第5談

立ち上がった大蛇の大きさは、雪玲シューリンの3倍ほどだろうか。長い舌でシュルシュルと不気味な呼吸音を立てて、雪玲シューリンを威嚇する。

二股に分かれた尻尾のひとつには翠蘭スイランがいる。流石にこの騒ぎで目覚めたらしい。青い顔をしながらも、気丈に声を上げる。


雪玲シューリン!逃げて!!」


ああ、あの美しい声だ。委蛇いだ仙人と名乗った蛇はうっとりした表情で翠蘭スイランを見る。


委蛇いだ仙人と名乗った蛇は名を委蛇いだと言う。【嫦娥の盃】がある都市の外れ、落ちぶれた廃寺のお堂の中に住み着いていた、ただの蛇だ。

たまに風に乗って聞こえる美しい声に聞き惚れる。それだけが退屈な日常の慰めだった。


獣は純粋だ。純粋であるが故に邪念に染まりやすく、容易く堕ちる。また、住処が廃寺であったのも悪かった。日々の修行に勤しんでいた勤勉な坊主は、ひょんなことから権力争いに巻き込まれ、無念のまま死んでいった。その坊主の神通力も委蛇いだに力をもたらした。


ただの蛇から二股の大蛇の妖怪になれた委蛇いだは月の光を100日浴び、朝露を一滴飲み、食事を断ち、更に日光に自身の体を晒す苦行を行った。そして妖力が最大になった今日、愛しい人を攫いにきたのだ。人へと姿を変えて。


誤算だったのは雪玲シューリンの存在だ。


街全体を眠らせ、翠蘭愛しい人を拐うことはできた。だが、まさかその眠りの力を跳ね除けて起きるものが現れるとは!しかも、そいつが溢れ者で、更に対魔の気を持つ者だとは‼︎


「渡さない!この美しい人は俺のものだ!」


本来の姿に変わった委蛇いだの必死な叫びで、体全体から妖力が迸り、雪玲シューリンを後ろに飛ばす。

勢いよく飛ばされた雪玲シューリンは空中で回転し、咄嗟に跪き、屋根に穴を開けて手と足で踏ん張り、更に身体を低くすることでその場に留まる。


「分かったわ!あんたのものになるから!だから、雪玲シューリンは助けてよ!」


翠蘭スイランの麗しい声が響く。こんな状態で、こんな相手だからこそ、翠蘭スイラン雪玲シューリンを庇う。人であれば、雪玲シューリンが負けるわけがない。だけど相手は妖怪だ。勝てるわけがない。だったら自分が犠牲なれば良いと、それほどまでに雪玲シューリンを死なせたくないと、翠蘭スイランは恐怖を乗り越えて、必死に声を出す。


「――っ!ざけんな!姐姐ネーサンは渡さない!そんな蛇妖怪、あたしが倒す!」


グッと足を踏みこんで、委蛇いだから迸る妖気に逆らうように、一歩一歩と前に出る。後ろに持っていかれそうになる身体を、両手で風を防ぐように目の前に絡めながら、更に一歩を踏み出す。

こんな妖気の放出がいつまでも続くわけがない。呼吸と同じでいつか途切れる時が来る!


雪玲シューリンの狙い通り、委蛇いだの妖気の噴出が一瞬、止まる。と同時に雪玲シューリンは大きく飛び上がる。鎌首を持ち上げて、雪玲シューリンを狙う、委蛇いだの頭にガツンと一発棍を喰らわせ、更に、その首を蹴って、翠蘭スイランに手を伸ばす。


姐姐ネーサン!」


雪玲シューリン後ろ!」


振り向いた雪玲シューリンが見たのは、大きく口を開けた委蛇いだ。その口の中の長い舌が雪玲シューリンの首に絡まる。さらに口が雪玲シューリンを飲み込むように、近付いてくる。


「っざけんな!」


棍を両手で支え、委蛇いだの口の端に噛ませる。飲み込まれるのを避けて、首に巻きついた舌を引きちぎる。更に、空中で身体をくねらせ、踵蹴りを委蛇いだの頭に喰らわせた。


委蛇いだの舌には身体を溶かす作用がある。だが、焼けた手を気にすることなく、雪玲シューリンは再び、翠蘭スイランに手を伸ばす。


「させるか!」

舌から溢れる血を飲み込んで、委蛇いだは身体をくねらせる。

妖力をたぎらせ、口から酸を出す。吐き出した酸は、雪玲シューリンを直撃する。


雪玲シューリン!!」


翠蘭スイランの声が響く中、雪玲シューリンは屋根の上をゴロゴロと転がる。服が焼ける。そしてその奥の肌も焼けた臭いがする。


なんとか止まって、痛む身体を起き上がらせると、翠蘭スイランに編んでもらった髪がぱらりと落ちた。


髪は頬の位置で終わりを見せている。


「乙女の命とも言える髪を!」


翠蘭スイランが褒めてくれた髪を切られたことが何よりも悔しい。服が溶けることよりも、肌が焼けることよりも、何よりも翠蘭スイランが整えてくれた髪を汚されたことが悔しい。


姐姐ネーサンは連れていかせない!」


力を込めて更に走る。転がったせいで委蛇いだとの距離が離れた。


体の痛みなんか気にしない。それよりも姐姐ネーサンを失う方がずっと痛い!


雪玲シューリン逃げて!」


雪玲シューリンが伸ばした手は届かない。翠蘭スイランを連れた委蛇いだが、足に雲を纏い、空へと飛んだからだ。


姐姐ネーサン!!」


雪玲シューリンは迷うことなく一歩を踏み出した。

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