第61話 敵陣

■シイレイン・トラン(19)


 高位僧は魂の姿が見える、とシイレイン聞いた。自分は僧の修行などしたこともなかったが、見えるときはこんな風に見えるのだろうか。

 ハルディラントと握り合った手に、汗が滲む。だが離す気は起こらなかった。今、見えているものが信じがたくて、確かなものに掴まっていたかった。


 手持ち燭台の揺れる光の中、輪郭の霞んだ人の影が、墓の彫像の前に立っている。一人は若い女性、容姿からして、この赤子を抱く女性の彫像の、まさにその人だろう。その手に赤子はいない。空いている手は胸の前で祈るように組まれている。

 そしてもう一人は男性、女性の肩を抱くようにして寄り添っている。肩ほどの長さの髪を後ろで一つに束ねたその姿に、シイレインは見覚えがある。幼いころ小姓として仕えていた主、王弟オズワースの、まさに若い頃の姿だった。


「……陛下、そちらのお二人は……」


 ハルディラントがこわばった声で、墓の前に立つオーダリア王に問う。国王は振り返ると、やはり見えるかね、と納得するように何度か頷いた。


「この墓は、オズワースの先の妻、ネフィアの墓だ。二十年ほど前に亡くなった」


 その話はシイレインも耳にしていたし、エデインの書斎でガーナー師から改めて聞かされた。先妻は病で亡くなった、夫オズワースは身も世もなく嘆き悲しんだ、と。


「ウェンズデール家の長として、この地下墓地には時々墓参に来る。ネフィアの墓で、このようにして寄り添う二人の影を見るようになったのは、もう何年前だったか。魂というのは口をきけないもののようだな。眼を見て、ああこの男の影は弟だ、オズワースだ、と分かったが、なにか言いたげに見つめてくるものの、なにも言わん。だから推し量るしかない」


 シイレインはそう語る国王のうつむいた顔を、黙って見つめる。オズワースだ、と今はっきりそう言った。

 この人は、今まさに地上の大寺院で婚礼を執り行っている男が、オズワースではない、と認識しているのか。


「……立ち入った質問をお許しください」


 ハルディラントがそう切り出せば、国王は視線を上げないまま、黙って頷いた。


「ネフィア様は、亡くなられた当時、お子を宿していらっしゃったのですか?」


「……そうだ。だが僧が言うには、子は胎内で十分に育っておらず、無事産まれるかわからない、と。そのため懐妊は内密にされた。結果、出産時に子も母体も生命を落とした」


 なるほど、とシイレインは胸中で呟く。病で、と聞いていたが、実際にはお産で亡くなったのか。

 愛おしそうに赤子を抱えるこの彫像は、せめてもの鎮魂なのだろう。


 そうか、とハルディラントが、聞こえるか聞こえないかの小さい声で呟いた。シイレインは隣の横顔を見やる。


「『前世』ではほぼ同じ時期に死んだはずなのに、おれたちとオズワース殿下とで二十歳近く歳が離れているのはなぜなのか、ずっと分からなかった。実際にはやっぱりほぼ同じ時期にこの世界に生まれ変わっていたんだ。……ただし一人だけ、母親の胎内で身体が育ちきらなくて、赤子として生まれてくることができなかった」


「……それで、代わりに父親であるオズワース殿下の身体を乗っ取った、ということでしょうか」


 それなら、失踪した僧が言ったという「オズワース殿下の魂がいつの間にか別人になっている」という話にも理屈が通る。

 おそらく最初は「同居」のような形だったのだろう。身体を得ることのできなかった我が子の魂を、父であるオズワースは受け容れた。――そして、やがて身体の主導権を奪われた。

 シイレインは墓でネフィアの魂に寄り添う、オズワースの魂の影を見やる。国王は、おそらく聞こえていたであろう「前世」についての会話には特に言及せず、また顔を上げ、やはりオズワースの魂へと向き直った。


「なぜ生きて同じ館で生活しているオズワースの魂がここにいる? ここにいるなら、あの男は何者なのだ? 高位僧に訊こうと思ったが、いずれも言葉を濁してはっきりとは答えてもらえなかった。だが、この墓はネフィアとその腹の中の子の墓だ。それなのにここにいる魂はネフィアとオズワースだ。……つまりはそれが答えなのだろう」


