夜の底からの通信

歌川ピロシキ

真夏の白昼夢

 ぱんっ


 紙袋を叩き潰したような音。音速を超えて飛翔する弾丸が放つ衝撃波だ。

 軽くて鋭い音があたしの耳に飛び込んできたと思ったら、無線機のマイクを握ったままの通信兵がゆっくりと倒れ込む。首から上がすっぱりと消えている。最初からそんなものはついてなかったかのように。

 代わりにあるのは止めどなく赤黒いものを吐き出すいびつな泉。


 ぱっつぱつになるまで膨らませた水風船が割れたみたい。生温かくて鉄臭くて、粘ついた液体を地面にまき散らす肉塊。ねっとりとまとわりつくそれは、通信機の調整をしていたあたしの髪にべったりと貼りついて、戦闘服の色を黒々と染める。

 さっきまで相棒と呼んでいた通信兵が死んだ。「兵士のあたし」は瞬時に理解したけど、「女の子のあたし」は眼の前の現実を受け入れられない。

 

「ぃ……ひぃあっ!?」


 喉が勝手にひゅぅ、と音を立て、あたしはしゃがんだままの姿勢でへたりこむ。恐怖と驚愕が体中を駆け巡り、心臓が早鐘を打つ。がくがくと震えながら、何とか隠れられそうな岩まで這いつくばって逃げ込んだ。


《――どうした!? 第3分隊、応答しろ!》


 うわずった声が無線機のスピーカーから響く。ついさっきまで相棒だった肉塊から流れ出た血の海の真ん中で、無遠慮にがなり立てているのは上官の声。岩陰で膝を抱えたままガチガチと震えて動けないあたしは、無線から垂れ流される怒声を聴きながら上官の馬鹿げた命令を思い浮かべた。


『渡河して敵の支配下に侵入、後続の本隊のために事前偵察を行え』


 こうして河を渡り、ずぶ濡れで岩ばかりの川岸にたどり着いたあたしたち第3分隊を待っていたのは、一発の弾丸だった。

 意外でも何でもない。予想通りだ。

 白昼堂々、それも準備砲撃も航空支援もないまま、見通しが良くて隠れる場所のない河を渡るなんて、撃ってくださいと言ってるようなもんだってあたしにも分かる。本隊が安全に渡れるかどうかを確認するための捨て駒だってことも、みんな分かってた。


《おい、応答しろ第3分隊! 状況を報告しろ!》

 

 応答しなきゃ、とあたしは岩陰から恐る恐る手を伸ばす。


 それが、あたしたち第3分隊を死地に追い込んだ憎むべき上官であっても。それが、安全な場所から怒鳴り散らすだけの無線であっても。だってあたしは兵士なんだから。


 ごろごろとした岩だらけの川岸を真っ赤に染める通信兵元相棒。その傍に転がる、背負い式の無線機に指先が触れようとしたその瞬間――


 パンッ!


 乾いた音と共に、近くの岩が爆ぜとんだ。飛び散る破片が腕に食い込み、ひりつく痛みに敵の存在を思い知らされた。無線機に伸ばしかけた手が勝手に引っ込む。


 怖い怖い怖いこわいコワイ……っ!


 狙われてる、間違いない。これは狙撃だ。

 第1射目で通信兵を殺し、今の標的は生き残った、このあたし!


 冷たい死の予感が頭の中を真っ白に塗りつぶしてく。内股から広がる生温い感覚。今、あたしの服を濡らすのは川の水や、相棒の流した血だけじゃない。


 真夏のギラつく太陽の下、白っぽい視界は妙に現実味がない。それなのに重苦しい恐怖だけは紛れもない本物で、あたしは本能のままに頭を抱えて丸くなって――


《敵スナイパーの位置を把握。援護するわ、待ってて》


 凛とした声に我に返る。これは……この声は……


 ビシィッ


 頭上を掠める鋭い音。続いて何かが落ちるようなくぐもった音。


《仕留めた! ニーナ! こっちだよ!!》


 間違いない。狙撃兵部隊のエース、ターニャとマーシャだ! あたしたちを見捨てずに助けに来てくれたんだ!!

 涼やかな声に導かれるまま、這うようにして水際みぎわに戻る。


 こっちだ! 早く川岸に!!


 走れ! 走れ! 走れ!!


 急げ! 追いつかれるぞ!!


 響いてくるのは味方の激励か、それともあたしの脳が作り出した幻聴か。


《今だ! さあ、あたしのとこに飛び込んどいで!!》


 たしかに響いたマーシャの声に、思い切って川の中へと飛び込んだ。何度も水に足を取られては、そのまま倒れこみそうになるけれど、へたり込みそうな全身を必死に叱咤しながらなんとか対岸まで渡り切る。岩をつかんで何とか川岸に上がろうとするけれども、力が入らずそのまま流されそうになった。


 せっかくここまで逃げ延びられたのに。口惜しさと情けなさで涙がにじむ。

 その時、涙と川の水でぼやけた視界に飛び込んできたのは、見慣れた二つの人影だった。


狙撃兵のターニャと観測手のマーシャだ。潜伏していた茂みから飛び出して、油断なく銃を構えて周囲を警戒しながらこちらに駆けつける。


「こんな所で死なせやしないよ! ほらしっかり!」


 ターニャが周囲を警戒する中、マーシャの力強い腕に引き上げられ、そのまま引きずられるように川岸から離れて茂みの中へ放り込まれた。


「ニーナ、よく頑張ったね。もう大丈夫」


 力強い、マーシャの声。狙った獲物は逃がさない。隠れた敵も見逃さない。そして、味方は決して見捨てない。戦局を支配する戦女神。

 この二人がいれば、誰にも負けるわけがないーーターニャとマーシャが居るだけで、あたし達は勇気付けられた。そう、ちょうど今のように。


「どこに居たって、あたしらがあんたを救ってみせるよ、ニーナ。だからそんな情けない顔するんじゃない」


 いたわるようなターニャの声。ああ、もう大丈夫だ。

 安心したとたん、急に視界が滲んでぼやけた。急速に世界が遠くなる。 

 ……そこから先は覚えていない。

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