第6話 これは猫なのだろうか

 太い綱のような漆黒の尾が、鞭のようにしなり、しがみつこうとする子猫たちを優しく振り落とす。負けじと子猫たちが飛びかかるが、柔軟な尾は子猫たちを寄せ付けない。


 子猫たちを器用に遊ばせる尾の持ち主は、シュザンヌの膝に頭を乗せ、満足そうにゴロゴロと地響きのように喉を鳴らしている。


 艶やかな漆黒の毛に覆われた体に薄っすらと浮き上がる斑点模様は、呼吸に合わせて光の加減で現れては消える。


 猫なのだろうか。この獣は、本当に猫なのだろうか。


 私は眼の前の獣に、何度繰り返したかわからない疑問を胸の内で繰り返していた。


 この事態を引き起こした張本人達であるフェルナンとリシャールは漆黒の獣を前に腕組みをして、あれこれ魔法談義を小声で交わしている。


「おそらくは半日が限界だ。テオドール、お前であれば、猫への変化が可能だ」

先日、魔法使いたちが変化の魔法の一応の完成を宣言した。半日だけという限られた時間で、猫への変化が叶うというリシャールの言葉に、狂喜したのはテオドールだ。

「お前以外には多分無理だよ。相性があるから。ちょっとの間でも変化させろって言われても、まず出来ねぇだろうな」

フェルナンの言葉にがっかりしたのは私だけではないだろう。


 普段、シュザンヌや孫たちの変化を見慣れている私達には、その必要性すら想像できない意味不明で複雑な魔法陣やら術式やら色々と複雑な手順を経て、二人の魔法使いにより、テオドールは猫に変化した。


 人が四足よつあしとなったような巨大な猫だ。一歩一歩動きに合わせて漆黒の艶やかな毛皮が光り、毛皮に覆い隠された逞しい筋肉の動きが伺い知れた。軽く開けた口からは、肉を容易に切り裂くであろう鋭い牙が見えた。巨大で獰猛な肉体を持つ獣が、テオドールが立っていた場所にいた。


 黒い獣はゆっくりと首を回して自分の体を眺め、満足げにしたあと、見守っていた私達一人一人に、体を擦り付けた。猫の挨拶だ。普段なら膝下を通り過ぎる猫の体温が、私の腰を撫でていった。艶やかな毛皮に覆われた体は獰猛さを内包し、軽くまとわりついただけの尾は、人を打ちのめすだけの力を秘めているかのようだった。


 何だこれは。これは本当に猫なのか。私は疑問を口にはしなかった。内心の怯えを悟られぬようにするだけで、私には精一杯だった。どちらが狩る側かあまりにも明白だった。


 黒い獣は私の怯えに気付いた様子もなく、シュザンヌを背に乗せ、孫たちを引き連れ、元気よく猫のための庭へと飛び出していった。


 テオドールはかねてから口にしていたとおり、シュザンヌや孫たちと一緒に庭を駆けずり回り、木に登り、噴水に飛び込み、屋根で日向ぼっこをした。どの猫よりも猫らしく腕白な一日を過ごした黒い獣のテオドールは、すっかり満足したらしく上機嫌だ。


 遊び疲れた巨大な黒い獣は、人の姿に戻ったシュザンヌの膝に頭を預け、長椅子に寝そべっている。眠そうにしながらも、長椅子から垂れ下がった尾に魅了された子猫たちの相手をして遊んでやっている。穏やかで子煩悩な黒い獣の姿に、確かにこれはテオドールだとは思う。


 だがしかし、これは猫なのだろうか。


 私の疑問など知らぬ様子で、妻と娘たちはお茶の時間を楽しんでいる。テオドールは大きな黒い頭をシュザンヌにこすりつけて、ミルクをねだった。どこまでも猫に見えて、どこまでも猫に見えない巨大な黒い獣は、空が薄暗くなり最初の星が瞬く前に、テオドールに戻った。


「ありがとう。楽しかった」

「まぁ、俺も勉強になったよ」

「ありがとうございました」

「何、仕事を代わってくれた礼だ」

魔法が解けたテオドールは、フェルナンとリシャールに礼を言うと、夕食も食べずに寝てしまった。


「魔力を相当使ったはずなんで、疲れたんすよ。俺は腹が減りました」

テオドールの夕食は、フェルナンの腹に収まった。リシャールは夕食後に厨房に押しかけたらしい。


「いろいろと、検討すべきだな」

「そうっすね。あれ、いろいろと問題っすよ」

「お前もそう思うか」

「いやぁ、あれ、テオだから良かったすけど、他の誰かだったらってねぇ。俺でも思いますし」

「そのとおりだな」

他人を変化させる魔法が成功したというのに、二人の魔法使いは浮かない顔をしていた。


 翌日、リシャールとフェルナンは宣言した。

「これ以上、他人を変化させる魔法の研究はしない」

「何故? 」

テオドールは首を傾げていたが、私は納得していた。


「僕は楽しかったのに。とっても楽しかったのに」

それはそうだろう。私も見ていて幸せだった。テオドールは全身全霊で猫であることを楽しんでいた。

「あれは、お前だから出来たし、お前だから良かったんだ」

フェルナンの言葉にテオドールは首を傾げたままだった。


「俺とお前は相性が良いから、お前は猫になった。予想外にでかい猫になったのは、あれがお前の本性っていうか、まぁ、お前が魔王を斃した勇者だからだ」

「よくわからない」

テオドールは理解できなかったようだが、私にはフェルナンの言葉の意味がわかる。わかるというより、あの時感じた。あの巨大な黒い獣、あれは、いわばテオドールの力量、あるいは秘めた獰猛さだ。


