14  “ジナイーダ”

 カタリーナとルスヴン卿は大きな窓辺に場所を移し、語り合っていた。傍から見れば仲睦まじく見える――。


「まさか吾以外の、“仲間”がいたとは。イギリスから遥々やって来たものでね」

 ルスヴン卿は物腰柔らかに言うと、目元を綻ばせた。

「そうね。わたしもつい数ヶ月前に来てよ?」

 カタリーナは上目遣いでルスヴン卿を見上げ、まるで煽るように言った。それにルスヴン卿は一笑する。

「吾はそなたの“縄張り”に踏み入ってしまったということか。これは失敬した。そなたの“おこぼれ”を頂戴したいものだね。……それにしても――」

 ルスヴン卿はグイッと、顔をカタリーナに近づけると――無論カタリーナは動じない――、“彼女”の匂いを堪能するかのように深く息を吸う。その甘い――ココアの――匂いにルスヴン卿は、カタリーナは正真正銘の女だと思ったのか、まるで口説くかのように耳元で言ってきた。

「そなたは甘く芳しい……。そして本当に美しい……。なんて婀娜やかなんだ……。そなたのその上品さ、正しく高貴の出と伺える。そのような方が、“あんな老いぼれ”の傍にいるだなんて……」

 カタリーナは一瞬顔をしかめたが、すぐに嬌笑を浮かべ、横目にルスヴン卿を見た。

「“あんな老いぼれ”? 何のことかしら?」

 そう言いながらカタリーナは優雅に距離を取る。

 ルスヴン卿はカタリーナから離れまいと、歩み寄ってきた。

「小さな運河沿いの、倉庫みたいなみすぼらしい家に一緒に住んでいるのだろう? あんな老いぼれの血なんて、そなたの“糧”になっているのかい?」

「さっきから“老いぼれ”なんて……。わたしにとっては赤子も同然でしてよ?」

 カタリーナの言葉にルスヴン卿は大口を開けて大笑いした。

「あははっ! これは、これは一杯食わされましたな。確かに……。ですが人間の老いぼれには違いないよ。あんなのの“世話”をして楽しいかい? いっそのこと捨てて、吾と一緒に若い女の血でも。ほら、会場には吾らの“食事”になることを拒むことすら出来ない女どもが――」

 そう言いながらルスヴン卿は、目の前で楽しそうにワルツを踊る来賓者たちを、我が物のように大腕を広げて示した。

 カタリーナは来賓者たちを一瞥したあと、再度ルスヴン卿を見て、興醒めした様子で言った。

「すんなりと、否応なしに血が吸えたのでは楽しくないですわ? わたしは、相手が自らの意志で首をさらけ出して“血を吸ってください”、と言わせるのが心地良いのですわよ。まるでわたしのことを崇拝しているようにね」

