見習い妓女・雪玲伝

清水柚木

第1談

「……白い雲……」


手を伸ばすとグッと掴めそうな気がする。いつもそう思っている。


「掴んで食べたら、どんな味かな?美味いかな?」


そんなことを誰かが言っていた。随分と可愛いことを言うと思ったのが、いつだったか覚えていない。


目を瞑ると瞼が明るくチカチカと光る。今日は良い日だ。体の中に巡る何かが上手く循環できている。こんな時はできれば静かにいたい。

だからひたすら無視してる。下から聞こえる、うるさい声を。


雪玲シューリン!!」


「ちっ、うぜなぁ、仮母……爆炭ババアめ」

こんな良い日に、炭が爆ぜるようなキンキンした声は聞きたくない。だけどそろそろ返事をしないと更にお小言を食らうことになってしまう。


くるっと回って立ち上がると、その勢いで足元の朱色の瓦がばきっと音を立てて割れた。


「やべ……また、仮母に怒られる。借金が増えて、年季が伸びるな」


立ち上がると街並みが見えた。朱色の屋根、唐紅の屋根、茜色に屋根、世界でも類を見ない大国である【よう国】の人間は赤が好きだ。あたしだって嫌いじゃない。だからいつもこの5階建ての楼閣の屋根に登って景色を眺めてしまう。バカとなんとかはと揶揄されても、好きなものはやめられない。


「まぁ、バレるわけないな、こんな場所……あたししか来ないしな」


雪玲シューリンはペロリと舌を出す。


ここは曜国でも一二を争う妓楼の【嫦娥の盃】。不徳にも月の女神の名前を頂いた妓女の館は5階建て。周囲と比べても一際高いこの屋根に飛び乗れるものなどいるわけがない。


雪玲シューリン!どこにいる!」


楼閣の下で叫ぶ女性の声が、雪玲シューリンの耳にもはっきり聞こえた。軽く舌打ちして、叫ぶ女性―仮母―を目を凝らして探す。仮母といっても母ではない。


雪玲シューリンは幼い頃、親にこの妓楼に売られた。なんてことない良くある話だ。貧乏な家に産まれた女児で容姿が整っていれば、妓楼に高く売られる。それだけの話。


そして仮母とはこの妓楼、【嫦娥の盃】を取り仕切る経営主の女性の事だ。元人気妓女である彼女は、気位が高い上に、癇癪持ちだ。燃された炭が爆ぜるようにギャンギャン言うので、皮肉を込めて爆炭ババアと呼ばれている。


「んん?あれは……」


額に手をかざして目を凝らせば白い砂利石を敷いた庭園が見える。もうすぐ牡丹の花が咲くのだろう。赤い蕾がふっくらとしている。夜になると灯籠に燈が灯り、孔雀を放つ。


風切り羽を切られた孔雀を、自分達の様だと言った姐姐ネーサンの美しい声を思い出す。


その庭に爆炭ババアがいる。しかもただいるだけじゃない。


雪玲シューリンの頭にカッと血が昇る。と同時に瓦を蹴って、一気に飛び降りる。瓦が何枚か割れた音がしたが気にしない。それどころではない。


空中でくるくると回ることなど雪玲シューリンには朝飯前だ。5階から飛び降りるのもなんてことない。ダンっと大きな音を立てて、白い石が突き詰められた地面に降り立つと、威勢よく目の前の男に指を指す。


翠蘭姐姐スイランネーサンを返しな、姐姐ネーサンは一晩耐久レースをやったお陰でお疲れなんだよ!」


雪玲シューリンの目の前にいるのは、長い髪を無造作に束ねた切れ長の瞳を持つ美女。腕を組んで呆れた風情だ。だがその体は巨体の男に、はがいじめにされている。男は三日月のような形をした剣を持っている。その剣は雪玲シューリンが尊敬してやまない翠蘭スイランの首元に光っている。


雪玲シューリンどこに行ってたんだい!」

仮母が唾がかかる距離で雪玲シューリンに詰め寄る。


相変わらず派手な服装だと、雪玲シューリンは目を逸らす。金ピカの首輪に腕輪。更に大きな簪。衣装だって金糸と朱色をふんだんに使いけばけばしい。

皺だらけの顔には派手な化粧。アイシャドウは紫。口紅は真っ赤。高い声でキーキー叫ぶ姿は化け物だ!