「テオドール、もしお前があの巨大な猫の姿に変化して、己が己であったことを忘れたらどうなると思う」

リシャールの言葉に、テオドールもようやく理解したらしい。四足よつあしのままでも、身の丈は私達の腰のあたりまであった。たわむれついでに立ち上がったときには、人の姿のシュザンヌを簡単に押し倒していた。


「危ない、ですか」

巨大な猫に変化しても、心根こころねの穏やかなテオドールのままであったから、ミルクをねだり人に甘え、孫たちを含めた子猫たちの遊び相手になっていた。

「そうだな。その気になれば、あの巨大な猫は、簡単に人をあやめる事ができる。まぁ、それは人の姿の今もそうだが」

リシャールの言葉は誇張ではない。


 一度だけ、荒れ地へ植林のために向かっていたテオドールの一行が盗賊を装った者達に襲われたことがある。テオドールは家族だけでなく、一行の全員を守りきった。部下は、何があったかを淡々と綴ろうとしていたが、隠しきれなかった恐れが報告書の端々(はしばし)に見え隠れしていた。


 テオドールは、苛烈を極めた魔王討伐隊の生き残りだ。無数の魔物を葬り去り魔王を斃した男だ。並の人間など相手ではない。


 襲撃者達が放った矢は尽(ことごと)く燃え尽(つ)きた。騎士たちの槍や剣は、テオドールの魔法を浴び、襲撃者達を次々と貫いても切れ味が落ちなかった。テオドールは魔法に包まれた刃を情け容赦無く操り、たった一人を残して襲撃者達を消し去った。顔色一つ変えずに、残った一人に誰の命令かを吐かせたテオドールに、一行を警護していたはずの者達が嘔吐したほどだ。


 襲撃を命じたものは、次期宰相である私の息子リシャールが始末した。かつて魔王を斃した勇者であり、今は荒れ地を恵みの大地へ変えることができる唯一の存在であるテオドールの命を奪おうとする者は許さない。明確に示された国王の意思を、民は熱狂をもって迎えた。蘇った大地からの収穫は、民の腹を満たしている。


 事の顛末が知られた今、テオドールの一行を襲撃しようという企むものはまずいないだろう。穏やかで優しく争いごとを好まないテオドールだが、それだけがテオドールではない。


「僕だけ時々、猫にして欲しいというのは駄目ですか」

苛烈なだけでなく、甘え上手なテオドールに、テオドールの義兄と旅の仲間はあっさりと屈してしまった。魔法使いは魔法を使うのが好きだし、魔法で人を喜ばせることを喜びとする。


 あの日以来、年に一度だけ、巨大な黒猫が屋敷にある猫のための庭を駆け回るようになった。全員の魔力を相当に使うらしく、本当に年に一度だけだ。


「ちちうえ、どうしてぼくはねこになれないのですか」

数年後、孫の無邪気な質問にリシャールは頭をかかえた。助けの手を差し伸べたのは丁度、巨大な黒猫と化していたテオドールだった。テオドールは小さな孫を押し倒し、逞しい腕で組み敷くと、巨大な舌で情け容赦なく毛づくろいをした。巨大な黒猫の過激な愛情表現に、悲鳴を上げた孫は、二度と従兄弟たちのように猫になりたいとは言わなくなった。


 テオドールは戯れついて毛づくろいをしただけだ。テオドールの好意の現れだが、確かにあれはなかなかに痛いし、幼い子供には怖い。


 あれから年月を経た今、リシャールの子供たちは、従兄弟たちのように猫になりたいとは、決して言わない。長男が弟たちや妹たちに何かをいっているのだろうが、子供だけの秘密らしい。


 今日も一年ぶりに黒猫になったテオドールは、シュザンヌに甘えて撫でてもらってご機嫌だ。暖かそうなテオドールの毛皮には、孫たちが半ば埋もれている。


「テオがあぁしてのんびりできるってのは、王様と公爵様のおかげっすねぇ」

フェルナンは、野良であることを返上し、いつの間にか我が家の専属魔法使いとなった。


 菓子を頬張りながらのフェルナンの言葉に、私は微笑んだ。

「ありがとう。そう言ってもらえるのは非常に嬉しいことだ。宰相など、恨みを買うことのほうが多いからな」

「そりゃ、後ろ暗い連中っしょ」

先日、とある現場に踏み込み、新しい攻撃魔法とやらを試したフェルナンが獰猛に笑った。


<テオドールと旅の仲間の魔法使い 完>

あとがきと、おまけに続きます

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