第三章 現地調査

 開始から一時間程度で裁判が終わり、榊原と瑞穂の二人は京都地裁の外に出た。

「どうだったね、裁判は?」

「今までにも何度か見た事がありますけど……やっぱりこの空気は慣れませんね」

 一応言っておくと、瑞穂が裁判を傍聴するのはこれが初めてではない。高校時代から名探偵として知られる榊原にくっついて何度か見た事があるが、それでもまだ慣れない事も多いし、よくわからない専門用語もあるというのが現状だった。

 と、そこへ後ろから岡部と片寄が追いかけてきた。

「探偵さん、来てくださったんですね」

「えぇ。これも仕事ですからね」

 一方、片寄は胡散臭そうな表情で瑞穂の方を見つめている。

「あの、その子は?」

「あぁ、えっと……」

「深町瑞穂です。先生の助手をしています」

「自称、だがね」

 お決まりのやり取りが行われ、二人は少し呆気にとられていたが、深く考えたら負けと思ったのか話を事件の事へ戻した。

「それで、今日の裁判をご覧になってどう思われましたか?」

 期待を込めた岡部の問いに、しかし榊原ははぐらかすように答える。

「まだ、何とも。今は情報を集めている段階です。これからそれを整理して、論理を組み立てる必要があります」

「ふん、随分余裕だな」

 片寄がぼそりと皮肉めいた事を呟くが榊原は気にしない。

「犯罪捜査に焦りは禁物ですからね。心配せずとも、依頼を受けた以上、必ず何らかの結果は出すつもりですよ」

「そうかよ。まぁ、解決してもらえるなら俺は何でもいいけどよ」

 片寄がそう言ってさらに何か言おうとした時、不意に片寄の携帯が鳴った。

「チッ、こんな時に」

 そう言いながら、片寄は電話に出る。そのまま数分、何事かを話していたが、やがて電話を終えて戻って来た。

「悪い、うちの妹からだ。部屋の洗濯機が壊れたらしくて、どうしたらいいかわからないからすぐに戻ってきてほしいって言ってる。先に行くぞ」

「わかった」

 岡部がそう答えると、片寄は慌てた様子で裁判所の駐輪場に向かい、そこに駐輪してあった自転車でこの場を去っていく。それを見送りながら、榊原は残された岡部に尋ねた。

「彼の妹さん、というのは?」

「ええっと、美樹さんという子です。今年になってこっちの大学に入ったらしくって、片寄君と同じアパートの部屋に下宿しているんです。僕と涼花もよく彼の部屋に遊びに行ったりしていましたけど、その時に面識があります。兄と違っておとなしくて静かな子でしたけど、涼花とは気が合ったみたいで、よく話していました」

「片寄さんの部屋が、君たちのたまり場のようになっていたという事ですか?」

「えぇ。美樹さんが引っ越してくるより前からそんな感じでした。そういえばあの日も……」

「あの日というのは?」

「あぁ、涼花が例のひったくりを見た日です。あの日は大学終わった後で、三人で彼の部屋でゲーム大会をしていました。途中で涼花がバイトで抜けた後もずっと二人でゲームをしていたんですが、そしたら夜になって涼花から『ちょっと来てほしい』という連絡があって、ひったくりの現場まで彼女を迎えに行った覚えがありますね」

「なるほど。そういう状況でしたか」

 榊原はそう言って何かを考え込んでいたが、すぐに首を振ってこう言った。

「話を戻しますが、こちらとしてもとにかく最善は尽くします。調査は始まったばかりですので、今言えるのはそれだけです」

「わかりました。今後も、よろしくお願いします」

 そのようなやり取りを経て岡部も去っていくと、それを見送っていた瑞穂が榊原に尋ねた。

「それで、この後はどうするんですか?」

「昼食を取った後、現場のマンションを実際に調べてみようと思う。確か東山区のマンションだったな」

「じゃあ、烏丸線で烏丸御池駅まで行って、そこから東西線で山科の方へ行くのが一番ですね」

 東京在住の女子大生が京都の地下鉄の路線に詳しいというのはどうなのかとも思うが、それだけ何度も京都を訪れていることの証明でもあろう。とにかく二人は近くの喫茶店で軽く昼食をとると、最寄り駅から烏丸線の地下ホームに降りるとちょうど来た電車に乗り、瑞穂の言ったような経路で東山区の現場近くの最寄り駅に到着した。

「で、そのマンションってどこにあるんですか?」

「待ってくれ……昨日のうちに、依頼人に教えてもらった住所を調べておいた」

 そう言いながら、榊原はポケットからパソコンで印刷したと思しき地図を取り出し、その地図を頼りに歩き出す。そして駅から十分ほど歩いた、住宅街の真ん中にそのマンションはあった。

「かなり年季の入ったマンションだな」

 榊原の言うように、そのマンションはかなり古い四階建ての建物で、マンションというよりアパートとか一棟しかない団地とか言い換えてもしっくりくるような代物だった。敷地内にも比較的簡単に入る事ができ、二人は誰にも見とがめられる事なくあっさりと『現場』に足を踏み入れる事ができた。

「ここだな」

 榊原が足を止めたのは、マンション敷地内の屋根付きの自転車庫と建物の間にある通路のような場所だった。道幅はせいぜい二~三メートルほどだろうか。榊原が事前に調べた情報では、被害者はこの辺りで上から落ちてきたレンガにぶつかって命を落としてしまったとの事だった。

