アルカナ・石鹸・夜の百合 3
次の土曜日、芹菜が店にやってきた。
瑠香は以前と同じように芹菜を席に案内した。
テーブルの前にやってきた芹菜に、座って待っていた凛都は言った。
「ひさしぶりだね」
芹菜は頭を下げて、
「はい、ごぶさたしています」
「さて、きょうは?」
「いえ。あの。……先日お話しした、土井が、亡くなったんです」
「そうか。因業なやつらしいからね。きっと、ろくでもない最期だったんだろ」
「ええ。どうやら、お店の前で誰かと喧嘩をしているとき、急に気が触れたみたいに、車道に飛び出したらしく……。それはそうと、借金のことですが。土井の、代理人の人から連絡があり、違法な金利だったから、これでお互い、終わりにしましょうって。――それで、わたしももう、風俗の仕事を辞めました」
「まあ、それで、よかったのかな」
「はい。ちなみにですが、ひとつお聞きしていいですか?」
「ああ」
「土井が最後に言い争っていた相手が、黒いジャケットをきた、若い男性だって聞きました」
「そうか」
「凛都さん」
「なんだ」
「ありがとうございます。凛都さんが、助けてくださったんですね」
「なんの話だ」
そう言って、凛都はとぼけたまま、タロットカードの束をとった。
「いいから、座りなよ。なにか、まだ聞きたいことがあるんだろ?」
「ええ。まだあれから、清一と話をしていなくて。こんな、汚れたわたしを、きっと清一は蔑んで、あきれているに違いない。そう思って。……わたしは、いったいどうしたらいいのか」
凛都はカードをシャッフルし、1枚のカードを開いた。
そのカードには、天使に祝福されて見つめ合う、1組の男女が描かれていた。それは『恋人』のカードだった。
凛都は『恋人』のカードを示しながら、
「素直な気持ちで、話をするんだ。きっと、うまくいく。きみは、汚れてなんていない」
「え……。でも」
「きっと、大丈夫だ。天使に、祝福されているのだから」
その日の夜、芹菜は三井清一とカフェにいた。
窓の外には夜の街を歩く人々が見えた。
会社員の集団。騒ぎたてる大学生たち。年配の夫婦。水商売らしき着飾った女性。
清一は言った。
「話って、なんだろう。いや、たぶん、あのことだね」
「うん。わたし、ほんとうはもう、事務の仕事じゃないの。わたしは、このあいだまで、風俗の仕事を……」
そこまで言うと、清一は右手をそっと上げて、
「いいんだよ。病気だったお母さんのために、だろ」
清一はしばらくうつむいて、言葉を探していた。
やがてふたたび顔をあげて、
「かつて、僕が中学生のとき、両親が離婚したんだ。親父の浮気が原因だった。それから、おふくろは、夜の仕事を。……風俗関係の仕事をはじめた。同級生も、あいつの母親は、裸で稼ぐ売女だって。そういうくだらない噂って、PTAとかで出回るんだな」
「清一……」
「僕は悩んだよ。なんで、いろんなことが、ふつうじゃないんだろうって。でも、僕を育ててくれたおふくろは、ただひとりだ。おふくろは、ユリが好きだったんだ。野生のユリは、荒れ地でも気高く咲くからだ、って。そう言ってた」
清一の手がテーブルの上にのびてきて、芹菜の指にふれた。
「芹菜は、きれいだよ。心が、夜に染まらないのだから。芹菜は、ほんとうの清らかさと、美しさをもっている。僕は、そう思うんだ」
* *
芹菜がきた翌日の正午、瑠香は蒼幻のカウンター席にいた。
その横では凛都が、コーヒーカップに立ち昇る湯気を眺めていた。彼の耳には銀のユリのピアスが揺れていた。
瑠香はこの場所や光景が気に入っていた。
ジャズとコーヒーのにおいの中、マスターの宗田と、猫舌で無口な凛都がいる。
ずっとこの空間にいられるなら、それ以上のことはないように思えた。
瑠香はノートPCを操作する手を止めて、
「そういえば芹菜さんから、メールがきてましたよ。結婚することになったって」
凛都はふと顔を上げて、
「そうか。よかった」
「はい。ほんとうに、そうですね」
すると凛都は思いついたように、
「なにか、食いにいくか? もう12時半だ」
「は、はい」
凛都は立ち上がった。
瑠香はノートPCをバッグにしまって、凛都に続いて蒼幻を出た。
そのとき店の前にひとりの女性がいた。
白いワンピースを着ており、胸の前の右手には、一輪の白いユリがあった。
その女性は深々と頭を下げた。
――しかし次の瞬間、まるで幻だったかのように女性は陽射しの中に消えた。
瑠香はちいさな声をあげてから、ふと凛都を見た。
凛都は目を細め、瑠香がはじめて見るような、穏やかな笑顔を浮かべていた。
瑠香は凛都に尋ねた。
「いまのは……」
凛都は答えた。
「天使――。彼の、お母さんだ」
瑠香は驚きの中、陽射しの中に消えていった女性の残光を、いつまでも見つめていた。
アルカナ・石鹸・夜の百合 おわり
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