第39話 眠れる王子様
広大なツァーリ公爵家の前庭には彩り豊かな花壇がある。
研究室のバルコニーに机を置いて、そこでお茶をするのが私の楽しみだった。
窓を開けると、気持ちのいい風が入ってきてカーテンを揺らす。
「今日はいい天気よ」
目を閉じて光を浴びる。深呼吸し、肺の中を新鮮な空気で満たした。
振り返ると、ベッドで横たわっているジャックが見える。
すやすやと寝息を立てているけれど、その意識が目覚めることはない。
「薬草採取日和だわ。お前と一緒に行った日もこんな日だったわね」
部屋の中に戻り、ベッドの横の椅子に腰を下ろす。
ジャックの頬を撫でて、まだその身体が温かいことにホッとする。
「早く目覚めて、一緒に行きましょう。ね?」
「……」
「それでね、またお前におぶってもらうの。お前は嫌そうな顔をして、私に馬鹿って言って、私も馬鹿って言い返して、お互いに笑って……帰りにはケーキを買いましょう。サシャやリリ、ついでにお兄様やルアンにもお土産を買ってね、みんなで食べるの。あ、そういえばお前は、ケーキも作れるのかしら。作れるなら食べたみたいわ。きっと美味しいもの。みんなにもお前の料理の美味しさを広めなきゃ」
だから。
だから、お願いだから。
「早く起きなさいよ……馬鹿」
涙が滲みそうになって唇を噛みしめる。
泣いている暇なんてない。悲しむのは一瞬だけでいい。
今は、私がやれる、やるべきことをやる時だ。
「じゃあ、行くわね。隣にいるから、起きたら声をかけなさいよ」
もちろん、返事はないと分かっているけれど──
私はジャックの頬に軽く触れて、調合室に向かうのだった。
──あれから色々なことがあった。
ジャックが襲撃したルイス皇子の私兵は壊滅。
バラン公爵家の敷地内で起きたことに加え、犯人もバラン家の者だから社交界の情勢と政治的な影響を加味して箝口令が敷かれ、目撃者には金をばら撒いて事態の収拾に当たらなければならなかった。もちろん主導したのはお兄様だけど、かなり色んな方面に働きかけてくれたみたいだ。今回の事件で黒幕であるルイス自身も瀕死の重傷を負った──そう、瀕死だ。
ジャックはルイスを殺せなかった。
けれど、殺せなかったからこそ命を繋いだとも言える。
今回の事件──私がラディンに婚約破棄されてからのすべては皇帝の知ることとなったのだけど、ルイス自身が生きていることに加え、ルイスのやったことがかなり悪どいことが加味されて、第二皇子の自業自得と相成った。元々世俗に興味のない皇帝だし、これも皇位継承権争いの一環だとでも考えたのかもしれない。とはいえ、もしもルイスが死んでいたらさすがの皇帝も黙っておらず、ジャックは眠ったまま殺されていただろう。
(ほんと……危ないことばっかりするんだから)
まぁ、そうはいってもルイスも怪我をしただけで済んだわけではない。
彼は片腕を失い、シルル・バース令嬢が夜に忍び込んだとかなんとか。
利用していた女に襲われて好き放題される様は、想像するだけでも笑える。
あの愚かな女は幸せの絶頂を楽しんでるでしょうけど……まぁ、そのうち殺されるだろう。そしてルイスは自分の子を殺した男として皇位継承権から脱落する──私はそう見ている。
ざまぁ見ろ。私のジャックを傷つけた報いよ。
調合室の薬棚を漁り、私は治療プランを組み立てる。
ジャックの心臓は動いている。でも意識は目覚めない。
まるで神秘病だ。身体が光っていないけど、あれも同じような症状があった。
(……絶対に、助けて見せる)
朝と夜にジャックの様子を見に行って、昼間は研究室に籠る。
その日あった出来事を眠るジャックに聞かせる。
そんな日々を繰り返した。
──三日が過ぎた。
