釣り人

 この日は湖北の方で朝からブラックバス釣り大会が開かれる予定だった。外来種のブラックバスを釣って処分することで、琵琶湖の自然環境を保全しようというのだ。それで朝から釣り客のボートが出ていた。

 いずれもが腕に覚えがあり、賞金も出ることもあり、参加予定者がかなり集まった。しかしまずいことにこの日は霧が深かった。これではボート同士が衝突したりする危険がある・・・主催者側はそのことを考慮して中止とした。だがその判断がぎりぎりになっていたため、参加者に伝えるのが遅れてしまった。一応、メールで送ったものの、それに気づかずにそのまま湖に出た釣り人は少なくなかった。

 霧は出ているものの、波は高くなかった。コンディションはそれほど悪くない。


(大会も中止になったことだし、この霧では釣り客は少ないだろう。ゆっくり釣りができるな)


 ブラックバスを釣りに来た三宅もそんな一人だった。普段の休日と同じように趣味の釣りを楽しむつもりだった。

 だが今日は霧以外に変わった光景を目にしていた。ゴムボートに乗った迷彩服のようなもの着た男がやたらに目につくのだ。彼らは釣りをするわけでも景色を楽しむわけでもなく、ただタブレットを操作しながらゴムボートを走らせているのだ。

 それは湖の静寂を壊し、魚を警戒させて釣りを妨害しているとしか思えなかった。ついに我慢ができなくなり、三宅は近くを通ったゴムボートの男に話しかけた。


「どうしたんだ? そんなにうるさくしたら魚が逃げてしまうじゃないか!」


 三宅は軽く注意したつもりだった。だがその男はかけていたサングラスを外して三宅をにらんで言った。


「うるさい! ここで何をしようと俺の勝手だ! 邪魔するな!」


 その男は何かにとりつかれているかのように必死だった。三宅はそれに押されて何も言えなかった。男はタブレットを見てゴムボートを走らせていき、霧の中に消えていった。


「やれやれ。マナーもへったくれもあったもんじゃない・・・」


 三宅はつぶやいた。辺りはゴムボートの走り回った波が立っていた。この場所じゃあ釣れないと、彼は場所を替えようと船外機に手を伸ばした。その時。彼は霧の向こうで、


「ぎゃあ!」


 という悲鳴を聞いた。


「な、何なんだ?」


 三宅はそれが聞こえてきた方向をじっと見た。すると霧の中から何かが流れてくる。それはおぼろげだったが、次第に姿がはっきり見えてきた。


「あれはさっきの・・・」


 見えてきたのはあのゴムボートだった。だが誰も乗っていないように見えた。三宅はゴムボートのそばにボートを寄せた。


「これは!」


 ゴムボートの中には血が垂れた跡があった。乗っていた男に何かあったことは確かだった。


「おーい! 大丈夫か!」


 三宅は辺りに向かって呼びかけてみた。だが返事はない。


「ゴムボートから落ちたのか?」


 彼はその辺りにボートを少し走らせて、湖面を見ながら男を探した。霧はますます濃くなっている。すると背を向けて浮いている男の姿があった。ゴーグルが赤く点灯していたから見つけることができたのだ。だがだらりとして全く動かない。


「しっかりしろ!」


 三宅はそばに寄って男の体に手をかけた。すると男の体は回転して、仰向けになった。その胸には矢のようなものが刺さり、迷彩服を赤く染めていた。男は何かに驚いたように目を見開いたまま死んでいた。


「うわっ!」


 三宅はボートの中でしりもちをついた。


(殺されている。誰かに殺されている・・・)


 三宅は震える手でポケットのスマホを取り出して110番を押した。


「もしもし大変だ! 人が、人が殺されている・・・」


 三宅はゴムボートで人が殺されているのを伝えようとした。だが口が回らず、はっきりと伝えられない。焦れば焦るほど言葉が出てこなかった。


「もしもし聞こえますか! 落ち着いて話してください。あなたのお名前を教えてください」


 オペレーターの声が聞こえるが、彼の注意は別に向いていた。周囲に波が大きくなってボートが揺れ出したのだ。最初は少しずつ、だが徐々に大きくなって・・・何かが近づいてきているようだった。彼は辺りを見渡した。すると右の方向に盛り上がった波が白い筋を引いて近づいてきていた。


「な、なんだ、あれは・・・」


 それは彼には不気味で恐ろしいものに思われた。彼は震えて思わずスマホを手から落とした。


「もしもし聞こえますか!・・・」


 スマホからオペレーターの声がするが、彼はそれどころでなかった。


「に、逃げよう・・・」


 三宅はあわてて進路を変えるとスピードを上げてボートを走らせた。できるだけあの波から離れて・・・彼の感覚ではかなり長い時間が過ぎたように感じた。


「もう大丈夫か」


 彼は後ろを振り返った。だがその波は追いかけて来て、徐々に近づいてくる。まるで獲物を仕留めに来たかのように・・・。


「助けてくれ! 誰か助けてくれ!」


 三宅は大声で助けを呼ぶが、声は帰ってこない。辺りは濃い霧が広がるばかりだった。追いかけてくる波はボートのすぐ後ろまで来ていた。振り返った彼にはその波の中に何かが見えた。だがそれをはっきり見ることはできなかった。その前に波の中から「ビュッ!」と何かが飛んできたのだ。気が付くと彼の胸に矢のようなものが突き抜けていた。


「ううっ・・・」


 三宅は血が噴き出す胸を押さえて倒れた。その目は恐怖で大きく開かれていた。

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