 それが答え。ここに魂のいない、オズワースとネフィアの子が、現在地上で婚礼を執り行っているオズワースの身体の中にいる、国王はそう言いたいのだろう。


「ハルディラント」


 振り返らずに国王は呼びかけた。はい、と隣でハルディラントが返事をする。


「その出で立ちはこれから婚礼に向かうのだな。……止めるつもりかね?」


 ハルディラントは即答せず、繋ぎ合っているシイレインの手を強く握ってきた。

 大丈夫、という気持ちを込めて握り返す。引き返さずにこちらへ進んだ時点で、どうあっても実行する決意なのだろう。国王にどう返答しても、自分はついていく。


「……はい、そのつもりです」


 そうか、と国王は何度か小さく頷いた。


「情けない話だが、私にはどうするべきなのか分からない。あれは弟ではない、と言ったところで、信じる者はわずかだろう。……お前の思うようにしなさい。ただし、できたら殺さないでやってくれ。私の想像のとおりなら、あれはオズワースの子だ。……弟が自分の身体を譲ってやった、忘れ形見だ」


 はい、とハルディラントは頷いた。あの男を殺さないのは、自分たちの利己的な理由からだったが、正体を察していてもなお死を望まない人もいるのだ。シイレインは主の丸められた背中を見て、その心中を思う。


 国王は大きなため息をつき、身体ごとこちらへ向き直った。手持ち燭台を掲げる従者が移動し、互いの顔が見えるように照らす。光の加減か、国王は一気に老け込んだような、疲れた顔をしていた。


「……ハルディラント。私の養子にならないかね?」


 シイレインは息を呑む。こんな特殊な状況で緊張していなければ、おそらく声を上げていただろう。

 ハルディラントも愕然と眼を見開いている。だがすぐに、申し訳ありません、と首を振った。


「陛下のお気持ちは大変光栄に存じます。……ですが、私はイスキュリアに帰りたいのです。廃嫡されても、居場所がなくなっても、イスキュリアが私の故郷です。もう、帰らせてください」


 ハルディラントの声にも、疲労が滲んでいた。それはそうだろう、十五年もの間アドリーツァへ留め置かれ、ようやく帰国できたかと思えば、オズワースの身体を乗っ取ったあの男の悪意に振り回された。その上また、アドリーツァに残れと言うのか。

 後継者をいつの間にか失い、途方に暮れているであろう国王の気持ちも分からないではないが、ハルディラントはもう解放させるべきだろう。シイレインは繋いだ手を離し、そっとハルディラントの背に触れる。ありがとう、と小声で反応が返ってきた。


「……ああ、そうだな。すまなかった。……長い間、すまなかった。行っていい。行きなさい」


 国王は力なく首を振り、こちらに背を向けると、また墓の方へと向き直った。ハルディラントはなにか言いたげに一度口を開いたが、結局なにも言わず、国王の背に頭を下げ、失礼いたします、と辞意を告げる。


 行こう、とこちらに声をかけ、ハルディラントは足下の銀狐を抱え上げた。シイレインも国王の背に一礼し、後を追う。二人並んで足早に通路の先へと進む。


「話を聞けてよかった。これからおれたちが罠を仕掛ける相手が、何者なのかはっきりした。……でも」


 ハルディラントはそこで言葉を区切り、〈光〉の点る手を斜め上へと差し出す。そこからはつづら折りの石段になっており、登りきった場所に、大寺院側の出口があるはずだった。下からでは扉は見えないが、大伽藍のざわめきはここにもかすかに伝わってくる。


「……時間がかかりすぎた。急がないと、誓いの言葉が終わって婚姻が成立してしまう」


 行きましょう、と頷き、連れ立って石段を登る。ここを登りきれば、「敵陣」に入ることになる。



■ハルディラント・メイ・アトフラスト(19)


 扉の向こうは天井から床まで下げられた飾り布で覆われ、大伽藍の参列者からは見えないことは把握している。開閉の風で布を揺らして傍の誰かに不審がられないよう、ゆっくりと慎重に押し開ける。

 結婚する二人の安寧を祈る、僧の祈祷の声が朗々と響いている。甘く煙たい香の匂い。参列者の密やかな会話や咳払いなどが、布越しに伝わってくる。二人と一匹の身体を完全に扉の外へ出して、また慎重に閉める。

