白百合寮
白百合寮の人々
朝の柔らかな日差しに、島本新作は目を覚ました。
窓を開けると、潮の香りを含んだ風が静かに部屋へ流れ込んでくる。
窓の外には、澄んだ空と穏やかな海が広がっていた。
何もない街だが、この景色だけは悪くないと思う。
部屋を出て共用のトイレへ向かい、顔を洗う。
そのとき、頬の感触に違和感を覚えた。鏡を覗くと、頬の中央に小さなニキビができている。よりによって、一番目立つ場所だった。
どうしたものかと指で触れていると、背後から声がかかる。
「ニキビ、あまり触らない方がいいよ」
「栗山先輩、おはようございます。わかってるんですけど、どうしても気になってしまって」
「大丈夫。イエロー系のコンシーラーを使えば目立たなくなるから。あとで貸してあげるね」
「ありがとうございます」
黒く艶のある髪を揺らし、栗山先輩はそのまま廊下の奥へと去っていった。
島本は小さく頭を下げる。
部屋に戻ると、部屋着代わりのジャージを脱いだ。
クローゼットを開けると、ブレザータイプとセーラー服、二種類の制服が並んでいる。
どちらにするか一瞬だけ迷い、今日はセーラー服を手に取った。
白地に二本の白線が入った紺色の大きな襟。
真っ赤なリボンを胸元で結ぶ。入学当初は手間取っていたが、半年も経てば指は自然に動いた。
着替えを終えると、朝食のために一階の食堂へ向かう。
トレイを持ち、用意されたおかずとご飯、味噌汁を受け取ると、手招きする栗山先輩の向かいに腰を下ろした。
「おはよう。忘れないうちに、コンシーラー渡しておくね」
「ありがとうございます」
そうこうしているうちに、他の学生たちも次々と食堂に集まってくる。
制服はブレザーにセーラー服、リボンの色もそれぞれ違う。だが共通しているのは、全員がスカートを履いているという点だった。
全員が揃うと、寮長でもある栗山先輩が短く号令をかける。
「いただきます」
号令のあと、誰も急ぐことなく、クロワッサンとハムエッグの朝食を上品に口へ運び始めた。
「数学の宿題終わった?」「今日一時間目、古文よね。寝ちゃいそう」
そんな他愛のない会話が、穏やかに交わされる。
一見すれば女子校の寮のようだが、この場にいるのは全員男子だ。
島本の通う星雲学院は、中高一貫の男子校である。
その中でも、女装が似合うと判断された高等科以上の各学年三名だけが、この白百合寮への入寮を許されている。
勉学に集中させるため、学院は市内中心部から離れた海辺の街に建てられた。
中心部へ出るにはバスと電車を乗り継いで一時間以上かかる。学校と寮以外へ出るには、原則として許可が必要だ。
そんな閉鎖的な環境に、わずかな潤いを与える目的で設立されたのが白百合寮だった。
男子でありながら女子高生を演じ、男子だけの学生生活に彩りを添える。それが、ここに集められた生徒たちの役割である。
登校の時間になり、白百合寮を出る。
島本は直接校舎へは向かわず、隣に建つ星雲寮へ足を運んだ。
そこには、白百合寮の学生を待つ男子たちが列をなしている。
挨拶もそこそこに、それぞれがパートナーを見つけ、腕や手をつないで学校へ歩き始めた。
島本も同じクラスの三苫を見つけ、軽く手を振る。
三苫は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「おはよう」
「おはよう。さっそくだけど、ポイント前払いでいい?」
「ああ、もちろん」
三苫はスマホを取り出し、アプリを起動する。
「はい。確かに、五千ポイント」
「ありがとう」
島本も自分のスマホでポイントの移動を確認すると、三苫の手を取って歩き出した。
このポイントは、星雲学院独自の制度だ。
毎週行われるテストの結果に応じて、生徒たちに付与される。
ポイントを使えば、学食のグレードアップや、漫画やゲームといった娯楽を楽しむことができる。
一日外出の権利や、指定校推薦に関わる特典などもあり、学生生活には欠かせない。
五千ポイントは、平均的な学生が一度のテストで手にできる額だ。
平均的な学力の三苫は、一週間分の娯楽を諦めて、この朝のためにそれを使った。
島本は、指と指を絡める、いわゆる恋人つなぎでその誠意に応えた。
後ろを歩く学生たちからは、「羨ましい」「俺もポイント貯めるぞ」といった声が漏れる。
嫉妬と怨念の入り混じった視線も向けられるが、もう慣れたものだった。
サッカー部の三苫は、今度の練習試合でレギュラーに選ばれたことを、少し誇らしげに語っていた。
島本にとって特別興味のある話ではないが、五千ポイントを受け取った直後でもある。
「さすがだね」「すごいよ」と相槌は自然に打つ。こういう反応が、相手の満足度を上げることも、もう経験でわかっている。
「それでさ、今度の練習試合、一緒に来てくれない? 試合のあと、二時間だけだけど市内で自由行動もあるし」
「ええ……どうしようかな。土曜日は空いてるけど、半日拘束コースなら二万ポイント必要だよ」
白百合寮の学生と行動を共にする際のポイントは、抜け駆けで相場を崩す者が出ないよう、共通で決められている。
「部員みんなで割り勘にするから、大丈夫」
「それならいいけど。マネージャー役をやるなら、プラス五千。自由行動のときにミニスカート指定なら、さらに一万ね」
「うーん……それは、みんなで相談してから決めるよ」
サッカー部は三年生が引退したとはいえ、三十人を超える大所帯だ。
一人あたりにすれば五百ポイント。話に乗らない理由はないだろう。
これで、少なくとも三万ポイント以上の収入は見込める。
外出許可を使わずに市内へ出られ、なおかつポイントも貯まる。条件としては申し分なかった。
――この余剰分は、別の用途に回せる。
島本はそう考えながら、三苫の手を両手で包むように握った。
視線を少しだけ上げる。
「応援、行くよ。三苫の頑張ってるところ、ちゃんと見たいし」
「ああ、任せておけ」
単純な返事だったが、それで十分だった。
閉鎖された環境では、人は些細な好意に過剰な意味を見出す。
それを利用している自覚は、島本にもあった。
風に揺れるスカートの裾を押さえながら歩くと、三苫は満足そうに隣を歩いている。
この距離、この役割、この期待。
それらすべてが、ポイントで換算できてしまう。
――本当に欲しいものは、別にある。
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