珠玉の友③

三、


「今なんとおっしゃいました?」

「だから、茂部家の息子が死んだんだよ」


 朝の目まぐるしい業務を終え、届けられた昼餉をつまんでいたところを上役に話しかけられた朝明チョウメイは、箸を置いて居ずまいを正した。


「朝から平等所の役人が出張っていてね」


 平等所ひらじょは市中を取り締まり科律で以て罪を裁く役所だ。話によると、花街で遊女ジュリと浮かれ歩いているところを運悪く路肩の石につまずき頭を強く打ったらしい。昨晩のことだという。


「それはそれは……ご冥福をお祈りいたしますが、どうして平等所が動くんです?」

「五人目だからね」

「はい?」

「だから、五人目なんだよ」


 あやつは進貢船しんこうせんに乗っていたじゃあないか、あぁ、そういえば君はまったくこの噂を信じていやしなかったねぇ。目の前の好々爺然とした上役は、白く長い年季の入った髭を震わせて笑った。


「貴方や平等所まで噂を真に受けていると?」

「私は半分信じているよ。平等所はそうではないみたいだけどね」


 上役の返事に朝明は天井を仰ぎみる。


祝女ノロでも集めて拝ませましょうか?」

「相談中だよ」

「それで、平等所の所見はどのような?」


 思わずこぼしそうになった溜息を吞み込んで、話を元に戻す。


「やつの素行は君も承知であろう。つまらん敵を作りすぎた。君もこのあいだ崇元寺の近くで喧嘩してたってきいたよ?」

「まったく存じ上げないですね。私が多歳赤冠出世できない年寄り風情ごときと合間見えるわけ、ないじゃあないですか」

「まあ、そのつまらん敵どもがつまらんあやつを殺めるとは思えんのだ」


 だから、やはり五人目だと思わないかい?

 真剣な面持ちで同意を求められる。


 先日、己煥と聡伴にいらぬ突っかかりをしていたことは記憶に新しいが、城勤めの役人のあいだですら前々から厄介者として知られていたらしい。

 士族の位は、はちまちとよばれる、頭に織りの布を十八重に巻きつけた冠を以って目に見えるかたちで示され、青や緑、赤、黄、紫の順に上がっていく。すでに黄冠を拝し城内で役職に就いている朝明らに対して、かの茂部筑登之チクドゥンは年相応の出世にありつけず、悲しいかな、いつまでたっても赤冠の無禄者だった。


「やつの父親が煩くてな。どうしたら運悪く石につまずくのかと。流行りの不幸に巻き込まれたのでなければ、息子を妬ましく思う輩に乱暴をされたに違いないと騒いでいるんだよ」

「まあ可能性はなきにしもあらずと言えましょう」

「まさか君じゃあないよね?」

「御冗談を、次官殿」


 隣で重を広げはじめた上役に悟られぬように、少しだけ残していた飯を素早く腹に収めると、朝明は御飯箱を片付けてこの場を辞そうとした。


「年寄りの長話を聴くのは面倒かい?」

「滅相もございません。ただ、せっかくの食事ですのでお静かなほうがよろしいかと思いまして」

「あと一炷香、私に付き合ってくれたら、今日はもう退城して良いよ」

「それではご相伴にあずかります」


 かくして朝明は、一炷香のあいだ律儀な振りをして上役たる爺の話に耳を傾け、八ツ時を迎える前に城を出ることを許されたのである。



 まだ日の高いうちに城を辞した朝明が馬を飛ばして向かったのは、茂部筑登之が不幸にも命を落としたという花街であった。

 城下から一里ほど、市や人家が立ち並び賑わいをみせる四町へ下り、さらに港の近くまで抜ける。


 十年ほど前、これまで村ともよべぬほど荒れていた土地をならして二つの村をつくり、城の高官や四町の商人、清の使者らをもてなしていた女性たちを集めて王府の命のもとに妓楼をひらかせた。はじめは二つだった村も、しばらくすると三つに増えていた。茂部筑登之が石につまずいたというのはその三つ目の村で、港と隣り合ってはいるが浮島となっており、渡し船を待つ必要がある。


 海の向こうに広がる空はうっすらと雲がかかり、陽が隠れがちなせいで真昼であるにもかかわらず、薄墨をのせたようにぼんやりとしている。


 なんとなく時間を持て余してここまで来たはいいが、向こう岸までへ行くのはどうも面倒くさい。己煥ジーファンが唐栄の子弟へむけて教鞭を執っている宮や聡伴ソウハンが勤める役所もこのあたりにあるが、ふたりとも業務に追われているのだろう。馬を降りて適当に停め、人と物でひしめき合う市を当てもなく歩く。


「おや、お兄さんもお役人かい?」


 竹編みの大きなを頭に載せ、野菜を売っていた妙齢の女に声を掛けられる。


「そうだけど、ここに来たのは仕事じゃあないよ」

「そうかい。朝から平等所のお役人たちがぞろぞろと向こう岸へ渡っていってね」

「ああ、あそこで不幸があったのだと、三平等みひらでも噂になっていたね」

「ありゃあ、きっと船に乗ってた誰かが、悪いもんでも持ち帰ってきたんだよ」


 五人目だからねぇ、と女はつぶやく。


 ちょうどそのとき、岸に側づけられた数隻の小舟から数人の男たちが降りてきた。

 町のあいだでもこの一件はとうに話が広がっているのであろう、行き交う人々のなかには足を止めて彼らがこちらに上がってくる様子を見つめている者もいる。女もそこに目を向けたが、すぐにこちらへ目線を戻した。