「この上となると……あそこか」

 榊原は現場の頭上を見上げる。その視線の先にはこのマンションの屋上の手すりが見える。話が正しいなら、問題のレンガはあの場所から落ちた事になる。

「被害者はこのマンションの二階に住んでいて、大学まで自転車で通っていた。警察の見解は、事件当時、被害者は大学から帰宅して自転車をそこの自転車庫に停め、マンションの正面入口に向かうためにこの通路を歩いていたところに上からレンガが落ちてきたというものだ。実際、被害者の自転車はその自転車庫に停められていたのが見つかっているし、関係者の話だとこの自転車庫からマンションの入口に向かうにはこの通路を通るのが一番近く、ほとんどの住人がこの通路を使っていたようだ」

「つまり、被害者がこの通路を通る事に不自然はないって事ですか」

「あぁ。逆に言えば……被害者がこの通路を通る事はある程度予測できるわけだ」

 そう言いながら、榊原は実際に遺体が倒れていた辺りを観察する。

「警察の記録によれば、落下してきたレンガは被害者の頭部を直撃し、その直後に反動で地面のアスファルトに落下した。そこにある地面のへこみが、実際にレンガが発見された場所だ」

 そう言われてみると、確かにアスファルトの一角に最近できたようなへこみがある。ここに被害者の頭部を直撃したレンガが落下し、へこみをつけたのだろう。

「アスファルトをへこませるなんて……かなりの勢いで落ちてきたみたいですね」

「そうだな。他には……」

 榊原は改めて周囲を確認する。日陰である事もあってか通路自体は薄暗く、掃除もされていないのかマンションの壁も薄汚れていて、場所によっては無断で張り付けられたチラシか何かを乱暴にはがしたかのような跡や、そうしたチラシを剥がすときに残ったと思しきセロテープと紙の切れ端も確認できる。壁の隅の方にはコケが生えているのも確認でき、昼間だからいいものの、夜に通ったらかなり不気味なのではないかと瑞穂は思ったりした。

「そして、ここを抜けると……」

 榊原はそのまま現場の通路を抜けて表にあるマンションの入口に出る。マンションほぼ中央にある階段がそれで、それ以外の出入口は奥の方に非常階段があるだけのようだった。そしてその階段の入る場所に、一台の防犯カメラが申し訳程度についているのが見える。

「一応、防犯カメラはあるんですね」

「あぁ。ただし記録によれば、カメラがついているのはそこ一ヶ所……つまりマンション一階の階段の入口だけらしいが」

 裁判に提出された記録によれば、このマンション入口の防犯カメラに、事件直後に階段を駆け下りて来る斉川の姿が映っていたらしい。このマンションにエレベーターはなく、マンション内部への出入りはこの防犯カメラのある通常の階段とマンション脇にある非常階段に限定されるが、事件直後の警察の捜査によると非常階段の方は非常時に破壊できるプラスチック式のカバーでそれぞれの階に出るドアの鍵の部分が覆われており、屋上を含めたすべての階のカバーに異常がなかった事から使用された可能性はないと判断されていた。従って、事件当時のマンション内部から外への出入りは防犯カメラがあった通常の階段からしかできなかった事になる。

「でも、エレベーターもないなんて……バリアフリーも何もあったもんじゃないですね」

「年季の入った古いマンションだからな。そういう事を考慮していないんだろう。見たところ、住人の大半は学生や独身者のようだ」

 だが、それだけに事件を取り巻く状況はシンプルである。

「そして、これが倉庫か」

 入口の階段のすぐ正面、そこにマンションの住人が共有で使える倉庫がある。一応鍵はかかっているがすぐ横のポストに合い鍵が入っており、それを知っている人間なら誰でも自由に使えるようになっていた。

「まぁ、中に価値があるものはほとんどないという事なんだろうな」

 そう言いながら、榊原も鍵を開けて中を確認する。その言葉通り見た限りほんとに倉庫といった風で価値がありそうなものは見えなかったが、その一角に園芸用品が多く置かれた場所があった。そこが、屋上菜園をしているという被告人・斉川敦夫のスペースのようである。

「事件発生の少し前、斉川敦夫は屋上から一度一階に降りてこの倉庫に行き、ここに保管してあった予備のレンガを一つ持って行ったらしい。そしてそのレンガを不用意に屋上の手すりに置き、何かの拍子にそれが落下。下を歩いていた被害者に命中してしまったというのが斉川の主張だ」

 実際、倉庫内の一角には未使用のレンガがまだいくつか積まれていた。このレンガの山から持って行ったという事なのだろう。

「ちなみに、さっきの防犯カメラにもその様子は映っていたそうだ。具体的には事件発生の少し前に屋上から降りてきた被告人の姿と、その数分後にレンガを持って再び屋上に戻っていく被告人の姿だな。いずれも事件発生前……つまり被害者がマンションに帰って来るより前の時間帯だ」

 つまり、このレンガを取りに行った時に斉川が被害者を殺害したという推理は成立しないというわけだ。第一、至近距離から直接殴り殺したのなら衣服などに返り血が付着していたはずで、それが見つかっていない時点でこの可能性がない事は自明である。いくら事故と判断されているとはいえ、その辺りは警察もちゃんと確認しているはずだった。

「さて、次はその屋上菜園とやらだが……その前に、被害者と被告人の部屋を見ておくか」

 榊原はそう言うと階段を昇り始め、瑞穂も慌てて後に続く。まず榊原が向かったのは、被害者・家田涼花の住んでいた二階の二〇三号室だった。無論、部外者である榊原が勝手に部屋に入るなどという事はできないし、そもそもそんな事をする気は最初から榊原にもないらしい。ただ、部屋の前に到着すると、榊原は少し驚いたような声を出した。