 カタリーナの言葉にルスヴン卿は一瞬呆気に取られたかと思えば、ははっ! と一笑した。

「そなたはツルゲーネフの“ジナイーダ【イワン・ツルゲーネフ氏作『初恋』の登場人物】”のようだ。没落公爵令嬢のように自分の崇拝者を弄ぶ。何と羨ましきこと――」

 ルスヴン卿の言葉に、カタリーナは付け加えるように言った。

「でも、“鞭で打たれる”のは御免だわ。そんな奴は問答無用で下僕にしてよ?」

「そなたは本当に、何もかもが完璧だ。素晴らしい……」

 そう言うとルスヴン卿はカタリーナの腰に腕を回し、自分の方に抱き寄せた。カタリーナは動じずにただ嬌笑を浮かべる。

「一晩、吾とどうだい?」

 ルスヴン卿はカタリーナの腰を撫で回しながら熱い目で“彼女”を見下ろした。

「あら、積極的ですこと。たまには“活き活きした”男も良いけど……でも言ったでしょう? わたしは弄ばれるより、弄ぶ方が好き、とね」

 カタリーナは自身の腰にあてがわれているルスヴン卿の手の甲を思いっ切りつねった。あまりの激痛にルスヴン卿は手を離したが、顔には出さずに穏やかな口調で言った。

「では、夜の散歩でも。“ジナイーダ”」

 ルスヴン卿は手をカタリーナに差し出した。

「散歩ぐらいなら良くてよ?」

 カタリーナは、差し出されたルスヴン卿の手を取ることなく、颯爽と玄関の方へ歩き出した。その後をルスヴン卿が追った。


 カタリーナとルスヴン卿が玄関へ向かうのをアーチ状の入り口の影から、遠く眺めていたヴァン・ヘルシングはさらに落ち込んだ様子で、ドサリと長椅子に崩れ落ちた。

「先生!」

「ヴァン・ヘルシングさん!」

 アドリアンとクララがヴァン・ヘルシングの両側に座り、ヴァン・ヘルシングの背を擦った。

「すまない。どうやらこの上流階級の雰囲気に気圧されてしまったようだ……」

 ヴァン・ヘルシングの今までにないくらいの弱々しい声に、アドリアンは何と声を掛ければ良いのか分からなくなってしまった。

「……先生」

 するとクララがヴァン・ヘルシングの手を優しく握り、言った。

「ヴァン・ヘルシングさん、ドラキュラさんはちゃんと帰ってきますよ。じゃなかったら今頃既に、8年前のように“大暴れ”してるはずでしょう? なのにヴァン・ヘルシングさんの元を離れないのは、あなたのことが好きだからですよ」

 ヴァン・ヘルシングはそっと顔を上げると、クララを見上げた。クララは続ける。

「ですからヴァン・ヘルシングさん、信じましょう? ドラキュラさんのこと。もう彼は以前の凶悪な吸血鬼ではないんです。ヴァン・ヘルシングさんの助手なんです」

 クララの言葉にヴァン・ヘルシングは涙目になり、無言でしっかりとうなずいた。

 そんな二人を傍らで見ていたアドリアンは、クララに今までにないくらい感心した。

 ヴァン・ヘルシングは眼鏡を取り、目元をゴシゴシ擦ると、決意表明でもするように眼鏡を掛けた。

「……クララさんの言う通りです。……私もしっかりしなければっ……」

「はい!」

 クララはパッと表情を明るくした。

「先生、これから僕たちはどうすればいいのでしょうか」

 アドリアンが不安げな面持ちで尋ねると、ヴァン・ヘルシングは思い詰め様子もなく話し始めた。

「先ずルスヴン卿はヴラドに任せるとして、我々は明日、アッセル氏の元に行ってアメリアさんのことを聞こうと思う。新聞ではアメリアさんは婚約中だったようだが、その婚約者が――」

「ルスヴン卿かも……」

 クララが呟くように言った。

「ええ。だからアッセル氏に婚約者の人相を確認したいんだが……」

 ヴァン・ヘルシングは初めて、思い悩んだように口をつぐんだ。だがその横でクララが自信満々に胸を叩いた。

「お任せ下さい! わたし、こう見えて絵は得意です。明日までにルスヴン卿の人相をデッサンして、アドリアンに持たせます!」

「助かります。クララさん」

「先生、僕もお供します!」

 アドリアンが慌てたように手を上げた。

「もちろんだよ、アドリアン君。もしかしたら我々だけで“退治”しなければならばくなるからね」

 ヴァン・ヘルシングの言葉にアドリアンは固唾をのんだ。

「では明日の午前中に、私は中央区役所に行ってアッセル氏に会ってこよう。それで後日、お宅に伺えるように話をつけてくる。伺える段取りがついたらアドリアン君に知らせるよ」

「はい!」

 アドリアンは力強くうなずいた。

 

 カタリーナとルスヴン卿は静かな運河沿いの歩道を歩いていた。

 運河の流れは穏やかで、歩道には街灯が等間隔に設置され、辺りを淡く照らし出している。

「わたしの“父上”はルーマニアの貴族の出身でしてよ? “母上”は商人の出ではあったけど、父上は母上を大層愛してましたの。ダーヴェルさんの家柄はどうでして?」

【ヴラド三世とカタリーナ・シーゲルの間には、実際に“カタリーナ”という娘がいた】

 カタリーナがふふっと微笑んだ。

 ルスヴン卿――オーガスタス・ダーヴェルは、カタリーナは“貴族の出身”だ、と聞いたとたん目の色を変えたように話し始める。

「これはこれは……。カタリーナはやはり貴族の出だったのか。そうだと思っていたよ。そうなると大層裕福な生活が出来る身なんだろうね……。まあ、今は没落はしてしまったが我がダーヴェル家も男爵の称号を持っててね」

