怪獣に名前をつけるなら

@kiichilaser

第一話 子供の頃の夢とか初恋とか

 不快感に目が覚めた。汗で肌にシャツが張り付いている。それが自分の薄い身体のシルエットを際立たせる気がして、少し情けない。暗闇の中では扇風機の羽根の音だけがむなしく響いている。それを聞きながら夢の内容を思い出そうとした所で、羽根の音が止んだ。

 枕元のスマートフォンを手に取り、僕、青木悠馬は時間を確認した。午前一時。

 部屋の電気を点け、明るさに眩まないよう目を強く閉じながらシャツを着替える。柔軟剤の匂いがいつもより甘く感じた。目を閉じていたからだろうか。五感は互いに影響し合っている、というどこかで聞いた話を思い出す。

 キッチンに行き水を一杯飲んだが、未だに汗が首筋をつたっている。きっと悪夢でも見たのだろう。まるで他人事のように、僕はそう思った。

 こういう日は、外に出るに限る。イヤホンを耳にさし、スニーカーを履いて家を出た。音が出ないように鍵を閉めるこの瞬間が好きなんだよな、といつも思う。なんだか解放されている気がするから。何から解放されているのかはよく分からないが、一つは時間だろう。家を出ると時間から解放される。

 ウォークマンの中で売れないロックバンドが叫んでいる。それを聞きながらコンクリートを踏む。裸足の上に履いたスニーカーは、硬い地面の感覚をダイレクトに伝えてくれる。暗い住宅街の中で、その感覚だけがリアルだ。明かりも無い静まった家々とバンドマンの叫びは、なんだか取り合わせが嘘のように感じる。

 バンドマンは、愛を歌っていた。愛というのは、強いものだろうか。それとも、弱いものだろうか。耳元でロックバンドが、なによりも強い愛を歌っていた。

 その曲が終わると、ウォークマンを操作しFMラジオをつけた。今度はお笑い芸人が上機嫌に語る。

「失恋とか未練とかってさ、よく分かんないんだよな。いつまで引きずってんだよって話だよ。人間いつだって切り替えが大事なんだからさ、ダメだったらすぐ前向けばいいと思うんだよね」

 また愛の話かよ。そういうお前は失敗も失恋も引きずった事ないんだろうな。

 あまり尊大に彼が語るから、僕はそんな風に苛立ってしまう。自分の価値観に自信がある人間は、いつだって気持ちが悪い。それを恥ずかしげもなく電波に乗せるようなやつは尚更だ。

 それにしても今日は蒸し暑い。六月になって急に気温が上がり始めた。梅雨も近づいているらしく、不快感の多い夜だ。でも、家の中にいるよりはましだと思う。外にいる方が、やっぱり気は楽だ。結局家に帰らなければならないのは、気が重くなるけど。

 別に家族が嫌いな訳では無い。なんとなくやりづらさを感じている、というだけだ。小学生の頃からだろうか、両親の仲が悪い。二人とも、家の中では僕としか会話をしようとしない。でも食事は決まって三人で取る。だから、僕だけが喋りっぱなしだ。片方と話し終わったら、もう片方と話す、という感じで。それがやりづらい。

 両親はその事をどう考えているのだろう。僕としては、一刻も早く問題を解決してほしい。まあ、いちいちそんな事口に出さないけど。

 二人の問題は、二人で解決するべきだと思う。僕がその割を食うのは、多少仕方ない事だと思う事にしている。

 ――プツン。

 気がつくと、公園のベンチに座っていた。

 コンクリートを踏んでいたはずの両足は、いつの間にか柔らかい土を踏んでいた。見慣れたブランコと、小さな黄色い滑り台が目に入る。雨に濡れた草の匂いが、僕の意識を現実に連れ戻したようだった。

 あれ? 僕、ここまで歩いたっけ?

 不思議な感覚だ。目が覚めたらそこは密室でした、みたいな感覚。

 多分、家を抜け出したときからそんなに時間は経っていない。記憶が二、三分だけなくなっているような、そんな感じ。

 蒸し暑さもさっきまでと変わらないし、耳元のお笑い芸人もさっきと同じような話をしている。考え事をしすぎて、無意識の内にここまで来てベンチに座ったのだろうか。

 訝しく思いながらも、僕は散歩を続けようとベンチから立ち上がった。

 ――プツン。

 気がつくと、僕は公園にいた。

 ここ、どこだ?

 見慣れないブランコと、小さな滑り台が目に入る。

 夜道を歩いていたら、いつの間にか知らない場所に迷い込んでしまったのだろうか。蒸し暑さはさっきまでと変わらない。耳元のお笑い芸人も、さっきと同じような話をしている。服装だってさっきまでと同じパジャマのままだ。

 景色だけが、僕の記憶にないものだった。

 そう考えたとき、そんな訳がない、と同時に思った。

 知らないはずがない。ここは、家の近くの公園だ。錆びたブランコと黄色い滑り台も、小さい頃よく遊んだものだ。

 どうして、すぐに思い出せなかったんだろう? と、考えると同時に頭にズキズキとした電流が走った。

 脳に、何か重たいものが詰め込められる感覚。そのせいで、軽く眩暈がした。

 その眩暈が終わると、何故か僕は先ほどの事を思い出していた。

 深呼吸をして、頭を整理する。

 家を出て、住宅街を歩いていたのは確かだ。でも、知らない内に公園に居て、かと思えばその公園の事を忘れた。どう考えても、何かがおかしい。

 きっと寝ぼけているのだろう。そうでなければ、明晰夢というやつだ。夢の中で意識がある、みたいなやつ。

 ――プツン。

 気がつくと、知らない公園のベンチに座っていた。さっきまでキッチンで水を飲んでいたはずなのに、どうして?