「これは……」

 被害者の部屋のドアの前……そこにはたくさんの花束が供えられていた。

「まだ、引き払っていないみたいですね」

「あぁ。荷物の整理とかあるし、ご両親が家賃を払っているんだろう。それにしても……花束の量を見るに、友人は多かったようだな」

 おそらく葬儀が東京だったので、参列できない友人が花束を供えに来たという事なのだろう。榊原もその花束の前で黙祷し、瑞穂も慌ててそれに倣う。しばし沈黙がその場を支配した。

 と、その時だった。不意に、被害者の部屋の隣……二〇二号室のドアが開き、中から一人の男が姿を見せた。年齢は二十歳前後だろうか。だが顔は青白く、どこか不健康そうなやせ気味の体格の男である。怪我でもしているのか左腕を白い布で首から吊っているのが印象的であるが、男は誰もいないと思っていた廊下に人影がいるのに気付き、どこか訝しげにこちらを見ていた。

「あの……何か?」

 男は神経質そうな表情でそんな言葉を発する。対して、榊原は穏やかな口調で応じた。

「失礼、その部屋にお住まいの方ですか?」

「そうですが……」

「少し、お話を聞きたいのですが、お時間、よろしいですか?」

「……何ですか?」

「お隣の家田涼花さんについてです」

「……あなたたち、マスコミか何かですか?」

 男は今度は胡散臭そうに言う。榊原ははぐらかしつつ応じた。

「まぁ、そんな感じです。ちょっと彼女が亡くなった事件について調べていましてね」

「ふーん」

「失礼ですが、お名前をお聞きしても?」

 榊原の問いかけに、男は少し躊躇していたが、やがて不承不承という風に応えた。

赤野照夫あかのてるお。京邦大学文学の二年生です」

「京邦大学文学部……という事は、お隣の家田涼花さんとは同じ大学の同じ学部?」

「みたいですね。あまり付き合いはありませんでしたけど」

 そう言いながら、赤野は少し視線をずらす。榊原はそれに気付かぬ風に、質問を続けた。

「家田さんはどんな女性でしたか?」

「どうって……普通に明るい性格のいい人でしたよ。時々廊下ですれ違う事もありましたけど、普通に挨拶してくれましたし」

「では、斉川敦夫という名前に心当たりは?」

「あぁ、家田さんにレンガを落として捕まった人ですか。でも、知ったのは事件が起こってからで、それまでは名前も知りませんでした。もちろん、この建物の中ですれ違った事くらいはあるかもしれませんけど」

「そうですか……」

 と、ここで瑞穂が遠慮がちに質問する。

「あの、その腕はどうしたんですか?」

 瑞穂が気になっていた事を聞くと、赤野は顔をしかめつつ答えた。

「あぁ、これですか。いや、ちょっと前に自転車で走っている時に転んじゃって……。最近ついてないんですよ。希望していたゼミの抽選には落ちるし、即売会でお目当ての同人誌を買い損ねるし、ずっと使い続けていた腕時計をなくすし、とどめに自転車ですっ転んで左腕骨折するし……もう散々ですよ」

 そう言って、赤野は深いため息をついた。と、今度は榊原が問いかける。

「最後に一つ。あなたは普段、大学までどうやって通学していますか?」

「どうやってって……普通に自転車ですけど。まぁ、腕折ってからは仕方がないからバスを使っていますが」

「では、現場近くの自転車庫も使っている?」

「えぇ、まぁ」

「それでは事件当日、問題の現場の辺りで何か普段と違うものを見たりはしませんでしたか? 何でもいいんですが」

 赤野は不審そうな表情を浮かべたが、やがて小さくかぶりを振った。

「申し訳ないですけど、特になかったと思いますよ。僕が見たのは朝に学校に行く時だけですけど、何か変化があったらさすがに覚えているはずなので」

「朝だけ、というのは?」

「いや、実は腕折ったのってその日なんですよ。帰りにすっ転んで、そのまま病院に運ばれて……。自転車はそのまま警察に回収されたらしくって、後日に引き取りに行きました。僕自身はその日そのまま病院からこの部屋に帰ったので、自転車庫には寄っていません」

「そうですか……。いや、引き止めたりして申し訳ありません」

「はぁ」

 赤野は首をひねりながらも、その場を去って行った。

「何というか……変わった人ですね」

「そうだな。まぁ、必要な事は聞いた。ひとまずは良しとしよう」


 次に榊原が向かったのは、被告人の部屋である四階の四〇八号室だった。なお、その部屋は現場の通路の位置からは真反対にある角部屋であり、従って彼が屋上ではなく自室からレンガを落としたなどという推理は成り立たないし、ましてわざわざそんな事をする理由も瑞穂には全く思いつかなかった。

「ここだな」

 当然ながら、こちらも室内に入るなどという事はできない。ただ、ドアの横のポストに大量のチラシが投げ込まれており、その中を探ると榊原が少し険しい表情を浮かべた。

「これは……随分不用心だな」

 瑞穂が覗くと、大量のチラシなどが入ったポストの底に、この部屋の物と思しき合い鍵が入っているのが見えた。よくある隠し場所ではあるが、不用心なのも確かである。もちろん、いくら鍵があるからといって他人の部屋に入るような事を榊原がするはずもなかった。

「ひとまず、部屋を見られただけで良しとしよう。さて……」

 と、榊原は近くの部屋の表札を見やる。斉川の部屋の隣はどうやら空室らしかったが、その隣の四〇六号室には「平野」の名前が書かれていた。その部屋の前で榊原が足を止める。

