第3話

「ねぇ、アデル」



 彼は私の指にキスをした。



「疲れてない? 少し休む?」



「そうね。その方がいいかも」



 私と会っていない間、リディとどんな話しをしたの? 



いつもどこで会っているの? 



聞きたいことは山ほどあるけど、そんなこと、絶対に聞けない。



ノアは私を壁際の椅子に座らせると、また手にキスをした。



「これからコリンヌをダンスに誘ってくる。これは義務だ。分かってるよね。終わったらすぐにレモネードを持ってくるから、ここで待ってて」



 ノアが離れてゆく。



その真っ白な背中は、彼が一人になったとたん、すぐに女性たちに囲まれた。



私はそんな風景を、遠くから何も出来ずにぼんやりと眺めている。



そうか。



私が婚約者だといっても、その立場が確かでないことを知っているから、だからみんな、あんなにも熱心に彼に話しかけるんだ。



私がここからいなくなる日を、誰も彼もが、まだかまだかと待っているんだ。



 ノアを囲む輪の中に、コリンヌが近づいた。



ノアはすぐに彼女に手を差し伸べ、ダンスに誘う。



彼女はその手をノアに重ねた。



ゆっくりとした、親しげなダンスが始まる。



「まぁ、コリンヌさまとノアさまは、本当に絵になりますね」



「とっても素敵」



 私が座っている横で、女性二人が話し始めた。



「コリンヌさまの穏やかな性格は、きっとノアさまとも合います」



 うん、そうだよね。私もそう思う。



きっとノアにふさわしい女性というのは、こういう人のことなんだ。



ノアがこれから先を共に歩む人は、誰からも祝福され、認められ、褒められる人の方がいいに決まっている。



「そうよねぇ~。コリンヌさまは代々続く公爵家のお家柄。他にふさわしい方などいらっしゃいませんわ」



 とても小声とは思えない話し方だ。



私にワザと聞こえるようにしている。



チラリとのぞくと、視線が合った。



私は彼女たちに、無言で笑みを送る。



「それに、ノアさまには年上のしっかりした女性の方が、見ている側としても安心感がありますわね」



「そうよね。躾も礼儀作法もロクに知らない方なんて。ましてや外国からの……」



「伝統も格式も、あったものではないですわ」



「国にはまだお帰りにならないのかしら。いつまでここでノアさまのご慈悲にすがるおつもりで?」



「みっともないわね」



 クスクスと声が漏れる。



私はセリーヌから厳しく禁止されているため息を、思わずついてしまった。



彼女たちは軽やかな蔑みの笑いと共に、言いたいことを言い終え、立ち去る。



そんなこと、わざわざ教えてくれなくたって、分かってる。



 ノアと踊るコリンヌが、にこりと優雅に微笑んだ。



ノアもそれに応えるように、そっと微笑む。



彼の淡いミルクティー色の髪と、コリンヌの亜麻色の髪が、リズムに合わせて揺れる。



二人はいま、どんな話しをしているのだろう。



ノアはやっぱり、私と踊っている時と同じように、甘い言葉をささやくのかしら。



そうよね、当然よ。



頬や髪に触れ、指先にキスをし、きっと私以上に優しく抱き寄せるの。



どうしてそんなこと、今まで考えたこともなかったんだろう。



 社交界デビューは、憧れではあったけど、憧れだけでは済まないみたいだ。



泣き顔を見せたら負けだって、こんなところで泣くなって、いつも自分に言い聞かせていたのに。



扇を広げ、顔を隠す。



それでもクスクスという笑い声が耳から離れないのは、今もそれが私の周辺で、現実に渦巻いているからだ。



「アデル? お待たせ。レモネードを持ってきたよ」



「ありがとう」



 ノアの差し出すそれを、できる限りさっきのコリンヌに似せて、にっこりと微笑み、受け取る。



彼はそのまま、隣に腰を下ろした。



「どうかした?」



「ううん。あの、今日はごめんなさい。体調がずっと悪くて、それで……。それで、しばらくアカデミーにも行けなかったし、今日の夕食も、あまり食欲がなかったの」



「だから断ったの?」



 彼を見上げる。



互いにじっと見つめ合う。



ノアはどんな嘘でも、私の言葉をそのまま信じてくれる。



彼は優しく微笑むと、そっと赤茶けた醜い私の髪を撫でた。



「あぁ、それならそうと、早く言ってくれればよかったのに。アデルは緊張していたのかもしれないね。国王夫妻の代理だなんて、僕にだって荷が重いもの」



 そっと抱き寄せられ、私は彼の胸に顔を埋める。



「無理しないで。困ったことがあったら、何でも言って。ちゃんと教えて。君のためなら、僕はなんだって出来る」



「ありがとう、ノア」



 そんなことを言っても、だけどそれでも、やっぱりリディやコリンヌとは踊るのでしょう? 



今日の出席を、断ることは出来なかったでしょう? 



お城から緑の小さな館へ戻り、一緒に暮らすことは、出来ないのでしょう? 



そんな彼に、私は最上級の笑顔を浮かべる。



「おかげで気が楽になったわ。さ、この舞踏会が終わるまでは、頑張りましょう」



「立てるかい? アデル」



 彼の手が伸びる。



その手に本当にすがることは、決して許されていないのに。



重ねた手は私を力強く引き寄せた。



「よかった。ずっと心配してたんだ。君がアカデミーに来ないから、また僕は君の機嫌を損ねたんじゃないかって。気が気でなかった」



「まぁ、なによそれ」



「だって、空いた時間にアカデミーをのぞきに行くくらいしか、僕は君の姿を見ることが出来ない」



「それでいつもアカデミーに来ていたの? 変なノア」



 クスクスと笑ったら、彼は嬉しそうに微笑んだ。



「ね、もう1曲踊ってくれる? そうじゃないと、君との時間をすぐに邪魔されてしまうから」



「仕方ないわね。もう1曲だけよ」



 ノアがフロアに立つと、それだけで注目が集まる。



そのお相手は誰だろうと、誰もが首を伸ばし、のぞき込む。



タイミングを見計って、そこに滑り込んだ。



会場に憧れと嫉妬のため息があふれる。



「ね、僕のプレゼントは気に入ってくれた?」



「プレゼントって?」



「誕生日の」



「あぁ、大切に引き出しにしまってあるわ」



「そう」



 彼は、それはとても満足そうに微笑んだ。



嵐の日にもらった小さな封筒は、まだ開けてもいない。



本当は、中の確認すらしていない。



だけど大切にしまってあるのは、嘘じゃない。



「次の君の誕生日に、またあんなことをしたら怒るからね」



「あんなことって?」



「僕をのけ者にすること」



「まぁ、怖い」



「約束だよ」



 グイと手を引かれる。



ノアの唇が、私の口元に触れた。



両手を塞がれているから、それを拭うことも隠すことも出来ない。



ノアはフンと悪戯に笑った。



「これでチャラにしてあげるよ」



 大きくターン。



遠心力に引かれ、ノアと手を離したら、そのまま遠くまで飛ばされてしまいそう。



くるりと回され、また彼の腕に捕まる。



「あはは。アデル、大好きだよ」



 みんなが見ている。



すぐに逃げ出してしまいたいほど、恥ずかしい。



こんなところでキスなんてしないで。



けれど訓練された私の顔は、そのまま穏やかな笑顔を保っている。



リディが呆れている。



コリンヌは笑っている。



さっきまでイヤミを言っていた方々は、眉をしかめている。



それでもノアのステップは軽い。

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