 大伽藍の内部に侵入した。


 飾り布の内側からはまだ出ないまま、抱えていた銀狐を足下へ下ろす。既に〈束縛〉で繋がっている銀狐は、ハルディラントを見上げて大人しく指示を待った。


『ちょっとだけそこで待っていてね』


 意識でそうお願いすれば、銀狐は前脚をそろえてその場に座った。


 あっち、と身振りでシイレインを促す。後方、祭壇ではなく大扉に近い側へと、飾り布の内側をすり抜けていく。準備の際に綿密に調べて、配置は頭に入っている。しばらく進めば、背の高い燭台が何本かまとめて置いてある場所がある。そっと飾り布の隙間を開け、燭台に紛れるようにして出る。おそらく誰にも見咎められずに、参列者たちに混じることができた。もし気づいた人がいたとしても、遅刻した者がこっそり入ってきた、くらいに思われるだけだろう。


 シイレインと共に適当な場所に立ち、小さく息をつく。

 参列者を装った潜入はどうにか成功した。


 祈祷はまだ続いていた。地下墓地で国王としばらく話していたせいで、予定よりずれ込んでしまっているはずだが、祈祷がこのあとどのくらい続くのかは分からなかった。

 祭壇の前で跪いているはずのエレーナとあの男は、ここからでは見えない。周囲の人々は退屈し始めているのか、私語を交わす者が多かった。祭壇から遠いこの辺りの席は、結婚する二人と縁の薄い人が多いのだろう。近親者は最前列にいるはずだった。少し踵を浮かせて顎を上げ、父王がいるはずの辺りを探してみる。参列者はざっと百人ほどだろうか。手前に背の高い人が多く、香で煙っているのもあり、父王の居場所は確認できなかった。


 婚約礼のときより香の煙が強く、大伽藍の内部全体がうっすらと白く煙っている状態だった。参列者の中には、手巾を口許に当て、眉をひそめている人もいる。煙いわね、香が強すぎる、という会話も聞こえてくる。

 大伽藍内部が白く煙るほど強く香を焚く――これが唯一、婚礼当日に実行してくれるよう、僧ノールスに頼んだことだった。実際に香を焚いているのは見習い僧であろうから、ノールスがやったのは、事前に香を湿気らせておく、といった細工だろう。

 頭上を見上げる。香の煙は上の方に滞留し、美しく波打つ梁も白く霞んでいる。これなら設置してある陣も、これから行うことも下からは見えづらい。


 隣のシイレインが、手の甲に軽く触れて注意を促す。視線で頭上の一点を示す。そちらを見やれば、白く霞む梁の上に、梟が一羽、円い眼でまっすぐにこちらを見下ろしていた。

 ガーナー師の使い魔だった。梟に視線を合わせ、存在を確認したことを伝える。梁の上に使い魔を待機させておく――それが唯一、婚礼当日の今日、師に依頼したことだった。祭壇前で跪いているあの男も、おそらく気がついているだろうが、ガーナー師は婚約礼のときにも同じように使い魔を侵入させていたし、さほど不審には思われないだろう。魔力を帯びた使い魔を梁の上に置いておくことで、他の魔力の存在をごまかしてもらう。


 必要な準備は整っている。


『行くよ』


 〈束縛〉を介し、意識で銀狐とシイレインに宣言する。シイレインからは了解の気配が返ってくる。飾り布の陰で大人しく座っていた銀狐は、静かに立ち上がった。


 両手を前に組み、僧の祈祷を大人しく聴いている体で、銀狐と視界を共有し、誘導する。銀狐にはこれから梁の上に上がってもらう。飾り布と壁の隙間を、そのまま前方、祭壇のある側へと歩かせる。飾り布の下の方が少し揺れたところで、誰も気づかないだろう。……気づかないでほしかった。


 本来なら〈隠蔽〉で銀狐の姿を見えなくしてしまいたかったが、高位魔法使いであるあの男には、逆に魔力で気取られるだろう。銀狐には、ハルディラントとシイレインの〈束縛〉をそれぞれごく弱く、そして香の煙が害を及ぼさないよう〈抗圧〉をかけてあるだけだった。

 同様の理由で、今は〈幻視〉で髪色を変えることもしていない。魔法は、梁の上に設置してある陣を発動するとき以外、極力使わない方針だった。


 草叢をかき分けるように、飾り布と壁の狭い隙間を銀狐は進んでいく。次第に祈祷の声が大きく聞こえてくる。飾り布の内側では、どの辺りを歩いているのか分からなかったが、そのまま行けば、突き当たって祭壇の裏手に出るはずだった。


 飾り布のすぐ脇で、誰かが大きくくしゃみをする。足を止めてびくりと身体を震わせ、銀狐は耳を寝かせて縮こまった。思わずハルディラントまで肩を跳ね上がらせてしまう。シイレインが、大丈夫ですか、と声をかけ、背をさすってくれた。片手を上げ、小さく頷いて自分の動悸が治まるのを待つ。