「うっさいな、助けに来たんだからぐだぐだ言うな!爆炭ババア!」


「っっ……爆炭ババア……お前くらいだよ、面と向かってそのあだ名を言うのは!仮母と言えと言ってんだろう!この扁平胸の買い損小娘!」


「扁平胸だぁ、てめーなんて垂れ乳じゃねーか!」


「まだ垂れてないわ!仮に垂れていても、お前よりも大きいわ」


「いい加減にしろ!!翠蘭スイランを殺すぞ!」


男の一括で、醜い争いが止まった。今にも掴みかかる勢いのふたりはパチパチと目を瞬き、互いの顔を見合わせる。


人質である翠蘭スイランは欠伸混じりにこの寸劇を見ている。


「気が済んだ?」


翠蘭スイランの低く美しい声が響く。この声で読まれる詩歌は美しく、管弦と合わせて歌うと天女の歌声だと評判となり、身分の高い上客が足繁く通った。そのお陰で翠蘭スイランはこの妓楼一の人気者だ。彼女の一晩の愛を乞うには庶民の年収ほどのお金が必要だ。それ故に今回のように身勝手極まりない行動をとる男も多い。つまり翠蘭スイランを力尽くで手にいれようとしているのだ。この妓楼では日常茶飯事な話。だから、この騒ぎでも庭園に誰も出て来ることはない。いるのは男と、翠蘭スイランと仮母だけだ。雪玲シューリンがいれば、事足りると皆が分かっているのだ。


「そうだ!気が済んだらこっちを見ろ!そしてここから俺達を出すんだ!翠蘭スイランは俺のものだ。俺とここから出ていくんだ」


「私はあんたに言ってんのよ?そもそもあんた誰?私はあんたなんかと行かないわよ、バカじゃないの?」


男が息を呑む。


翠蘭姐姐スイランネーサンは金がない男には冷たいんだぞ!顔は最高に美人だけど、性格が激悪なんだから、諦めろ!ばーか!ばーか!」


雪玲シューリン?死にたいの?」


翠蘭姐姐スイランネーサンになら殺されても良い、からの〜!!!」


ダッと走ったと同時に雪玲シューリンは男の剣を素手で掴む。そのままググッと上に持ち上げると、腕の中から人質になっていた翠蘭スイランがふわりと離れた。


雪玲シューリン、あとは頼むわね?」


翠蘭スイランはそのままいつもの事というように、男を振り返る事なく仮母の元へ行く。


追いかけようとする男は剣を握られ動くことができない。雪玲シューリンは後ろ手で答える。


「あいよ!あとは任せて姐姐ネーサン


「この女の癖に!」


男は雪玲が持つ剣に力を込める。雪玲シューリンより遥かに高い身長を利用し、そのまま両断しようとする。


だが雪玲シューリンは気にすることなくサラリと笑う。


「ふーん、でかいくせにその程度の力?」


雪玲シューリンが軽く指に力を加えると、剣がバキリと音を立てて壊れる。折れたのではない。剣は雪玲シューリンの指の形で抉れている。


「――――っつ、この――化け物め!」


「かわいいあたしに化け物と言うなんて」


雪玲シューリンはニコリと笑った……つもりだ。少なくとも本人は可愛く笑ったつもりだ。例え、その笑みが地獄の神ですら逃げ出しそうなほどに恐怖の笑みではあったとしても。


「地獄に堕ちろ!」


ギロっとした視線を送ると、男が小さい声で「ヒェ」っと息を呑む。そのまま辮髪べんぱつを引っ張ると、ぶちぶちっとした髪が切れる音と同時に男の顔が雪玲シューリンに近づいてきた。


そのまま拳を顔にぶち当てる。するとその巨体がふわりを宙を舞う。まるで紙飛行機のように浮いた男の上に、雪玲シューリンは飛び乗る。その動きは人間業ではない。それほどの早い動きだ。そしてそのまま思いっきり背中を蹴る。地面に埋まる勢いで落ちた男の上で、ポーズと決めながら、雪玲シューリンはニヤリと笑う。


「一件落着!」

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