「お兄さん、じつはあの人たちよりも随分な良人高貴なお人なんじゃあないの?」

朝衣官衣は城を出るときに脱いできたのだけどね。お上手な方だ」


 野菜を買い付けに来た客と入れ替わるように、控えめな笑みを残しつつその場を離れる。

 長閑な市中に無骨な役人は似合わんな、などと思いつつ自分では到底買うことのない食材や雑貨を見て回る。妻と別れて以来、ふたりの使用人と屋敷で暮らしているが、台所を任されることはない。一応、包丁くらいは握れるはずなのだが。


「朝明、仕事はどうした?」


 まだ真昼なのに珍しいことだ、とわざとらしく面白がるのを忘れずに言い加えられる。


 物思いにふけっていると、いつのまにか横にいたのは豆腐売りでも魚売りでもなく、己煥であった。

 出仕のとき以外は雑にハチ上だけを簪で纏めている髪が、今日は一本の後れ毛もなくすっかり纏め上げられている。結わえた欹髻かたかしらから余った一房が白馬の尾のように背の真ん中あたりで揺れていた。


「仕事は終わりだ」


 ちなみに、夜であってもこのあたりに足を運ぶことはなかなかない。もっぱらここより奥まった場所にある郭所を朝明は気に入っており、それは己煥も承知のことである。


「市のご婦人たちを誑かしにでも来たのか?」

「そんなわけあるか。北殿のじぃ……次官殿まで噂が気にかかっているらしくて、な」

「お前たち、暇なのか?」


 朝明のほうへ向きなおって首を傾げた己煥は、細く長い眉の片方を、やや上へ山を描くように持ち上げる。

 己煥は非番でこそあったが、来る年の冠船の取り持ちにかかる相談で朝から外を回っており、正直なところ噂のことなんてまったく忘れていた。今でさえ、立ち止まったせいで思い出したかのように疲れを訴える身体のほうに考えをとられそうなのだ。

 夏場のような暑さはないが、寒さのなかに時折吹きつける生ぬるい潮風は、決して心地良いものではない。厚着のまま歩き回ったせいでじんわりと掻いている汗に、身震いをしたくなった。


「少なくとも俺は暇で良いらしい」

「ではこのあと私の仕事を手伝う時間は充分にあるということだな?」

「相分かった」


 夜は聡伴も交えて会読の続きを催す予定だ。どのみち己煥の屋敷で夕餉を頂戴する予定であったから、多少煩わしい仕事を手伝わされるのも悪くはない。屋敷はここから九町ほど北へ向えばすぐである。小柄なこいつには申し訳ないが、うしろに己煥まで乗せてしまおうと朝明が思い立ったときである。岸から少し離れた場所で人だかりができている。先ほど船から降りていった平等所の役人衆と相対するは、月代を剃り、羽織袴に大小の刀を差した大和人と、それに付き従う様子の四町の役人ひとりであった。


「“来る年には清の使節が訪れるというのに、妙な噂で騒ぐ暇があるとは”」


 先頭に立つ細身の大和人が、薩州の言葉でなにやら物申している。

 隣の己煥は上手く聞き取れているようだが、この国のものともはたまた江戸のそれとも少し異なる言葉は、少し距離が遠くなるとなかなかに音をつかみにくい。さっき私がお前に言ったことと左程変わらぬ台詞を吐いているのだと己煥から教えられると、なぜか自省の念よりも癪が増す。


「あれは春に着任した在番の附役のひとりだ」

「よく覚えているな」


 確か名は永山といったか。夏に帰帆したうえに城勤めである朝明が彼をみかける機会はそう多くはなかったが、細く筋張った身体つきと、いつも眩ぶし気に細められた糸目が妙に印象に残っていた。この市のすぐうしろには在番奉行所が設けられている。どうせやつも暇に飽かせて外へ出てきたのだろう。


 在番―――在番奉行とその附役は、薩州から赴いている役人たちだ。

 今から数十年前、大和で新たな征夷大将軍が宣下をうけてそう時が経たぬ間に、この国は薩州が島津に侵され、対外的には「国」としての体面を保ちつつもその支配下に置かれることとなった。以来、この四町の端には在番奉行所が設けられ、三年ごとに入れ替わる奉行たちが当国と薩州・大和間の諸事にあたっている。


「“そちらこそ毎日小鳥狙いに精を出されておられるようで、いささかお時間を持て余しているようですな”」


 平等所の役人らしき男が、少しぎこちなさが残る韻で返答した。


 今朝から燻っていた冬の空は、いつのまにか雲がすっかり陽を覆い隠してしまい、あたりは重く湿った空気でむせ返っている。


「“我々は仕事がはやいのでね。嗜みに時間を割くこともできぬとは、哀れなものよ”」

「“永山様、そろそろ奉行所へお戻りになりませんか?”」


 うしろで控えていた四町の役人―――おそらく在番の接待役であろう青年が、永山に声をかけた。


月の走りは馬のそれ光陰矢の如し……”あなた方のほうが良くご存じだろうに。戻るぞ、林宗信リンソウシン”」


 薄暗くなった空から、一滴の水が落ちる。


「だいぶ雲行きが怪しかったが……とうとう降るか」

「濡れたら面倒だ……屋敷へ戻ろう、朝明」


 小柄な馬に無茶をさせてふたりで己煥の屋敷に辿り着いたころには、桶をひっくり返したような大雨となっていた。


「この雨では聡伴に来てもらうのは申し訳ないな」

「夜までに止めばいいんだがなぁ」


 ずぶ濡れとなってしまった着物を屋敷のなかで干し、雨が上がることを期待しながら、ふたりで夕刻を待った。

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