「今日はね、サシャとリリがうちに来たの。まぁ私が呼んだんだけど……ほら、いつまでも店を閉めておくわけにはいかないでしょ? だから今は二人に店番をしてもらってる。もちろん護衛は付けてるわ。もう前みたいなことはさせないから。お前ほど頼りになる護衛ではないけど……ツァーリの名を使ってるから誰も手出しは出来ないでしょ。あとね、あとね、サシャったらすごいの。どんどん色んなこと覚えて、私の役に立ちたいって言って来て……ね、可愛いでしょ。私とお前が拾った子だもの。あの子はいい薬師になるわ。お前もそう思わない?」
──五日が過ぎた。
「ねぇ聞いて。今日はお前のお兄様が訪ねてきてくれたわ。アランといったかしら。遠征から帰って来たみたいね。お前も結構世話になってたんでしょ? ふふ。お前が小さい時の恥ずかしい話、いっぱい聞いちゃった。話、聞こえてた? せっかく挨拶しに来たのに、全然起きないんだから。お前が起きていたらお説教しているところよ。お世話になった人にはお礼を言わないと。そうでしょ? まぁこれだけ私が世話してるのにお兄様が来て起きたら、何なのよって思うけど……でも、お前が起きてくれるならそれでもいいわ」
──一週間が過ぎた。
「ジャック。これどう思う? 医療ギルドの連中が手紙で謝って来たわ。私に無礼を働いたとか失礼なことを言ったとか書いてて謝りたいんだって。あそこも支部長が色々吐いたおかげで上層部が軒並み逮捕されて、体制が一新したじゃない。私としては会ってもいいかなって思うんだけど……お前が居なきゃお店に行く気になれないのよね。あそこは私とお母様の思い出の場所だけど、私とお前が出会った場所でもあるもの。もう一度やり直すなら、あそこから始めたいじゃない。ね。起きる気になった? いい加減、起きなさいよ……」
──二週間が過ぎた。
「ねぇ起きてよ……もう嫌なの。朝、起きた時にお前が冷たくなってたらって思うとぞっとするの! もうお前に、二度と会えないんじゃないかって……あんな喧嘩別れしたまま終わるなんて、私、嫌よ。せめて謝らせてよ。お前のこと何も分かってなかったって、お前だけに全部背負わせちゃったこと……謝らせてよ……お前だって、一人で全部先走ったこと謝ってよ。なんで起きてくれないの。どうやったら起きてくれるの……私を、一人で置いて逝かないでよ……ねぇジャック……私はまだ、お前に何も伝えてないのよ……寂しい……寂しいのよ……」
──三週間が過ぎた。
ぱしゃり、と洗面器で顔を洗い、私は鏡を見る。
あんまり眠れていないせいで目元に隈が出来ていた。
睡眠も食事も最低限でほとんど調合室にこもり、今では一時間ごとにジャックの様子を見ているけれど、ジャックは未だに起きてくれない。
(もしこのまま目覚めなかったら……どうしよう)
頭に過った嫌な想像を、ふるふると首を振って消し去る。
そんなこと、考えるだけでもダメ。
ジャックは命を懸けて私を守ろうとした。なら今度は、私が助ける番だ。
そう思っているのだけど──
こんこん、と扉がノックされた。
私が扉を開けると、お兄様が辛そうな顔をして立っていた。
「お兄様、どうしたの」
「ラピス、あのな」
お兄様は言った。
「魔薬の素材だが、そろそろ……」
「……っ」
ジャックの命はお兄様の魔薬で繋いでいる。
薬の成分は分析できたから私のほうでも量産は出来たけど……元々高級な薬草や希少素材を使っているだけあって、そう多くは作れなかった。必要なのは一日一回の投与。でも、在庫は残る二つだけ……つまりジャックの命は、持ってあと二日ということになる。
「……薬のほうは、まだ?」
首を横に振る。
どれだけ頑張ってもジャックを目覚めさせる薬は出来なかった。
──素材が足りない。
せめて伝説の薬草や魔材があれば話は別なんだろうけど。
私が公爵家でかき集められるだけのものは全部試して、それでもだめだった。
「どうしよう……お兄様」
「ラピス」
「ジャックが死んだら、どうしよう……!」
不安が、あふれ出す。
ぽろぽろと涙がこぼれて、胸が詰まった。
「わ、私、また……また置いて行かれるの……?」
「……」