「この部屋が何か?」

「確か今日の裁判で提出された証拠の中に、住人の『平野小次郎』の証言というものがあったはずだ。用事があって、今日裁判に出てこられなかったと検察官が言っていた」

「あ、そういえばそんな人がいましたね。確か、次の裁判の証人になる人だって聞いています」

 一応、ドアをノックしてみたが、中に人がいる気配はない。と、その音がうるさかったのか、隣の四〇五号室のドアがかすかに開いて、そこから眠そうな顔をした女性が顔を見せた。

「あんたら、さっきから何?」

「あぁ、失礼。うるさかったですか?」

 榊原はすぐにそう言って謝罪しつつ、あくびをしているその女性に逆に質問をする。

「失礼ついでにお聞きしたいのですが、ええっと……」

「マサミよ。先斗町のクラブで働いてるわ」

「ではマサミさん、この部屋に住む平野小次郎さんに着いて何かご存知ですか?」

「ん? ただのサラリーマンよ。忙しいらしくて、あたしが朝帰りするときにちょうど出勤していく事が多くって、まぁ、その時にちょっと話したりするけど」

「彼はどういう会社にお勤めで?」

「何だったかな……大阪の商事会社に勤務しているって聞いたけど。出張が多くて大変みたいね」

「今日もそうですか?」

「うーん、あ、朝に帰って来た時にちょうど出勤するところだったかな。泊りがけで広島に出張だって」

 どうやら、今日、平野から直接話を聞く事はできなさそうである。

「ちなみにマサミさん、六月四日……つまり今から二週間ほど前、平野さんの姿を見ましたか?」

「二週間前ぇ? そうね……あの日も確か、東京に出張するとか何とか言って出ていくのを朝帰りした時に見たかな。何か大きなプロジェクトがあったらしくって、その後三日くらい帰ってこなかったみたいだけど」

 つまり、犯行当時、平野はこのマンションにはいなかった事になる。

「マサミさん自身はどうですか?」

「あたし? あたしはあの日も夜の出勤までずっとこの部屋で寝ていたけど。何か事件があったみたいで騒がしかったのを覚えてる」

「家田涼花と斉川敦夫。この名前に心当たりは?」

「……さぁ。わからない」

「このマンションの住人なんですがね」

「悪いけど、あたし、隣の部屋の人以外、付き合いないから。もういい?」

「えぇ。お休みの所、申し訳ありませんね」

 その言葉を聞いて、マサミは最後に大あくびをしながらドアを閉めた。ひとまず、ここでできそうな事はもうなさそうだった。

「じゃあ、今度こそ屋上菜園に行くとしようか」

 榊原のその言葉を合図に、榊原と瑞穂は再び中央の階段に戻って上へ向かった。屋上にはそこから数分でたどり着き、出てすぐに、その一角にある屋上菜園が目に飛び込んできた。

「あれか」

 榊原はゆっくり菜園に近づく。事前情報通り、レンガに囲まれた五メートル四方程度の小さな菜園で、そこにいくつかの野菜が植えられているようだった。ただ、斉川が逮捕された後手入れをする人間がいないせいか、心なしか野菜もどこか元気がないように見える。

 屋上の淵は裁判で言及されたように手すりになっていた。この手すりは鉄棒式のものではなく建物と一体化したコンクリート式のもので、確かにその手すりの上に物を置けるスペースは存在するようである。

「位置的には……ここか」

 榊原はその手すりの一角に近づいた。そこは現場の真上……つまり、実際にレンガが落ちたとされている場所で、屋上菜園からは一メートル程度しか離れていない場所だった。

「斉川は手すりのこの位置にレンガを置いて破損したレンガを交換する作業をしていた。が、その時に何かの拍子で手すりに置いたレンガに彼の体が当たってしまい、そのままレンガは下に落下。被害者に命中し、命を奪ってしまった……というのが、現時点において考えられている事件の流れだ」

「確かに、この位置関係ならそういう事が起こってもおかしくはないと思いますけど」

 問題の手すりと屋上菜園の距離はかなり近い。作業中に何かのはずみでそういう事が起こる可能性は充分に考えられる事だった。

「で、一通り現場を見たわけですけど、これからどうしますか?」

 瑞穂がそう問いかけると、榊原はしばらく黙って手すりにもたれながら京都の街並みを見つめていたが、やがてこう答えた。

「仮に依頼人たちの言うように、この事件が斉川敦夫による意図的な殺人だったとしよう。その場合、斉川はうっかりレンガを落としたというわけではなく、この下を被害者が歩いているのを確認した上で、そこへ目がけてレンガを投げ落としたという事になる」

「まぁ、そうなりますよね」

 先述したように、マンションの内外に出入りするにはマンション中央の防犯カメラがある階段を使うしかない。その入口の防犯カメラに事件直後にマンションから飛び出てくる斉川が映っていた以上、事件当時、斉川は間違いなくマンション内にいた事になり、となれば斉川が直接レンガで被害者を殴り殺した後でさも屋上から駆け付けたかのように見せかけたという犯行形態は考えられない事となる。ならば、これが斉川による殺人だったとした場合、考えられる犯行形態は榊原の言ったように『屋上から被害者目がけて意図的にレンガを投げ落とす』という手法しか存在しなかった。