 そう言いながらダーヴェルは、こっちだ、と道を指し示した。カタリーナはためらうことなく歩んで行く。

 着いた場所はアムステルダム市の郊外で、辺りは街灯もなくて薄暗く、静寂に包まれており、人一人すら歩いていなかった。

 ダーヴェルは道に面している、古びた屋敷の玄関前に立った。

 屋敷は横に広く、3階建ての茶色の煉瓦造りで、運河沿いの元倉庫の家々とは大違いだ。枯れたツタが壁面を覆っており、長い間無人だったことが伺える。

「ここがあなたの家でして?」

 カタリーナが問うとダーヴェルは鼻で一笑した。

「ここでの、ね」

 ダーヴェルは玄関の扉を開けると先に入り、カタリーナに振り返った。

「“お入りなさい”」

「あら、得体の知れないわたしを招いてしまうのね?」

 カタリーナは上目遣いでダーヴェルを見ながら玄関に歩み寄った。

「そなたと過ごせるのなら――」

 ダーヴェルはカタリーナの腰に腕を回し、屋敷の中へと引き入れた。

 屋敷の中は暗く――吸血鬼には関係ないが――、ロビーの階段や絨毯、棚などには埃が積もり、カビ臭い臭いが漂っていた。壁紙は剥がれ、天井の隅や階段の手すりにはクモの巣が張っていた。生活感はなく、がらんとしている。それにカタリーナは一瞬顔をしかめた。

「さあ、こちらへ」

 ダーヴェルはそのまま、カタリーナとともに階段を登り始めた。二人が一段一段上がるにつれ埃が舞う。カタリーナは仕方なく、そっとドレスの裾を上げた。

 2階に着くと廊下を進み、奥の扉の前に立ち止まる。

「今夜はともに過ごそう」

 ダーヴェルはそう言うと、扉を開け放った。扉が開いたとたん、何とも言えない異様な甘ったるい匂いが漂ってきた。カタリーナ――伯爵ですら入るのをためらってしまいそうなほどだった。

 室内は、ロビーとは違い綺麗に片付けられていた。大きな窓のカーテンは開けられており、その手前に置かれているベッドやタンスなどの家具や調度品は見事なもの、高価なものではあったが、異臭と言っていいほどの臭いが台無しにしている。

「ここは……何の部屋かしら?」

 カタリーナが少し不審そうに問うと、ダーヴェルはとぼけたように一笑した。

「言われなくても分かってるだろうに……」

 すると突然、ダーヴェルはカタリーナの腕を力強く掴むとベッドに放り投げたのだ。カタリーナは仰向けにベッドに沈み込み、その上にダーヴェルが素早く覆いかぶさってきた。

 カタリーナはとくに慌てることなくダーヴェルを伏し目がちに見上げた。

「何のマネなの?」

 少し鋭い口調で聞いてみれば、ダーヴェルは嘲笑うように言った。

「あんな老いぼれに金を使うより、吾と楽しもうではないか。それに――」

 ダーヴェルは片手をカタリーナの首元に伸ばし、ドレスの襟を掴むと、勢いよく引き千切った!

 カタリーナの首筋――切断の痕――や鎖骨、胸元が露わとなる。カタリーナは眉を潜めると、真っ赤な目を爛々とさせてダーヴェルを睨んだ。

 ダーヴェルはカタリーナに構うことなく、興奮したように続ける。

「本当は弄ぶより、弄ばれたいんだろ? 服従させられたいんだろ? カタリーナ。あんな老いぼれに服従したってつまらないだけだと思わないっ――うっ、うぅ……」

 突然ダーヴェルは苦しみ悶えたかと思えば、カタリーナの上に崩れ落ちた。

 カタリーナはダーヴェルの身体を無造作にどかすと、清々したように立ち上がり、台無しにされたドレスの裾を払った。その手には包丁が握られていた。

 ベッドにうつ伏せに寝そべるダーヴェルの胸辺りからは鮮血が染み出し、ベッドのシーツを染めていく。

「備えあれば患いなし、と言うであろう。何とけしからん輩だ。よくも余のものを横取りしようとして……。許さん」

 カタリーナはベッドの上でピクリともしないダーヴェルの首に包丁を構えると、何度も突き刺し、しまいには完全に首を切断した。首と胴体が離れた刹那、ダーヴェルの身体は塵と化した。それを見届けたカタリーナはふん、と息をつき、コウモリに変身すると、部屋の窓から飛び立っていった。


 帰宅していたヴァン・ヘルシングは、寝室のベッドに座り込み、静かに窓を見つめていた。

 時刻は既に午前様を迎えていたが、どうしても眠れそうになかった。まだ3月ということもあり、冷えていたのでガウンを静かに羽織る。

 不安にため息をついていると、カリカリと窓ガラスを引っ掻く音がし、ヴァン・ヘルシングは慌てて窓に駆け寄った。

「ヴラドッ……?」

 窓枠には暗闇の中、真っ黒で真っ赤な瞳のコウモリがぶら下がっており、窓越しにヴァン・ヘルシングを見つめていた。

 ヴァン・ヘルシングが窓を開けようとしたところで、コウモリは姿を霧に変えたかと思えば窓の枠の隙間からいとも簡単に入り込み、ヴァン・ヘルシングの前に、カタリーナの姿で現れた。

