第二段 蘆屋将監は帰還し、その妻は嫉妬に狂う

 「蘆屋将監無事帰還せり」の話は、すぐにその妻”築羽根つくばね”にも伝わった。

 その喜びようはまさしく天にものぼるさまにて、その妻の父たる”岩倉治部大輔いわくらじぶのたゆう”もその帰還を祝して宴を開くほどであった。

 その父――、将監にとっての義父は、蘆屋将監の直属の上司であるところの、左大将”橘朝臣元方たちばなのあそんもとかた”の執権を務めており、将監の話はその主の耳に入るほどであった。

 ――だが、将監の妻・築羽根はすぐに夫である将監の、心の変調に気づくこととなる。


 それは妻としての直感であったのか、それとも女の勘というものなのか。

 ともあれ、夫の様子がおかしいことに気付いた妻は、ひそかに夫の身辺を調べ始める。

 すると将監が、密かに毎晩はるか南西の方角――、信田の森に向かって何やら呟いているのを聞いたのである。

 それはただ一言――、


「葛の葉――」


 その言葉を聞いた築羽根は、その名が女のものであると考えた。夫は事もあろうに行方知れずであった先で女をつくっていたのである。

 築羽根はいたって奥ゆかしいよい妻であった。だから夫が自分以外の女と密通していたとしても、それを責めるつもりなど毛頭なかった。

 しかし――、相手が女の名であったことで、築羽根の心には言いしれぬ不安が生まれたのだった。

 その不安からか、あるいは嫉妬心からか。

 築羽根はある夜、ついに我慢できなくなって、夫に声をかけた。


「あなた……」

「なんだ?」

「葛の葉とは一体どなたのことです?」


 そう訊ねる妻の瞳の奥で何か得体の知れない光が瞬いていたことを、その時の将監は気付くことができなかった。


「お前……? 何を言っているのだ……?」


 怪しげなものでも見るような目つきで見返してくる夫に対し、築羽根は思わずカッとなった。

 そして――、築羽根は突然立ち上がり、部屋の隅に置いてあった太刀を手に取ると、鞘から抜き放ち、そのまま夫の方に斬りかかっていった。


「うわぁっ! な、なんなのだ!?」


 いきなり妻に襲われたことに驚きの声をあげる将監。

 しかし、築羽根はそんな声も耳に入らない様子で、無言のまま刀を振り下ろし続ける。


「ぐあっ!」


 その一撃を肩口に受けて悲鳴を上げる将監。築羽根はその段になって自分のしでかした行為を恐れて、その手の太刀を取り落とした。

 将監はそこに至って築羽根の想いを知り、彼女の身を抱きしめて言った。


「すまぬ……、築羽根。ここまでの事をさせてしまうとは、なんと私は罪深いのか……」

「あなた……」


 二人は互いに抱き合いながら、しばらくの間泣いた。

 それからしばらくして落ち着きを取り戻した後、将監はその身に起こったすべてを語って聞かせた。

 記憶を失い救われたこと――、記憶を失ていた故に救ってくれた少女を妻としたこと。

 その少女が白狐であった事――。


「すまぬ……、記憶を失っていたとはいえ不貞は不貞……、私をお前の望むようにしてくれ」

「いいえ……、わたしこそごめんなさい……。こんなことをしてしまうなんて……、もう二度といたしません……」


 こうして夫婦仲は元に戻り、その後二人が表立って不仲になることはなかったという。

 ――そう、表立って――は。


 しかし、それから一年余り経った頃――、蘆屋将監の主たる左大将・橘元方より命が下る。

 その左大将・橘元方には妻があった――、その妻との間には子がおらず、それは病によるものであると考えられていた。

 それゆえに常にその病を治す方法を探しており――、ある日その執権たる岩倉治部がこのように語ったのである。


「白狐の肝を煎じて作った薬であれば病は直るかもしれません」


 その事を聞いた橘元方は、配下の将である蘆屋将監にその”白狐の肝”の探索を命じる。それも――、


「信田の森に白狐ありとの話を聞いた……。退治して我がもとにその肝を持って参れ」


 その主の言葉は、将監にとって寝耳に水であり。そして、それを裏で、父親である岩倉治部に吹き込んでいたのは将監の妻・築羽根だったのである。


 蘆屋将監は何より忠義に厚い男であった。主の命に背くことなどそれまでは考えもしなかった。

 そしてそれは今も同じであった――。

 将監は苦しい想いを心に秘めながら、その命を受けて再び信田の森へと向かう事となったのである。



◆◇◆



 築羽根は嫉妬に狂っていた。それゆえにとどめとなる策を弄していた。

 ――夫が、将監が白狐を討ち果たすとは到底思えない。だから、同行する配下の中に、自身の息のかかった者を入れていたのである。

 その男の名は”石川悪右衛門いしかわあくえもん”――、極めて粗暴な考え無しの男であった。

 それゆえに、後の悲劇は起こり――、築羽根は自身の行いを死ぬまで悔いることになる。

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