全てお見通し
妻の代わりに古市さんのバーで働くことになって数ヶ月。妻のお腹にいる子が女の子だと分かった頃、バーに一人の女性がやってきた。女性は席にはつかず、俺に尋ねてきた。「知り合いがここで働いてると聞いたのだけど、知りませんか?」と。妻は以前、女性専用の風俗で働いていた。仕事上、客から恋愛感情を持たれてしまうことも少なくなかったらしく、湊が産まれる前に街で元客から声をかけられたこともあった。この人は気軽に彼女の情報を与えていい人なのだろうか。
「知り合いですか?」
「えぇ。安藤海っていう若い女の子なのだけど」
女性が彼女の名前を出すと、テーブル席に座っていた妻のファンの女性が「安藤? 鈴木じゃなくて?」と呟く。安藤というのは妻の旧姓だ。結婚式は挙げなかったし、友人に対して報告もしていない。妻を訪ねてきたこの女性も彼女が結婚したことは知らないのだろう。
「あ、もしかして安藤って、旧姓かなぁ」
「旧姓……? 海、結婚してるんですか?」
「私の知る海様だとしたら、そこのお兄さんの奥さんです」
妻のファンの女性が俺を指差す。全く。個人情報をペラペラと……。思わずため息を漏らす。
妻を訪ねてきた女性は「あなたが海の……」と、俺を見てどこか複雑そうな顔をした。だけど、どこかホッとしたようにも見えた。
妻とは幼馴染だが、関わりがあったのは中学までだ。高校以降の彼女の交友関係は知らない。今目の前に居る女性と妻が知り合ったのは恐らく高校以降だろう。見たところ、歳は俺たちとさほど変わらないように見える。俺の前に付き合っていたという美夜さん——ではなさそうだ。相当恨まれているらしいからわざわざ会いに来たりはしないだろう。しかし、妻とただならぬ関係であることは確かだろう。
そういえば彼女、高校を辞める少し前に歳上の女性と付き合っていたらしい。その女性は結局男性を選んで、妻にこう言ったそうだ。『あなたもいつかは目が覚める日が来る』と。結果的に、妻は俺を選んだ。だけど、彼女が過去の女性達に抱いた恋愛感情はきっと、偽物ではなかったはずだ。
『全部勘違いだって、証明させて。じゃないと、今までの恋が全部、一過性の感情だったことになってしまいそうで——』
そう言った彼女の切実な表情は多分、一生忘れられないだろう。忘れてはいけない。彼女の過去の恋愛を、なかったことにしてはいけない。
「……それで? 妻とはどういうご関係で?」
問うと女性は少し間を置いて「友人です」と答えた。友人の間では無い。
「と言っても、昔、喧嘩別れしたきりで……それ以来会ってなくて。たまたま、この店で働いてることを知って……彼女はきっと、私の顔も見たくないくらい恨んでるだろうけど……それでも、どうしてももう一度会いたくて。……結局会えなかったけど……ちゃんと結婚してるって知れただけで、ホッとしました」
ちゃんと結婚してるというフレーズが引っかかる。どういう意味かと掘り下げる気にはならなかった。聞かなくてもなんとなく分かるし、聞きたくない。
「お兄さん、海のこと、幸せにしてあげてくださいね」
「……本当にただの友人なんですか?」
「えっ」
「あぁ、いえ、すみません。なんか元カノみたいなこと言うなって思いまして。相当、仲がよろしかったんですね」
「も、元カノって。あはは……やだなぁ。私達、女の子同士「関係ないですよそんなの」
彼女の言葉に被せるようにしてそう返すと彼女は俺の目を見て、気まずそうに目を逸らして俯いた。反応からして、やはり彼女は妻の元カノと見て間違いないだろう。今この場に妻が居なくて良かった。居たらきっと、彼女に対して余計なことを言う。彼女の中では妻との恋愛は間違いだったのだろう。それはきっと妻にも伝わっている。だけどきっと、改めて言われたらまた傷つく。これ以上彼女を傷つけないでほしい。
「二度と妻に近づかないでもらえますか」
「えっ……」
「あなたが妻に何をしたのか、察しはつきました。お帰りください」
「察しって……想像で怒られても——」
周りの客には聞こえないように、彼女に耳打ちする。「本当は、海に未練があるんじゃないですか?」と。すると彼女は分かりやすく動揺した。
「もう一度言います。二度と妻に近づかないでください」
繰り返し忠告すると、女性は気まずそうに帰っていった。
「……海様に何したんですか? あの人」
「……俺からは何も言えません。海が戻ってきても、今日のことは話さないでくださいね」
「海様、本当に戻って来るんですか?」
「それはご心配なく。休職理由は今の女性とは関係ありませんから」
「麗音くん、そろそろ時間だけどどうする? 残業してく?」
「いえ。帰ります」
「そう。分かった。気をつけてね。また明日ね」
「はい」
店を出ると、まだ店の近くを歩いていた女性が振り返る。俺に気づくと近づいてきた。
「なにか」
「……海が昔同性と付き合ってたこと、本人から聞いたんですか?」
「聞きましたけど、それが何か」
「……あの子、私のこと、恨んでましたか?」
「知りません。けど……彼女は俺と結婚する前に言いました。男と結婚したら、過去の恋愛がなかったことになりそうで怖いって。……あなた、本当は知ってたんじゃないですか? 海が結婚したこと。知ってて、自分の選択は正しかったこと、あの時の恋愛感情は一時の過ちだったこと、それを証明して欲しくてわざわざ会いに来たんじゃないですか?」
図星だったのか、彼女は何も言い返さずに黙る。
