特にシャルロッタと契約してから彼女の影響を受けている彼は、目の前の少女を放置できないと考えた。
シャルロッタ自身が弱った人や困り事を放置しないタイプで可能な限り手助けをしようとする性格ということもあり、それに影響を受けているのかもしれないな、と彼は考えた。
昔だったら人間の少女が泣いたところで意にも解さなかったはずなのに……と思うが、それでも契約者の意志に背くことなどはできようはずもない。
「……ママ殿を探しましょうか、我はユル……少女の名前は?」
「ユーリ……狼さんは一緒にママを探してくれるの?」
「ええ、我が共に探しますよ……さあユーリ我の背中に乗ってください」
ユルは少女の背丈でも彼の背中に乗れるように地面へと伏せると、ユーリはユルの黒い毛を掴んで彼の背中へとよじ登っていく。
しっかりと捕まっているのを確認するとユルはゆっくりと体を起こしていくが、ユーリはこれだけ大きな生物の背に乗るのが初めてだったのだろう、目を輝かせながらわぁ……と感嘆したような声を上げる。
ユルからするとシャルロッタ以外の人物を背に乗せるのは初めてだ……契約前であれば人間如きをのせるなどあり得ないことなのに。
だが、この少女が大喜びして満面の笑みを浮かべていることに内心温かい気持ちを感じてホッとした気分になってしまう……なんだろうか? この感情は。
「ユーリ……ではママを探しましょうか、しっかり掴まっててくださいね」
「ユーリのママ殿はいますかー? 我が保護しておりますぞー」
ユーリと共にユルはエスタデルの中を歩き回る……ユルの首につけられた首輪はシャルロッタが特別につけてくれたインテリペリ辺境伯家の紋章であり、彼が辺境伯家の令嬢と契約をした幻獣であることはこの街の人間であればよく知っている。
ちょっと恐ろしい外見だが、基本的には危害を加えて来ず、しかも親切な一面もあるということで恐る恐るながらも近づくものはいない。
また喋れるということも理解はされているため、言葉足らずなユーリの代わりにユルが尋ねてくることも最初はおっかなびっくり対応してきた住民たちもその様子を見て、特に気にせずに対応してくれるようになっていた。
「ママいない……ママがいないよ!」
「ユ、ユーリ? 泣かないでくださいね? 我が幼女を襲って泣かしたように思われるではありませんか……」
「だってママいないんだもん……ママいないの嫌!」
不機嫌になって泣き出すユーリを必死にあやすユルだが、その様子を見ても周りの住人は近寄ってこようとしない……困った、これはどうすればいいのだ? と途方に暮れかけたユルを見る周りの目はかなり厳しい。
それはそうだ、幻獣ガルムとはいえぱっと見の見た目は黒く巨大な狼に近い……この街の中ではそれなりに知られている存在であるため直接何かをされることはないが、今の状況は明らかに彼にとって不利な状況だ。
なぜ我が……と泣きたくなる気持ちを抑えながら必死にユーリをあやすユル……傍目に見てもドス黒い魔獣が小さな少女を必死にあやす姿は珍しく、周りの大人達は否応でもその姿に釘付けになっている。
街の衛兵が流石に見かねたのか、あやすユルと泣いているユーリの元へと近寄ってきたことで、ユルがギョッとした表情を浮かべる。
『ユル……貴方顔が怖いんだから住民を泣かさないでよ?』
自らの主人であるシャルロッタ・インテリペリの物憂げな表情を思い出し、慌ててユーリを咥えると脱兎のごとくその場から離れていくユル。
幻獣ガルムの脚は速く街の衛兵ではとてもではないが追いつきそうにない……十分に距離を離すためにふわりと跳躍して軒を連ねる家の屋根へと飛び移ると、その巨体に見合わぬ軽やかな音を立ててユーリを加えたユルは屋根伝いに走り始める。
ユーリからすれば驚くような光景だったのだろう、先ほどまで泣きじゃくっていた少女は満面の笑みを浮かべて大喜びしている。
「ユル! すごいね! ばーって、びゅーんってすごいね!」
「あ、はあ……背中に乗りますか?」
「のる!」
ユーリは器用に駈けているユルの毛皮をしっかりと掴むと、背中へとよじ登った後本当に嬉しそうに歓声を上げている……だが嫌いじゃない、こういう小さな少女をあやすことは彼にとっても人間を理解することにつながるため積極的にやらねばならないなと思っている。
ふとユーリにとてもよく似た匂い……ほんの少しだけ化粧の匂いが鼻につくが、だがその存在に気がつき彼は一度立ち止まると屋根の上でじっとそちらの方向へと目を向ける。
ああ……この安物の化粧品の匂いから考えるにユーリの母親は
つまりユーリにとって父親は誰かわからず、母親だけが唯一の家族なのだと、初めてそこで状況を察する……そしてその化粧の匂いに混じって汗と血の臭いが入り混じったことに気がつき、彼は背中に乗るユーリの顔をじっと見る。
どうする……血の匂いは明らかにどちらかが怪我をしたのかかなり強い……もしかしたら母親が襲われているのかもしれない。
ユルはじっときょとんと彼を見つめるユーリの目を見て考える……だが決断すると凄まじい風のような速度で駆け始めた。
「ユーリ、お母さんに会いに行きましょう……安心してください、我がいますので危険はありませんよ」
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