「でも、仮にそうだったとして、それを証明するのは難しいと思うんですけど……」

 斉川は自身が屋上からレンガを落として被害者を死なせてしまった事は認めている。つまり、例えば屋上に斉川がいた事を証明できたとしても事件には何の影響も発生しない。この事件の争点はただ一つ。斉川の手によって発生したレンガの落下が、彼の過失によるものだったのか意図的なものだったのかというこの一点だけである。そしてそれは物的証拠ではなく斉川の精神的な面が問題になっているがゆえに、瑞穂の言うようにその証明は非常に難しいと言わざるを得なかった。

 だが、榊原は動じる事無くこう言った。

「まぁ、それはやり方次第だとは思うがね」

「やり方次第って……」

「例えばだ、本当に斉川が今言った手法で犯行を行ったとした場合、最大の問題になるのは下を歩く被害者の頭部に凶器のレンガを命中させる事ができるかどうかという点だ。現状ではうっかり落としたレンガが偶然被害者の頭部に命中した事になっているが、これが他殺だとすれば偶然で片づける事はできない」

「それは、確かにそうですけど……」

「少なくともこの高さから歩きながら移動している被害者の頭部を狙ってレンガをぶつけるのは至難の業だ。となれば、斉川としては最低限の条件として、被害者の頭部の位置を何らかの方法で一定の場所に固定する必要がある」

「固定、ですか?」

 よくわからない表現に瑞穂は首をひねる。

「まぁ、難しく考える必要はない。例えばある推理小説で使われていたトリックだが、ビルの高所から植木鉢を落として下にいた被害者を殺害するという犯行で、犯人は被害者の頭の位置を固定するためにビルの下に設置されていた自販機の下に小銭を設置して被害者の頭の位置を固定するという手法を採用していた。問題の被害者は非常にがめつい人間で、常日頃から小銭が落ちていないかどうか自販機の下を探る習慣があったという設定だったんだが、犯人はその習慣を利用して自販機の下に置いた小銭を被害者に拾わせ、その小銭を取るために身をかがめた被害者の頭部の位置が固定されたのを見計らって植木鉢を落としていた」

「はぁ……」

「それ以外だと、現場にあらかじめ重量のある大きな木箱を設置しておき、被害者がそれを抱えて持ち上げようとする瞬間に凶器を落とすというやり方もあった。そのような木箱を持ち上げようとすればどうしても抱えて持ち上げるしかなく、人間の頭部の位置はある程度固定されてしまうからね。要するに、高所から重量物を落下させて相手を死に至らしめる場合、相手の頭部の位置を固定するというのはかなり重要な要素になるという事だ。最低でも、相手の足を止める必要はある」

「つまり、先生は被害者の足を止めた何かがあったと考えているんですか?」

「そういう事になる」

「でも、そんなものありましたっけ? あったら気付いていると思うんですけど」

 瑞穂が遠慮がちに言うが、榊原はこともなげに答える。

「さすがにそのまま放置してあるという事はないだろう。だが、場所が場所だけに手段はそう多くない。そこから逆説的に考えれば、犯行形態を推察する事は可能だ」

「例えば?」

「例えばそうだな……要するに被害者の足をあの場で一時的にでも止める事ができればいいわけだ。ならば狭い通路でもあるし、通路の真ん中にコーンなり工事現場で使用するような立入禁止の看板なりを置くという手段が考えられる」

 そう言いながら、榊原は瑞穂にどこか試すような視線を向けている。それを見て、瑞穂は榊原がこの手段を正解だとは思っていないと察した。少し考えて、瑞穂はこう発言する。

「でも、そのやり方だと、さすがに他の住民の記憶にも残るんじゃないですか?」

 その答えに、榊原は軽く頷いた。どうやら当たりだったらしい。

「その通りだ。この通路は何も被害者だけが使っていたわけではない。通路の真ん中にそんなものがあったら、さすがに他の住民が気付いているはずだ」

 一瞬、榊原の考えに頷きそうになる。だが、これに対して瑞穂は一つの抜け穴を思いついた。

「あ、でも斉川は事件の直前、倉庫に新しいレンガを取りに一度一階まで降りていたはずですよね。その様子がマンション入口の防犯カメラに映っていたはずですが」

「ほう、よく覚えていたね」

 榊原が少し感心したような声で瑞穂に先を促す。

「もちろん、その時点では被害者はまだ帰宅していないので、そのまま待ち伏せして殺害した可能性はないと思います。それでも、一階に降りている間に通路に障害物を置くくらいならできたはずです」

「ふむ」

「事件が起こったのは斉川がレンガを持って再び屋上に戻った直後だったはずで、時間的にはほんのわずかです。他の住人に見つかる可能性は低いし、万が一見つかったらその時は素直に犯行を中止すればいいだけです。これなら被害者だけをピンポイントに狙えるんじゃないですか?」

 榊原は少し微笑むと、まるで試すようにこう切り返した。

「なるほど、なかなか面白い推理だ。だが、いくつか疑問がある」

「な、何ですか?」

「まず、その犯行を行う前提として、斉川が被害者の帰宅する時間帯をきわめて正確に把握している事が条件となる。これについてはどう考えるね?」

「それは……被害者の習慣をあらかじめ把握しておけば不可能ではないと思います。帰宅する時間帯が毎日でたらめという人はそう多くないでしょうし、同じマンションの住人ならさりげなくそれを確認するのは難しくありません」

「結構。ならばそれはいいとしよう。では、何らかの障害物を通路に設置して被害者の足を止めさせ、その隙にレンガを屋上から落として被害者を無事に殺害したとする。その後、その障害物はどうしたと考えるね?」