彼女はきっと、同性を愛することは間違っているという周りの圧に耐えきれなかったのだろう。そういう空気は俺もずっと感じてきた。当事者でなくとも辛かったし、妻の友人二人がその圧に殺された。あんな悲劇はもう二度と起きてほしくない。
『哀れみなんて要らない。どうしたら救えたのかなんて無駄な議論をする暇があるのなら、どうか私が描いた悲劇を、呪いを、希望満ち溢れる物語に繋げてほしい』
妻の友人はそう残してこの世を去った。希望という呪いを、全部妻に押しつけて。だけど妻だって人間だ。プレッシャーを感じないわけじゃない。
『海のこと、いつまでも愛してあげてね。例え結ばれなくても。ずっと。ずっとだよ。彼女が死んじゃったら私の計画が狂っちゃうから』
妻の友人の言葉が蘇る。言われなくたって、妻はまだ君達の元には行かせない。これ以上、誰にも傷付けさせはしない。
彼女だって差別の被害者だ。分かってる。分かってるけど、それが海を傷つけていい理由になるわけがない。
「彼女に対する恋愛感情を否定したいなら、一人で勝手にしてください。彼女を——同性を愛する人達を巻き込まないでください」
もう二度と彼女に近づかないことを約束してもらい、彼女と別れて家の方に向かう。ここまではっきり言ってやったんだから後は負のループから自力で抜け出して、自力でなんとかしてほしい。
「ただいま」
帰宅すると「おけーりー!」という甲高い声とともに、ドタドタと慌ただしい足音が近づいてくる。湊の声だ。毎晩俺が帰るのを寝ずに待っているらしく、いつもは途中で寝落ちして妻の腕の中で寝たまま出迎えてくれていたが、今日は珍しく寝落ちしなかったらしい。しゃがんで両手を広げ、両手を前に突き出しながら走ってきた湊を腕の中に迎え入れると「おとー、おちゅかれ」と短い腕を伸ばして俺の頭をペチペチと叩いた。
「ただいま。湊。海は?」
「あっち」
湊を抱き上げて、案内に従ってリビングに行くと、妻がソファでクッションを抱えて寝ていた。
「湊、お部屋まで自分で歩ける?」
声をかけるが、返事がない。こっちも寝てしまったようだ。仕方なく、一旦寝室に湊を置いてから妻を回収しに戻る。
「よいしょ……」
「ん……」
抱き上げようと腰の下に腕を挿し入れたところで、彼女の瞼がうっすらと開いて目が合う。思わず固まってしまうと、彼女はふっと笑って俺の頭を撫でる。
「お帰り。そのまま部屋まで運んでくれて良いよ」
「起きたなら自分で歩いてほしいなぁ……」
「運びたまえ」
「……はぁい。お運びしますよ。王子」
「うむ」
改めて、妻を抱き上げて寝室に向かう。縮こまって眠る湊の隣に妻を降ろし、湊を挟むようにして横になる。
「仕事、どう? そろそろ慣れた?」
「……うん。だいぶ」
「……? なんかあった?」
「え? いや、何もないよ」
「ふぅん。あぁそう。別に話したくないなら話さなくても良いけど、話したいなら話しなよ。これ話したら僕が傷つくかもとか、そんな遠慮しなくて良いから」
元カノとが店に来たなんて、彼女はきっと聞きたくないだろう。遠慮するなと言われても遠慮する。すると彼女は「僕の元カノが店に来たとか?」と俺が言い淀んでいた内容を言い当ててきた。思わず言葉を失うと彼女は俺の顔を見て「ほんと隠し事下手だよね君」と笑う。
「で? いつの元カノ? 中学の時の? 高校の時の? それとも、わざわざ電話してきたあいつ……は流石に今更来ないか」
「……多分、高校の時の人。美夜さんじゃない方の」
「一人で? 旦那は居なかった?」
「うん。一人で」
「……ふぅん。なるほどね」
「……彼女と話した内容までは話したくない。君には聞かせたくない」
「そうだろうね。分かるよ。何話したか。顔に全部書いてあるもん」
彼女はそう言うと、優しく笑って俺の頭を撫でる。
「僕は世間体を気にして君と結婚したわけじゃない。そのことは君がよく知ってるだろ?」
「……うん。知ってるよ」
「他人から理解されなくても、君に伝わってるならそれで良いよ。……だから、君がそんな顔する必要はない」
「……うん」
話しながら頭を撫でられているうちに、催眠術にかけられるように、意識が夢の中へ引っ張られていく。完全に落ちかけたところで「愛してる」という彼女の声と共に唇に触れた柔らかい感触で目が覚める。
「……なんで起きるんだよ。白雪姫かよ。大人しく寝てろよバーカ」
目が合った彼女は不満そうに言って、俺の枕を引き抜いて俺の顔に押し付ける。枕を引き剥がすと、彼女はそっぽを向いてしまっていた。
「……海。今のもう一回」
「うるせぇ。調子乗んな。寝ろ」
「じゃあ——」
「俺からする」と言いかけたところで、彼女は振り返り、言葉を奪う。そして何事もなかったかのようにまたそっぽを向いた。
「……海。こっち向いて」
「……やだ」
これはもしや、いつもの仕返しをするチャンスなのでは。そう思い、彼女の背中に手を伸ばそうとすると、彼女は振り返って伸ばしかけた俺の腕を掴む。そして動揺する俺の唇を奪って「早く寝ろよ」と呆れるように言ってまた何事もなかったかのようにそっぽを向いた。しばらくして、寝息が聞こえてくる。流石に眠ってしまえば隙をつけそうではあったが、それをしたら怒られるどころでは済まなさそうなので大人しく目を閉じた。
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