「ヴラド、無事で良かった……」

「戻ったぞ、エイブラハム」

 ヴァン・ヘルシングが安堵したのもつかの間、カタリーナの乱れた髪や台無しにされたドレスを目の当たりにした彼は目を見張った。

「ヴラドッ、まさかっ……」

 ヴァン・ヘルシングは怯えたように手を震わせ、カタリーナの手を取った。まるで、取り返しのつかないことをされてしまったのでは? と、申し訳無さそうに急いでガウンを脱ぐとカタリーナの肩に掛け、再度“彼女”の手を握った。

「俺がっ、あんなこと言ったから……」

「エイブラハム――」

 ヴァン・ヘルシングをなだめるように呼び掛けると、カタリーナはゆっくりと手を引き抜き、上目遣いで彼を見上げた。

「言っておくが、わたしは、君が考えているような目には遭ってないぞ? 逆に奴――名前はダーヴェルと言ったな? 其奴を“始末”してやった。案ずるな」

 カタリーナはふふっと微笑み、肩に掛けられたガウンを愛おしそうに撫でた。ヴァン・ヘルシングは安堵の深いため息をつくと、決まり悪そうにカタリーナを見た。

「本当に、大丈夫なんだな……?」

 ヴァン・ヘルシングの念を押してくるような問いにカタリーナは目をパチクリさせると、少し考える素振りを見せ、何かひらめたように彼を見上げた。

「エイブラハム――」

 するとカタリーナは、ダーヴェルに口付けをされた手の甲をヴァン・ヘルシングに差し出した。

「“罰金ごっこ”みたいに“消毒”してくれるかしら?」

 カタリーナの言葉にヴァン・ヘルシングは目を丸くしたかと思えば、苦笑いを浮かべた。

「お前はジナイーダか……?」

「ふふっ。確かにわたしは弄ぶのが好きだが……果たしてわたしが、相手がわたしを“崇拝し始めるまで待つ”と思うかね? わたしはその女とは違い、崇拝し始める前に“躾け”て服従させる。そっちの方が楽しい」

「はいはい、お前らしいよ。それに、お前が誰かに“服従する”なんて想像出来ないからな」

 ヴァン・ヘルシングは呆れたように微苦笑を浮かべると、何のためらいもなくその場にひざまずいてカタリーナの手を取り、そっと唇を落とした。それにカタリーナは満足したように愉悦のため息をつく。

「お帰り、ヴラド」

「ただいま、エイブラハム」

 帰宅もつかの間、カタリーナは自身のドレスの袖をクンクンと嗅いだ。

「変な臭いが付いてしまった……」

「犬に変身してくれるなら、洗ってやらんこともな――」

 ヴァン・ヘルシングが言い掛けたところでカタリーナはパッと目を見開くと、素早く犬に変身し、ガリガリッ! と爪音を立ててシャワールームへと駆けていった。ヴァン・ヘルシングのガウンがふわりと床に落ちた。

「こら! 床が傷つくだろ!」

 ヴァン・ヘルシングは慌てて犬の後を追っていくのであった。


 真夜中、ダーヴェルの屋敷にて。

 ダーヴェルの寝室の窓に、淡い月の光が差し込み、ベッドの上の、塵と化したダーヴェルを照らした――。






※ロシアの作家イワン・ツルゲーネフ氏作『初恋』は1860年に発刊。英訳は1897年に出された。二人はきっと読んでいる。

 私は新潮文庫のを拝読しました。


 オーガスタス・ダーヴェルは1819年、バイロン卿作『吸血鬼ダーヴェル・断章』に登場する人物。吸血鬼だと思われるが、本作が未完のため不明である。

 私は東京創元社が出版した『吸血鬼ラスヴァン 英米古典吸血鬼小説傑作集』で拝読しました。

 ジョン・ポリドリ氏は『吸血鬼ダーヴェル』から『吸血鬼(ルスヴン卿)』の構想を練り、発表した。


  因みに“Wladislaus(ラテン語名:ヴラディスラウス)”はスラブ語系(ポーランド、ロシアなど)の名前が由来で【Wladyslaw(ヴワディスワフ。ただしLにはストローク符号が付く)→Wladza:権力、支配。 Slawa:名声、栄光】、“名高き支配者”、若しくは“支配者の栄光”という意、らしい……。ヴラドらしいお名前。

 ただしルーマニアはラテン語系です。

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