「それは……事件後に遺体の傍に駆け寄った際に片づけたと考えるしかありません。それ以外に機会がありませんから」

 実際、事件が起こった直後に斉川が一階に駆け降りているのは防犯カメラも確認している。通報から警察や救急が駆け付けるまでにそれなりのタイムラグがあるので、片付けるだけなら充分に可能なはずだ。

「そうだな……一度、事件前後の時間関係を確認しておくか」

 榊原はそう言うと、裁判に提出されている事件前後の時間帯に関する記録を示した。



15時1分……レンガを取りに一階に降りる斉川を防犯カメラが確認。

15時5分……レンガを持って屋上へ戻る斉川を防犯カメラが確認。

15時7分……マンション近くのコンビニの防犯カメラに被害者の姿が確認。

15時16分……慌てた様子で一階に降りて来る斉川を防犯カメラが確認。

15時19分……斉川が110番通報(通信指令センターに記録あり)。

15時26分……通報を受けた近隣の交番の警察官が現場に臨場。遺体を確認。



「これらの記録を考慮すると、斉川が障害物を設置するのにかけられる時間はわずかに四分しかない。もちろん、この四分間には倉庫からレンガを持ち出す時間も含まれている。そして、実際に事件が発生したのはコンビニのカメラに被害者が映った十五時七分から斉川が屋上から駆けおりてくる十五時十六分までの九分間のどこかだ。まぁ、さっき実際に歩いて確認したら、コンビニから現場まで五分くらいだったから、おそらく十五時十二分頃だったと私は推測するがね。その後、斉川がマンションから飛び出してから警察が駆け付けてくるまでの時間は約十分間。問題は、そのわずか十分程度の間に道をふさいでいた障害物を隠す事ができるかという点だ。しかもこの十分という時間は全てがわかっている今だからこそ設定できる数字で、事件当時、犯人側は警察がどれくらいの時間で現場に駆けつけてくるかわからないという条件付きだ」

「それは……」

 瑞穂は言いよどむ。確かに、できなくはないがかなり厳しい話なのは間違いなさそうだった。理論上可能であるだけで、いささか机上の空論じみているという点は否定できない。

「じゃあ、どうやったっていうんですか?」

「そうだね……要するにその障害物がコーンだの看板だのだからこそ設置や処分に時間がかかってしまうわけだ。逆を言えば、駆けつけた後すぐに処分できる何かで被害者の足を止める事ができれば、このやり方も充分に考慮に値する事になる」

「すぐに処分できるものって……」

「例えば……あの場所のマンション側の壁に何か被害者が注目するような張り紙でもしておく、というのはどうだろう」

 思わぬことを言われて瑞穂は思わず呆気にとられた。

「張り紙、ですか」

「紙一枚なら設置も処分も一分前後で済むし、その内容を読んでいる間は確実に被害者の足があの場で止まる。その瞬間に上からレンガを落とせば、犯行は充分に可能だ」

「で、でも、被害者の足を止める張り紙って、どんな内容なんですか?」

 瑞穂は困惑気味に尋ねるが、榊原は意味深に首を振った。

「さて、何だろうね」

「せ、先生……」

「あくまで今のは一例だ。これが正解だと言うつもりはない。だがね……」

 そこで榊原は底で一度言葉を切ってこう続けた。

「さっき現場近くの壁を見た時、それらしき跡があったのを君は覚えていないかね?」

「え……あっ!」

 瑞穂は思わずそう声を上げる。確かにそう言われれば、現場を確認した時に近くの壁に何か張ってあった紙を剥がしたような跡があり、その一部と思しきセロテープや紙の切れ端が実際に残っていたはずだ。瑞穂は無断で張られたチラシか何かを管理人辺りが剥がしたのだと勝手に思っていたが、榊原の考えは違ったようである。

「あれがその張り紙を剥がした跡だったってことですか?」

「その可能性があるというだけの話だ。だが、もしそうだったとすれば、証拠がまだ残っているかもしれない」

「証拠……」

「剥がした張り紙そのものだ。さっきも言ったように、事件発生からわずか十数分後には現場に警察が到着し、その時点で斉川は警察に身体を拘束され、現在に至るまで拘置所に収監されている。つまり、仮に事件直後に現場に駆け寄った際に張り紙を剥がしたとしても、その張り紙を処分する時間が存在しないというわけだ。跡が残っているところから見ても、相当慌てて回収したのは間違いなさそうだ」

「でも、そのまま持っていたら、さすがに警察に見つかりますよね」

「あぁ。警察も身体検査くらいはしただろうからな。かといって、このマンションの自室に持ち帰るというのはなしだ。例の階段の防犯カメラには、事件後に慌てて駆け下りていった後に斉川がアパート内の自室に戻る姿は映されていない」

「つまり……」

「事件後に現場に駆けつけてから警察が来るまでの十数分の間に、問題の張り紙を現場近くのどこかに隠した可能性が高い。警察も当初からこれを事故と判断していたから、その辺りの調査がおざなりになっている可能性は否定できない」

「じゃあ、その張り紙を探すんですか?」

「まず、そこから始めるのが筋だろう。時間的に、現場からそう離れた場所でないのは確実だがね」

 そう言うと、榊原はゆっくり階段を下りていく。瑞穂も慌ててその後に続いたのだった……。


 結果が出たのは、調べ始めてから三十分後だった。現場近くの自転車小屋のすぐ傍にある側溝を調べていた瑞穂が声を上げ、榊原がそちらへ向かう。

「見つかったかね?」

「これじゃないかと思うんですけど……」

 見ると、側溝の中のゴミがたまっている一角に、一枚のボロボロの紙が混じっているのが見えた。榊原が念のために手袋をしてその紙を手に取り中を確認すると、そこには大判のワープロ文字でこう書かれていた。