「また助けられないの? 私が好きになった人は、みんな居なくなっちゃうの?」
「そんなことはない」
お兄様の腕が背中に回され、ぎゅっと抱きしめられた。
「大丈夫だ。お前は、絶対にあいつを助ける。そうだろ?」
「……そう、だけど」
「ジャックにしてもそうだ。お前を泣かせるようなことはしない。俺は話に聞いただけだが……探索者ギルドからの評判はすこぶるいいぞ。強いだけじゃない。弱いやつをいたわる優しさを持ってる……そんな奴が……お前が認めた男が、こんな簡単に死ぬわけない。だろ?」
「…………うん」
お兄様が頭を撫でてくれて、ちょっとだけ落ち着いた。
お母様が死んだばかりの頃、よくこうやって様子を見に来てくれてたっけ……。
「……ごめんな。兄貴なのに、俺は何も出来ない」
「……いいえ。お兄様はいつも私を助けてくれるわ」
ぐす、と鼻をすすり、私はお兄様の胸を押した。
「薬の調合に戻るわね。お兄様は、サシャの様子でも見てきて」
「分かった……ちゃんと寝ろよ。そんな酷い顔、ジャックに見せられないだろ」
「うん」
調合室に戻った私は薬のメモが散乱する部屋を見てため息を吐いた。
こんな時、あいつが起きてたら絶対に「汚部屋じゃねぇか!」って言うんでしょうね。そんな姿がありありと想像できて──だけど、あいつは隣の部屋で眠っていて。
「会いたいよ……」
膝から力が抜けて、私は顔を両手で覆った。
「私の傍に居てよ……ねぇ、ジャック……」
◆◇◆◇
夕焼けの光が差し込んだ頃、私はハッと目を覚ました。
目の前には寝息を立てているジャックが居る。
よかった。まだ生きてる。
(私の馬鹿……時間を無駄にしちゃダメなのに)
今は少しでも調合理論を組み立てるべき時だ。
試すべきことは全部試した。あとはもう、誰も確立していない理論を打ち立てるぐらいしか。
──コン、と。
静かに扉がノックされて、私は眉根を寄せた。
そのノックの仕方は、私が大嫌いな男が良くやるもので。
ゆっくり扉に近付き、ドアノブを回すと──
「……お父様」
「……」
黒髪短髪の精悍な男──お父様が居た。
無精ひげを生やしたお父様は私の向こうにいるジャックを一瞥する。
「まだ起きないのか」
「……そうよ」
「……そうか」
「……なに。何の用なの」
お父様は一拍の沈黙を置いて言った。
「あの男がそれほど大切か」
「……えぇ、そうよ。私の半身だもん。悪い?」
「……そうか」
お父様は背後を見やる。
私もよく知るキーラがそこにいて、何か箱を持っていた。
「これをやる」
「……これは」
その箱の中には、たくさんの超希少魔材が敷き詰められていた。
不死鳥の尾羽、ユニコーンの角、真妖精の鱗粉、精霊の涙、砂鯨の唾液……
ガラス瓶に詰められたそれらは、どれこれもが世界中を探しても手に入るかどうかの素材ばかりだ。私ですら本でしか見たことがない。
「こんなもの、一体どこで」
「シルヴィアを治療するために集めたものだ。領地に置いてあったものを取り寄せた」
「え……」
なんで、お母様の名前が。
「……お父様は、お母様を捨てたんじゃなかったの」
「妻を捨てる夫がどこにいる」
「……」
「お前の言う通り、私が妻より仕事を優先したのは事実だ。改めて話すことなど何もない」
「……言い方」
「私は間に合わなかった。けれどお前は、まだ間に合うのだろう」
お父様は踵を返した。
キーラが微笑んで私に素材を渡してくる。
「旦那様はずっと、お嬢様を心配していらっしゃいましたよ」
「……っ」
「ほんとに、不器用な親子なんですから」
くすりと笑って、キーラは一礼する。
私は手元に目を落とした。ジャックを救えるかもしれない唯一の希望を。
ぎゅっと素材の箱を抱きしめて、
「……ありがとう、お父様」
私は踵を返し、調合室へ走った。
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