『大丈夫、なにも怖いことはないよ。おれが一緒だから大丈夫。落ち着いたら行こうか』


 意識で呼びかける。銀狐が自分を信頼してくれているのは感じ取れるが、落ち着いて指示を聞く気になるまで、しばらく時間がかかった。

 少し焦りを覚える。間に合うだろうか。


 祈祷の声を真横に聞く。祭壇の脇まで来たようだった。あの男に魔力を気取られる危険性の、最も高い場所だった。極力息を潜め、飾り布の外へ気配を漏らさないようにして、静かに通り過ぎる。


『ハル、息をして』


 シイレインから意識でそう注意され、我に返る。返事をする代わりに、ゆっくり大きく深呼吸する。集中するあまり、自分が息を止めてしまっていた。


 ほどなく角に到達する。壁に沿って右へ。ここはもう祭壇の裏手のはずだった。

 進んでいけば、急な螺旋階段に行き着く。銀狐は迷わず軽快に段を登っていく。人間には狭く登りづらい階段だったが、身軽な狐にはなんということもないようだった。最上部の小さな露台に辿り着く。ハルディラントは小さく息をつき、一度肩の力を抜く。ここまで来れば、近くに人が寄ってくることはない。あとは梁の上の目的地まで向かわせるだけだ。


『疲れましたか。替わりましょうか』


 シイレインに気遣われるが、まだ大丈夫、と意識で答える。前で組んでいた両手を解き、軽く握りしめる。

 あともう少しだった。あとあともう少しで、あの男を止められる。


 銀狐を誘導し、梁の上に一歩踏み出す。大伽藍の下を見下ろせば、香の煙に霞む中、大勢の人がひしめき合っていた。祭壇の前にひざまずくあの男とエレーナ。エレーナはルイルーディアが憧れの眼差しで見上げていた赤い婚礼衣装をまとっている。最前列には、そんなエレーナを見つめる父王と義母の姿を確認できた。視線を移動する。ずっと後方に自分たちの姿が見える。普段着ないような礼装なのも相まって、妙な気分になる。

 視線を上げ、自分たちの真上あたりの梁の上に、梟の姿を確認する。銀狐が少し警戒するのを感じ取ったが、距離があるせいか、怯えるほどではなかった。

 梁は弓なりに上り下りを繰り返す形になっている。幅は狐が歩くには十分だったが、足を滑らせないよう慎重に進ませる。


 もう少しだ。


 と、自分の周囲がざわめき出す。私語、咳払い、身じろぎをする衣擦れの音。驚いて視界を戻し、周りを見回す。

 祈祷の声が聞こえない。終わったのだ。隠れ家でセキに入手してもらった式次第を思い出す。このあとは誓いの言葉を交わすはずだった。――それを言い終えると、婚姻が成立してしまう。

 祭壇の前でエレーナとあの男が立ち上がる。祭壇付近は一段高くなっているため、この位置からでも二人の姿が見える。エレーナが向き合うように身体の方向を変える。


 だめだ。


 焦りで呼吸が浅くなる。銀狐の方へ視界を戻し、梁の上を進ませる。

 だめだ。間に合わない。二人の動向が気になり、また足を止め、視界を自分の方へ戻してしまう。


『ハル、落ち着いて。深呼吸してください。婚姻成立の前にこだわらないで。あの男があの場から動かない限り、実行は可能なはずです。まだ大丈夫』


 意識でそう訴え、シイレインが正面を向いたまま手を取り、繋いでくる。強く握り返し、深呼吸しようとする。何度か失敗し、ようやく大きく一呼吸できた、その時。


 あの男が、身体ごとこちらへ向き直った。


 なぜ。式次第にそんな動作をする内容はない。男は参列者たちの上にしばし視線を滑らせる。血の気が引く、見つかってしまう、動けないままでいると、シイレインが後頭部に手を回し、乱暴に引き寄せて外衣の内側にハルディラントの頭を隠した。シイレインの胸に顔を押しつける形で、ハルディラントは息を殺す。


「……来ると思った」


 耳許で男の声が響く。〈伝令〉の魔法。ぞくりと悪寒が走り、思わず吸い上げた息が喉の奥で小さく鳴る。

 シイレインもびくりと身体を震わせる。頭を抱えられたまま、表情は見えなかったが、腕が小刻みに震えているのが伝わってきた。

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