『家田涼花に天罰を』


 その悪意に染まった文字を見て瑞穂は息を飲み、榊原は満足そうに頷く。

「当たりのようだな。これが目につく場所に張ってあったら、普通は近づいて一読するだろう」

「でも、この紙が実際に張ってあったかどうかは……」

 慎重にそんな事を言う瑞穂に、榊原はこう答えた。

「壁に残ったままになっている切れ端と合うかどうか比べてみようか」

 そして、そのまま現場の壁の近くに行き、そこに残っていたセロテープと紙の隅の切れ端を、見つけた紙と合わせてみる。すると……

「ピッタリですね」

 瑞穂の言うように、見つけた紙の右隅が、壁に残っていた紙の切れ端とピッタリ一致した。どうやら、この紙がここに張られていたのは確かなようだ。

「被害者は自転車で帰宅した直後に壁に張られたこの紙を見つけて近づき、それを狙って上から投げ落とされたレンガが命中した……確かに辻褄は合うな」

 とはいえ、これだけでは証拠としては弱い。さらなる証拠が必要ではあった。

「さっきの推理が正しいのならば、この紙がこの場所に張られていたのは、斉川がレンガを取りに降りてきてから、事件後に一階に降りてくるまでのせいぜい十五分だけ。しかもその間、この場所を通ったのは被害者の家田涼花だけだった。だとするなら、この張り紙があの場所に張られているのを見た人間は、被害者以外に存在しないはずだ」

「そっか、ここの住人……特にあの自転車庫を使っている人にこの張り紙が張ってあるのを見たことがあるかどうかを聞けばいいんだ」

「あぁ。仮に一日だけしか張っていなかったとしても誰かの記憶には残るはず。それが全くなかったとすれば……」

「張り紙があの場所に張ってあったのは事件の時だけだったって証明できるってことですね」

 そう言ってから、瑞穂はハッと気づいたように続けた。

「って、そういえばさっき、あの赤野って人……」

「あぁ。彼は確かにこう言っていたはずだ。『事件当日の朝、現場に怪しいものは何もなかった』と」

「じゃ、じゃあ……」

「もちろん、複数の住人に裏取りをする必要はあるだろうが、現時点においてこの張り紙は事件当時だけ張られていた公算が非常に高いと言わざるを得ない」

「先生、それを考えて赤野さんにあの質問をしたんですか?」

「まぁ、そういう事だ。あとはこの張り紙そのものの詳しい鑑定も必要だ。そっちは京都府警に頼むしかないが……」

 そういいながら、榊原は問題の紙を手持ちのビニール袋に入れて保管する。それと、アタッシュケースから取り出したデジカメで張り紙が張ってあったと思しき壁の写真を撮ることも忘れなかった。

「だが、何度も言うがこの張り紙一枚だけでは証拠としては弱すぎる。もう一押しほしいところだな」

 何度も言うが、斉川が落としたレンガが被害者の致命傷になったという点はすでに本人が認めている。なので、彼がレンガを落とした事を立証する証拠がいくらあっても状況を変えることはできない。必要なのは斉川が明確な殺意を持って被害者にレンガを落とした事を立証する証拠品だった。

「でも、これ以上の証拠なんて……」

「瑞穂ちゃんはどう考えるね?」

 突然、榊原は瑞穂に話を振った。

「そ、そうですね……。仮に、斉川が最初から狙ってレンガを落としたなら、彼は家庭菜園などせずにずっと屋上から下の様子を伺っていた事になります。日頃の習慣からある程度の時間はわかるとはいっても、被害者がいつ帰って来るのかは実際に見て確認する必要がありますから」

 色々考えながらそんな事を言っていた瑞穂だったが、不意に何かに気付いたように大声を上げた。

「あっ、もしかしてずっと見張っていたなら家庭菜園の作業が全く進んでいなかったはずだから、それを証明できれば……」

 そう言いながら、瑞穂の声はどんどん弱くなっていく。仮に斉川が犯人なら、さすがにそんなあからさまな痕跡を残すとは思えないと気付いたからだ。おそらく、あらかじめ途中までそれらしい作業をしておくくらいの事はしたはずだ。

「うーん、いい線だと思ったんですけど……これ以上論理がつながりませんね。残念です」

 瑞穂が少し悔しそうにため息をつく。だが、榊原はさらにこう論理を展開した。

「もし、直接下を見なくても彼女が帰って来るかどうかを判断できたとしたらどうだね?」

「どういう事ですか?」

「これがもし意図的な殺人なら、斉川は犯行直前まで、自分が屋上にいる事をなるべく被害者に知られたくないはずだ。しかし、屋上から下を覗くとなるとどうしても姿をさらす事になってしまう。だからそうしたリスクを避けるために、わざわざ屋上から下を覗かずとも被害者の接近を察知できる仕掛けをしていたとすればどうだろうか?」

「どうだろうかって……」

「例えば、被害者を盗聴していた、とか」

 思わぬ言葉に、瑞穂は息を飲む。

「盗聴、ですか?」

「あぁ。例えば彼女の所持品なりに盗聴器を仕掛けておき、屋上菜園をしながらその音を聞いて、そこから彼女がどこにいるのかを探っていたとすれば、わざわざ下を見ずとも彼女の行動を把握する事はできる。もちろん、盗聴器の電波受信には距離制限があるはずだが、逆に言えば盗聴器から音が聞こえるようになれば、それは被害者がこのマンションに近づいてきているという何よりもの証拠になるはずだ」

「で、でも、そう簡単に彼女の所持品に盗聴器を仕掛けられますか? 

