フロムホライゾン ~水天の白いレイス~
小鳥遊梓
第一部 水天と白いレイス
prologue 意思なき幽霊
妻と子供だけは助けて欲しい。
首元に剣を突き付けられてなお、敵国の王はそう言った。
敗戦国の王がその代償に妻や娘を要求されることはよくある話だ。そうすることで、国は生きながらえるのだから。
だから、王がその命を賭してまで親族を見逃してくれと言ったその言葉の意味が一瞬理解出来なかった。
言葉を咀嚼して。
そういえば、ああ。王には息子がいたと思い出す。
なるほど、それならこの国はまだ生きる。
だがしかし、私にどうこう出来る権利はない。
剣を振りかざすと、王は抵抗の意思は見せず真っすぐに私を見つめていた。
どうしてかは分からないが、その翡翠色の目はどこか私を見据えているように感じて、気持ちが悪い。
首を刎ねる。
抵抗はない。
頭部はりんごのように転げ落ちて、その体は力なく崩れ落ちた。
転がった頭へ目を向けると、その双眸はぴったりと私の瞳を見つめていた。
じっと、私を見ている。
これまで切り捨ててきた者達の目からはそんなこと、微塵も感じなかったのに。
それなのに、この王は死してなお私をその瞳に捕らえている。
気持ち悪い。
じっと私のことを見据えている王の首も、そして見つめられていると感じている私自身も。
不明瞭な事は不快だ。
どう対応すべきなのか、分からないから。
なので、この感情はいったん忘れよう。今は、この王の首を以て戦争を終わらせることのほうが重要である。
そうだ。
それに比べたら、私の感情など些細な事だ。
そう脳内で完結させて、王の髪の毛を掴み持ち上げる。
戦争はその瞬間に終わりを告げた。
戦場にいた人間全員が、構えていた武器を下ろす。
味方は歓声を、敵は悲嘆の声を。
私は、特に何も思わなかった。
戦いが終わった。
ただ、それだけだと。
……。
「簡潔な報告だ、エメ・アヴィアージュ。それで、何か弁明はあるか」
「ありません」
弁明という言葉の意味を咀嚼しながら、なぜ管制室に呼ばれるに至ったのかを顧みる。
数年に渡り続いた隣国との戦争は、敵国の王が討ち取られたことにより終息を迎えた。元はといえば領土の問題、ちょうど間に位置する一つの町がどちらの国に属するのか、町長の話にも耳を貸さずに始めた事。そもそもこちらの国の領土ではあったのだが、維持や資金援助など一切の関与をせずに放置していたところ、隣国がその援助を始めたことで事態は複雑に絡まり合ってしまった。
ただ、奪い合っていたもの故か、戦後賠償と原因である町をそのままこちらの国が管轄するに留めた。我が国の不行き届きが原因で始まった戦争だ、そのまま国を侵略してはあまりにも格好が付かない。心の狭い、獣のごとき国として知れ渡ってしまうだろう。
これ以上は干渉しないという話で、表面上は和解したらしい。らしい、というのは、いち兵士である私に細かい事情など知る由もないからだ。表面上というのも、果たして本当に相互和解に至ったのかどうか。まあ、それこそただの兵士の私には関係のない話だが。
それよりも問題は、いまこの状況だ。突然管制室に呼び出されたかと思えば、王の首を刎ねた事の次第を説明しろと上官に言われて今に至る。敵国の王を討伐したのだ。それなのに、一体何の問題があるというのだろう。私はこの国の兵士として、戦争を終わらせるべく戦っただけなのに。
「アヴィアージュ。お前は優秀な兵士だったが、このような形になってしまい残念だ」
胸を反るようにして椅子の背に身体を預け、尊大に足を組んでいる。士官の証である緑の制服を着て、きっと、本当にそうは思っていないのだろう。とりわけ尊敬もしていない上官にどう思われようが、私にとってはどうでもいいことだ。
「申し訳ありません。仰っている意味がよく分からないのですが」
どんな失態を犯したのか、分からなかった。口ぶりから、それは私が参加した戦争に関してなのは間違いないだろう。もしかして、制圧はもっと徹底的に、ということだろうか。そういえば、王は死ぬ間際に妻と子は助けてくれと叫んでいた。親族を逃したことを咎められているのであれば、なるほど確かにそれは私の失態だ。
だが、言っておくことがあるかと問われたところで、私は一体何に対して物申したらよいのか。明確な主語がない上官の言葉に、私は突然迷路に放り込まれたような気分だった。
「分からないのか。そうか、お前は孤児だったな」
「はい。無知ゆえ、どうかご鞭撻をお願いします」
まるでこの場を支配しなければ気が済まないという振る舞い。孤児であることが、いまこの場に何か関係があるというのか。さきの戦争で私に何か落ち度かあったと言うのなら、率直に仰ってくれればいいのに。
「戦争には勝つだけでよかった。なのにお前は向こうの王を殺してしまった」
どこか人を馬鹿にしたような顔で、彼は言った。
「これから外交する上で、王を殺したことは非常に枷となる。お前はもう兵士ではいられないだろう」
