白球の夢 その2

 南が野球部に入ってきた瞬間、空気がガラッと変わった。


 それまで「とりあえず走れ!」だった無意味なランメニューは、すべて理論に裏打ちされたものに切り替わった。

 ダラダラした長距離走は消え、30メートルダッシュで爆発力を鍛え、インターバル走で持久力を強化。

 ただの根性論は、南の前では通用しなかった。


 素振りもそうだ。

 ひたすら回数をこなす“筋トレ”から、コースや球種をイメージしながらの“実戦想定”へ。


 そして今。

 南はノックバットを握り、ガンガン野手に向かって打球を飛ばしていた。


「捕ったらすぐ投げる動作に入る!試合中に考える余裕はない、体で覚えろ!」


 ……その声が、びっくりするくらい低い。


 いやいやいや、見た目は完全にゆるふわ系マネージャーだぞ?

 どこから出てんだその声ってくらい、ドスが効いてる。

 女子力と野太さが共存してるとか、もはや物理法則への挑戦では?


 俺はその声を横耳に聞きながら、ピッチング練習の準備をしていた。

 プロテクターを装着して、ブルペンの奥でピッチャーの榊原を待つ。


 ウォーミングアップを終えた榊原のところに、ノックを終えた南がタブレット片手にやってきた。


「準備できた?」


 ……さっきの“低音ボイス”とは打って変わって、今度はまさかのウィスパーボイス。


 可愛らしいその声に、一瞬で心拍数が上がる。

 どっちが本当なんだ、南……!


「あ、ああ。ばっちりだよ」


 南は俺のすぐ後ろに立ち、タブレットを操作しながら榊原の投球を見守る。

 そよぐジャージから、柔軟剤のいい匂いがして、うっかり集中力が削られる。


「まずはストレートから」


 掛け声にうなずいた榊原が、ゆっくり振りかぶり――そして全力で投げた。

 白球が矢のように飛んできて、俺のミットに突き刺さる。

 快音がブルペンに響き、手のひらに痺れが残った。


 その後も、ストレートと変化球を織り交ぜながら、榊原は20球を投げ終えたところで南が手を挙げる。


「ストップ。榊原くん、ちょっと来て」


 榊原が小走りで南のところへ向かう。

 何か不満げな表情を浮かべている。


「ストレートと変化球でフォームが違うよ」


「え、マジで? 同じつもりなんだけどな……」


 榊原は半信半疑でタブレットを覗き込む。


「ほら、肘の角度。ストレートの時より変化球のほうが開いてる。これ、バッターに読まれる原因になるよ」


 俺も気になって、二人の間に割り込んで画面を覗いた。


 ――なるほど、確かに。

 肘の角度が微妙に違っている。受けてる時は気づかなかったのに、こうして映像で比べると明らかだ。


 南のすごさは、まさにここだ。

 主観じゃなくて、根拠がある。数字と映像で納得させてくる。


 常にストップウォッチを首にかけて、走塁や送球のタイム、キャッチの反応速度までデータを取り続けてる。


 ――そりゃ、練習も変わるわけだ。


 最初の頃は反発も多かった。「なんでマネージャーに指示されなきゃいけないんだ」とか、「やり方が急すぎる」とか。


 でも、チームの成績がぐんぐん伸び始め、個人の記録も更新されていくにつれて――不満は消えた。


 特に伸び悩んでた部員に対しては、南が個別に時間を割いてくれた。

 ひとりひとりにアドバイスして、結果が出たら、まるで子どもを褒めるみたいな満面の笑顔で「やったね」って言ってくれる。


 今じゃ、南に対する信頼は――監督以上だ。


 それが、どんな声をしていようと、どんなスカートを履いていようと、関係ない。


 ……いや、ちょっとは気になるけどさ。


◇ ◇ ◇


 決勝戦を前にしたロッカールームは、いつになく静かだった。

 緊張で言葉を失っているわけじゃない。誰もが、南の声に耳を傾けていたのだ。


 部員全員の手元には、南が昨日のうちに用意してくれた対策プリント。

 それは、ただの資料じゃなかった。

 対戦相手の詳細なデータと攻略法。まさしく俺たちの“勝利の地図”だった。


「昨日の試合を見てきた感じだと――右翼手は打撃専。守備は正直お粗末で、肩も弱い。だからタッチアップは、ちょっと強引でも仕掛けていいわ」


 南の声は冷静で、でも力強かった。


「それと、三塁手。送球が荒れてる。ゴロでも悪送球の可能性あるから、プレッシャーかけるためにも全力で走りきって」


 誰もが真剣だった。

 メモを取る者、うなずく者、目を閉じてイメージする者。

 ――みんな、信じていた。南の言葉を。


 一通りの説明が終わったタイミングで、俺は立ち上がった。


「南」


 ロッカールームの一角で、プリントを回収していた南が顔を上げる。


「今日が、最後の試合になるかもしれない」


 俺の言葉に、南はほんの少し眉をひそめた。


「……負けるつもりはないけど?」


 即答だった。そこに迷いは一切ない。

 ――でも、俺はあえて言った。


「それでも、最後かもしれない。だから……南のノック、もう一度受けたい」


 そう言って、ノックバットを差し出す。


 南の目がわずかに揺れた。

 俺が深く頭を下げると、それを見た部員たちも、次々に頭を下げていった。


「……わかったよ」


 小さく息を吐いて、南がバットを受け取る。

 その仕草に、どこか照れたような笑みが浮かんでいた。


 グラウンドに出ると、午前10時とは思えないほどの熱気が待っていた。

 球場を包む歓声、焼けるような日差し。

 決勝戦の舞台――ここが、俺たちの“最終章”の始まりだ。


 相手チームが引き上げ、俺たちが守備位置に散っていく。

 そして――スカートを翻しながら、南がバットを手に歩いてきた。


 ……この光景だけ見るとファンタジーだよな。

 マネージャーがスカート姿でノックを打つとか、漫画でもギリギリだろ。


 そんなツッコミを心の中でしていたときだった。

 俺がボールを渡そうとした瞬間、主審のじいさんがスッと割って入ってきた。


「ダメダメ。女子はグラウンドに入っちゃいかん。ベンチに戻って」


 その言葉に、南が――フッと、意味深な笑みを浮かべた。


 俺はしかめっ面のまま、主審に話しかける。


「うちの学校、男子校ですけど」


「……え?」


 主審の脳内に、でっかいはてなマークが浮かんだのが、ほぼ見える。


 そこへ追い打ちをかけるように、南が一歩踏み出して――


「疑うなら、触ってみます?」


 と、股間をトントン叩きながら笑った。


 ――いや、それセリフとして強すぎだろ。


 主審は完全にフリーズし、そのまま言葉もなくスーッと立ち去っていった。

 俺たちは何も言えず、ただ見送るしかなかった。


 その直後。

 南が持ち上げたバットを肩に担ぎ、大きな声を張る。


「さあ、行くよ! まずはファースト、構えて!」


 その声は――間違いなく、男の声だった。

 鋭い打球が一塁線を駆け抜けた。

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