第3談

色事に興味があるのは、育った環境のせいかと言われれば、それは違うと雪玲シューリンははっきり言える。


自分の両親が見目整って産まれた雪玲シューリンを見て、『これは高く売れる』と言った時に、万歳と言ったくらい、嬉しかったのを覚えている。その時にはまだ喋れなかったから、『ばぶう』としか言えなかったけれど。


5歳で【嫦娥の盃】に身売りされて、ダメだと言われなかったから仕事に耽る女達を見て回り、これは良いところに来れたと喜んだ。


【嫦娥の盃】は高級妓楼だ。相手にも格を求めるし、こちらにも一流を求められる。勉学は苦ではない。歌も、踊りも好きだ。誰に教わるわけでもなく知っていた荒事はもっと好きだ。いつだって身体が勝手に動く。どうすれば相手を淘汰できるか、どうすれば一歩踏みこんだ動きができるかなんて、教わらなくても分かる。とかく人間の動きは遅い。瞬きしている間に全てが終わってしまう。


全てを簡単にこなせる中で、唯一興味が持てたもの。それを職業にできる自分は幸せかもしれない。


そんなことを思いながら寝たせいだろうか、暗闇の中、目が覚めた。


雪玲シューリンに部屋はない。見習い妓女たちと一緒に大部屋で寝る。雑多に寝る見習い妓女は30名ほどいる。みな、疲れて泥のように寝ている。部屋が暗いのは、まだ夜だからだろうか。


「あれ?なんでみんな寝てるんだ?」


ここは妓楼……夜に稼ぐところだ。それは見習い妓女たちも変わらない。お酒を運んだり、食事を運んだり、雑用は多岐に渡る。


「しかも……静かすぎないか?」


しんっとした空気が重たく感じる。


名店【嫦娥の盃】は繁華街の中心にある。夜であっても昼であっても、周囲は騒がしい。それこそ昼間の騒ぎが日常茶飯事位には。


起き上がると自分の体の上の乗っていた女の子がずるりと床に落ちた。


まだここに来たばかりのこの子は、人恋しいのか良く雪玲シューリンの布団に潜り込む。人の温もりが欲しいのか、雪玲シューリンが起き上がったら、いつだって眠たい目を擦りながら抱きついてくるのに……。


「おい!おい、起きろ!」

頬を軽くピシャリと打っても起きる気配がない。隣の女の子の頬も打つが起きる気配がない。


「そもそも……いつ寝たんだ?」

それすら記憶にない。


頭に触れるとお団子頭のままだ。髪を解かずに寝るなんて今までなかった。


懐を探ると、銀貨が5枚出てきた。

「5枚?」


1枚は仮母から、4枚は翠蘭スイランが別れ際に助けてくれたお礼と言って手に握らせてくれた。『多い」と言ったら、『じゃあ、あんたが髪を結んでた、この紐をちょうだい』と言われた。


あれは昼前のこと。そしてそのまま部屋に戻ろうとして…………。


「……記憶がない?」


ぬめったような湿気を含んだ空気に違和感がある。初めて唇に紅を塗った時、そのベタつく感じを不快に思った。そんな違和感。


更に静寂すぎる世界で自分の粗い呼吸だけが響く。吸って吐くだけ、いつもしている呼吸すらどうやってしていたか思い出さない。思い出せなくなる。


気怠い身体に鞭打つように立ち上がる。頭の働きが悪い。両手足におもりをつけられているかの様だ。指先ひとつ動かすのも辛い。


雪玲シューリンの部屋は4階。4階の真ん中。四方は壁に囲まれ、出入りできる扉はひとつ。逃げられない様に外からかんぬきがかけられている……はずだ。いつもなら、この状況が普通であれば!


だが扉はあっさりと開いた。1歩2歩と歩いて、回廊に出ると誰もいないことに気がつく。回廊の先には、違和感のある闇夜。


濃紺色の空。金色の満月。薄紅色の雲。


耳の奥でキンと音がするような静寂に相応しい、怪しいまでの夜空。明るすぎる満月で星の瞬きすら見えない。


だが星がないことよりも、濃紺の闇夜よりも違和感があるのは、雪玲シューリンの顔を明るく照らす月だ。

回廊の先に見える月は、夜空を支配するように大きく、真昼の太陽よりも明るく輝いている。にも関わらず、闇と静寂をもたらしている。


「意味が……分からない……」

なぜか漏れる笑いを止める術はない。震える身体を止める気もない。


柱と柱の間にある華奢な柵に手をかけ、身を乗り出し、上を見る。


「……いた」


武者震いにも似た震えを自覚しながら目を見開くと、屋根に揺らめく人の姿が見えた。

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