彼の顔にうっすらと皺が浮かぶ。ほくそ笑んでいるようだ。あまり品が良いとは言えない、優越感の滲み出た顔。私はその姿を、特に感心もなく見ていた。
それよりもだ。戦争において、殺してはいけない敵もいるという話。戦場で明確に殺意を向けてくる敵の中には、ときに無力化で留めなければならない者もいるとは、まったく国の兵とはままならない。初めて聞いた話だったため、そちらに感心してしまった。なるほど、もし次があるならば考慮しよう。
椅子の背もたれでふんぞり返っている彼の口振りを聞くに、その情報を活用する機会はもうなさそうだが。
「私は死罪になるのでしょうか」
「死罪まではいかんが……、そうだな、王都にはもういられないだろうな」
勿体ぶるように、顎をさする。上部の判断は聞いているだろうことから、彼は優越感で支配したいがために焦らしているのだろう。どうしてそんなことをしたいのかは、私にはよく分からない。
ただ、どうやら私はこれからも生かされるらしい。これまでの彼の口振りから何らかの刑に処されるのだろうと思っていたため、肩透かしを食らった気分である。ただ国がそう言うのなら、その通りにするだけだ。
「まあ俺の愛人になるというなら、上に掛け合ってやらんでもないが? 幽霊なんか抱いたことないからな、楽しみだ」
「そうですか。私はどこへ異動となるのでしょうか」
何か言った気がするが、無視する。思うに、どこか辺境の警備に就かされるのだろう。戦うことしか知らない私にとって、兵士の任を奪われないだけまだ有り難いことだ。
対して、彼は意味もなく舌打ちをして機嫌を損ねたことを知らせてくる。塩でも舐めたような顔だ。意味の分からない言葉を無視したことが、彼を苛つかせたのだろうか。冗談に聞こえたため、まさか答えを求められている言葉だとは思わなかった。
不機嫌になった彼は、しばらく黙りこくった。その睨めつけた瞳には、無表情な私の顔が映っている。私はそれを風景かのように何も考えず見つめていると、やがて彼は大きく息を吐いた。全身で溜息をつき、額に手を当てる。これはどういう意味での行動だろうか。呆れ。諦め。それとも私と相対するこの時間に飽きたか。気の利いた返答が出来ないため、そちらの方が可能性としては高い。
「つまらん奴だ」
「自覚はしております」
ふん、と鼻を鳴らした彼の眉間には皺が刻まれていた。本当につまらないのだろう。不服そうに私を睨みながら、机の上に無造作に置かれていた一枚の紙を手に取った。
「明日からカルム村へ異動だ。荷物を纏めておけ」
「カルム村、ですか……?」
名前は知っている、というのが所感だった。国境近くに位置し、資金援助という辛うじて国からの干渉がある村。村というからには第一次産業で生計を立てているのだろうが、名産はおろか景観すら知らなかった。そんな村が、ただの兵士である私をどう必要とするのだろう。盗賊か何かに襲われているというには国の動きとしては不可解で、またどこかの村が反乱しているという話も聞いていない。まさか農業に従事しろという話ではないだろうし、どのような任務なのかまったく予想が出来なかった。
「私は何と戦うのですか、大尉」
「戦う……?」
言って、私をまじまじと見やりながら、さげすんだらしい笑いをもらした。
「戦うことしか頭にないのか」
「それしか教わりませんでしたので」
歪んだ冷笑が、貼り付けられているかのように彼の顔で固定されている。何を嘲っているのか、私にはよく分からないのでそれも無視することにしよう。彼の私へのリアクションは、考えれば考えるだけわけが分からなくなる。どうしてこんなにも、分からないことを言うのか。
「ああ、お前は騎士の称号を賜ることになった。一応戦争を終わらせた功労者だからな」
「騎士の称号……」
言われたことを確かめるように、復唱した。一つの町や村など、特定の何かを守る役割を仰せつかった者。ある程度の地位が保証されている称号である。その役割は本来、孤児であり学のない私に相応しいものではない。
つまり、これは左遷だ。それがこれから外交する国の、その王を殺した私への対応。腫れ物として扱われるのには慣れている。上がそうしろと言うのなら従おう。しかし、
「大尉。戦争はもうしなくてもよい、ということなのでしょうか」
「それは分からん。ただまあ、お前はもうしなくていいだろうな」
「大尉。兵士ではなくなった私は、一体何者なのでしょうか」
「知るか。自分で考えろ、機械じゃないんだから。本当に気味の悪い奴だな。その白い髪然り、生気を感じない。亡霊と呼ばれているのにも納得だ」
立場の優位性から満足感に浸り笑みを浮かべている。対して、私は何も感じなかった。左遷されるのなら、もうこの上官と相対する機会はなくなる。では、彼は覚えておく必要のない存在だと。そう思い至って、私を嘲笑う目の前の男が途端にどうでもよく感じたのだ。そうして、私はその顔をただ見ていた。男が愉悦に浸かり終わり、退がれと命を下すそのときまで。
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