 瑞穂が反論するが、榊原はさらにこう推理を進めた。

「例えば、仕掛けられた場所が被害者の乗っていた自転車だったとすればどうだね?」

「自転車、ですか?」

「あぁ。自転車なら不特定多数の人間が出入りする自転車庫に停車してあるから、人のいない時間を見計らって盗聴器を仕掛けるのは容易い。自転車の防犯設備は盗難を防ぐ事はできても、盗聴器の設置を防ぐようにはできていない。まぁ、普通はそんな事をしても意味がないから当然ではあるがね」

「そりゃそうですけど……」

 盗聴器とは本来人の会話を聞くために設置されるもので、基本的に乗車時に喋る事がない自転車に仕掛けても全く意味がないのは自明である。だが、今回ばかりは犯行のためにそれが行われた可能性があるというのだ。

「いずれにせよ、この推理が正しいなら、仕掛けられた盗聴器の本体と、その盗聴器が拾った音声を聞き取る受信機がどこかに隠されているはずだ。さっきの張り紙と同じく、斉川が犯人なら犯行後に証拠を処分する時間はあまりないから、隠し場所は現場からそう離れていない場所、もしくは処分そのものができていない可能性さえある」

「えーっと……だったら、盗聴器は被害者の自転車のどこか。受信機の方は……」

「何度も言っているように、斉川は事件発生後すぐに一階に駆け下りていて、その際に不審なものを持っていた様子は防犯カメラに映っていない。また、時間的に自分の部屋に戻る余裕もなかったはずだ。となると、隠し場所として考えられるのは……」

 榊原はそこまで言うと、黙って上を見上げる。その様子を見て、瑞穂も何かに気付いたようだった。

「もしかして、さっきの屋上菜園!」

「被害者の自転車を調べた後は、もう一度あの菜園をちゃんと調べてみる必要がありそうだ。今度は軍手とスコップを持ってだがね」

 という事で、早速自転車庫に停めたままになっている被害者の自転車を調べる事にする。瑞穂はどれが被害者の自転車なのかわかるか心配だったが、幸いにも自転車のホイールの部分にシールが張られており、そこに被害者の名前がしっかり書かれていて、すぐに見つける事ができた。

「逆に言えば、これを見ればどれが被害者の自転車なのかは簡単に特定できるわけだがね」

 そう言いながら、榊原は慎重に自転車を確認していく。やがて、その視線がある場所で止まった。

「これだな」

 それはサドルの裏だった。サドルその物を外さなければ設置できない場所に、小さな黒い機械が設置されていたのである。詳しくは調べてみなければわからないが、状況的に榊原が指摘したような盗聴器の可能性は極めて高そうだった。

「まぁ、自転車に人知れず盗聴器を仕掛けるとなるとここくらいしかないだろうな。しかも場所が場所だけに、犯行後のわずかな時間で取り外す事も出来ないから、こうして今の今まで放置せざるを得なかったという所か。ひとまず、写真を頼む」

「は、はい」

 榊原の指示で瑞穂はサドルに仕掛けられた盗聴器らしき機械を渡されたデジカメで撮影する。調査のためとはいえ、一般人の榊原がさすがに被害者の自転車を勝手に持ち出すわけにもいかないので、これについては後で警察に回収してもらう必要があるだろう。

「次は屋上だ」

 再び二人は屋上の菜園の前に向かう。手袋をはめた榊原の手には、倉庫から拝借した園芸用の小さなスコップが握られていた。

「一応、掘る前の菜園の様子も何枚か撮っておいてくれ」

「わかりました」

 瑞穂は榊原の指示通りにデジカメで写真を撮っていく。その作業が終わったのを見計らって、榊原は怪しそうなところをスコップで掘り始めた。具体的には菜園の何カ所に掘り返したような跡があったので、そこを中心に探す事にしたのである。

 時間がかかるかと思われた作業だったが、結果が出たのは、掘り始めてから十分ほどが経過した頃だった。榊原がスコップで地面を掘っていると、菜園の隅の方で何か硬いものに当たるような感覚があった。そこから榊原が慎重に手で掘り返すと、大体地面から十センチほどのかなり浅い場所から、手のひらサイズの黒っぽい無線機のような機械が姿を見せた。

「受信機だ。ご丁寧にイヤホンもついている」

「本当に……あったんですね」

 その様子を写真に撮りながら瑞穂が驚きの声を上げる。どうやら、犯行時の時間的に深い穴を掘って埋める余裕はなかったらしい。とはいえ、事件後に菜園を掘り返すような人間はまずいないだろうから、隠す事さえできればこの程度の深さでも充分だというのが実情なのだろう。榊原が試しに機械のスイッチを入れると、機械は問題なく作動し、盗聴器が仕掛けたままになっている自転車庫周辺と思しき雑音が聞こえてきた。

「ひとまずこれで、今まで知られていなかった新たな証拠が三つも出てきたわけだ。こうなると、事件と無関係とは思えないのも事実だ」

 榊原は新たに出てきた証拠をビニール袋に入れながらそう呟く。

「正直な所、私も考えたくはなかったが、実際問題としてこうして証拠が出てしまった以上、公判で裁かれている事件についてももう一度考え直さなければならないかもしれないな」

「それってやっぱり……」

「あぁ」

 そして榊原は断言する。

「『過失』ではなく……『殺人』を前提とした推理だ」

 その言葉に瑞穂は思わず息を飲み、真剣な表情で何事か考え込んでいる榊原を見つめたのだった……。

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