ヘンリク卿〈2〉
一週間と三日の後。
アバドラス平原にてグイスガルド侯キルデベルトは陣を敷いた。数は凡そ三千三百。
侯国内で動員し得る限度ギリギリの兵力である。
日頃より余剰物資を取り置いて戦に備える。
各都市や村落には早馬と兵士輸送用の馬車を常時待機させ、迅速に輸送する。
戸籍制度を教会や修道院、都市参事会と連携して整備する事で、兵役期間たる対象者を素早く招集する。
これもギデルベルトの施策によるものであった。こうしてたったの数日で兵を動員することを可能としたのだ。
「天候は曇天、視界は…一リッテン(キロメートル)先が限界というところか。エーギル、この状況をどう見るか?」
陣の中でも一際大きい天幕の外。
霧が立ち込める中でギデルベルトは王国内でも希少な発明品である望遠鏡を覗き込みながら側のエーギルに問うた。
本来はラグナルスの側にいる職分ではあるが、侯は頭脳担当として重用していたがためにこうしていつも側で控えていた。
「奇策を用いるならば最良の天気でしょう。然し敵方が戦の常道から外すことはありますまい」
「してその心は?」
「ライネスブルク伯は戦事にかけては凡庸、
「…続けよ」
「奇策というものは概して寡兵にて戦術的勝利を収めるために用いられるもの。兵数で上回り、騎兵の数も上。辺境の畑を踏み荒らすために態々塩を撒く真似はしないでしょう」
エーギルの模範的回答に満足したのだろう。
侯爵は何度も首を縦に振り、続けて自軍の様子を気にかける。
「我が方の士気はどうか?」
「日頃より供の従士団を中心とした騎兵隊は上々、戦場でも問題はないでしょう。ですが経験の浅い歩兵の間では戦に対する不安が広がっています」
そうか、と一言だけ呟くと侯爵は顎に手を当てる。
王の臣下としてキルデベルト侯が他の戦場に赴く際、自身の兵として用いるのは
王国では参陣する際に引き連れた手勢の規模と装備の質によって自領地の繁栄を他の貴族に見せつける事が慣習化している。
騎兵隊の人員が戦慣れしているのもそれに因ってのことであった。
「後程どうにかして奮い立たせる必要があるか…。そういえばエーデルよ、一つ頼みがある」
「主君が臣下に対して頼み事、ですか」
命令を下せば宜しいのではないか。
そのような意を暗に伝える物言いをしたが、侯爵は少し目を見開いた後、意に介さない様子で続ける。
「仮定の話ではあるが…何れ私が
「それが命令とあらば何なりと」
「命令でなく頼みだ。出会って間もない頃の私に忠誠を誓ったように」
エーギルは首を縦には振らず、気難しそうな顔をしたまま考え込む仕草を見せる。
「…何を考えているかは承知している。しかし我が子らは才覚に溢れど、まだ若すぎる。そして従士団の中で年長者の立場から策を献じれるのはお前しかいないのだ」
「他の従士には言ったのですか?」
「エゼルレッドらは自ずから臣従を誓うと確信している。だがお前は進退を考え直す。そうであろう?」
エーギルはなお考え込む仕草をやめなかったが、これ以上続けても埒が開かないと感じ、頭を起こす。
「この場にて確約は出来ませんが、
「…今はそれで良い」
「そもそも占星にて吉と出ようと、このような訃報を前提としたお話はあまりに不吉が過ぎます。今後はどうかお控えを…」
エーギルが主人の言動を諌めようとした直後、慌てたようにして一人の兵が駆け寄ってくる。
「ほ、報告します!先刻放った斥候より帝国軍が現れたとのこと!距離は凡そ九リッテン(キロメートル)!」
「ご苦労。戻ってしばし休め。これより全兵に出陣の時であると伝達せよ!」
王国歴三百四十一年の九月。
秋風が身体に滲み入るアバドラス平原にてグイスガルド侯国軍はライネスブルク辺境伯軍と対峙する。
両軍激突の時は間近にまで迫っていた。
兵力は三千三百に三千六百とほぼ同数。
勝利の女神はどちらに微笑むのか、当時はまだ誰も知る由はない。
だが戦を題材とする遍歴歌人達は大抵こう述べた。
「運命よ、貴女は月の満ち欠けの如く常に定まらない」
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