 全く知らない景色が視界には映り、耳元ではおじさんが気持ちよさそうに喋っている。僕は驚いて耳からイヤホンを外した。

 ここ、どこ――。

 そう思ったとき、ふと、気づいた。

 ……あれ、僕、誰だ?

 自分の名前が、思い出せなかった。

 よし。一回落ち着こう。ど忘れってこともあるかもしれないし。深呼吸。深呼吸しよう。すうーー。はあーーーー。

 僕が深呼吸でど忘れを乗り切ろうとしたその時、頭を誰かに殴られた感覚がした。 

 ゴツン。

 僕は頭を押さえてその場にうずくまった。直後、割れるような頭痛と共に、僕は全てを思い出した。

 僕は青木悠馬。十七歳、高校二年生。その他もろもろ、大体の事は思い出した。

 気づくと僕の息は荒れていた。浅い呼吸で、苛立つ。

 なんでこんな事になってるんだ。夜道を散歩していたら、知らない内に公園に居て、その上、記憶喪失になりかけた。意味が分からない。

 呼吸を整えながら、考える。

 よし、家に帰ろう。きっとこの公園が良くないんだ。この公園がよからぬ事を引き起こしている。さっさと家に帰って今度こそ眠りにつこう。明日も学校だ。朝が早い。もうこんな事はこりごりだ。明日、上手く笑い話にできるかも怪しい。

 と、思ったのに、今度は。

 降ってきた。怪獣が、空から。


 それは、僕の丁度真上から降ってきた。巨大な物体が天から高速で落ちてきて、一瞬で視界を黒く埋め尽くす。

 やっぱり夢だ。そうに違いない。だって、夢じゃないと僕はこのまま押しつぶされる。押しつぶされたら夢から覚めるのか? いや、この夢はやけにリアルだ。押しつぶされたら多分痛い。ていうか、夢だと決まった訳じゃない。夢じゃなかったら、このまま――。

 僕は訳も分からずその場にうずくまり、落下してくる物体から目を背けた。

 ……あれ?

 僕の上に着地するかに思われたそれは、いくら待っても落ちてこなかった。その代わりに、身体が浮き上がるような突風が吹いている。飛ばされまいと僕は地面にしがみついた。

 僕は姿勢を変えないまま巨大物体を見上げた。

 巨体はどうやら、生き物であるようだ。大きな翼があり、それをはためかせているから突風が吹いているらしい。でもその姿は鳥とも、恐竜とも、ドラゴンとも言えない。

 プテラノドン、に大まかな形は似ている気がする。でも頭の形は全然違う。トサカがある訳ではなく、いわゆるドラゴンに近い頭部だ。加えて、それなりに長い尻尾がある。足は一対で、大きな翼の先が手のようになっている。暗くてよく見えないが、全身は赤黒い鱗に覆われているようだった。

 あ。こういうのって、ワイバーンっていうんだっけ? そういえばそんな気がする。基本の形はプテラノドンよりドラゴンに近いような気がしてきた。

 こう見ると意外とカッコいいな、と僕が思いかけたとき、ワイバーンもどきは顔を少し動かしてこちらを睨んだ。目が合った。

 これ絶対食べられるやつじゃん。逃げた方がいいのか? めっちゃこっち見てるし。僕おいしくないと思いますよー。

 僕が身の危険を感じ始めたそのとき、巨大生物は消えた。音もなく消えた。

 さっきまでの記憶の異常とは違うはずだ。僕の中の記憶は地続きになっている。そのはずなのに、巨体は消え、僕の視線の先にはさっきまでとは違う光景があった。

 消えた巨大生物の代わりに、そこには女の子が立っていた。


 僕が呆気に取られながらその場で立ち上がると、女の子は真っ直ぐこちらに歩いてきた。いや、誰だよ。誰でも構わないが、僕を安全に家に帰して欲しい。それか、早く夢から覚ませて欲しい。

 女の子は、どうやら怒っているようだった。眉間のしわと、広い歩幅がそれを表している。彼女は多分女子高生で、僕と同い年くらい。制服を着ているけど、それがどこの高校の物か分からない。セーラー服の、多分冬服。この蒸し暑い夜には合っていない。

 彼女の視線は真っ直ぐにこちらを見つめている。見つめているというか、睨んでいる? 何も怒らせるようなことをした覚えはない。とばっちりで怒られるのだけは嫌だ。

 彼女はズカズカとこちらに歩いてくる。その足取りからも苛立ちが伝わってくる。出来れば今すぐ逃げ出したい。もう何が何だか分からないが、彼女は多分僕に話しかけるつもりだ。怒っている人間の相手はしたくない。怒りの矛先が自分であれば尚更だ。

 女の子は歩きにしては速いスピードで僕の目の前まで来ると、大きなため息をついてからこちらをもう一度睨んで言った。

「ねえ。君、今の見た?」

 話しかけられてしまった。出来るだけ相手の神経を逆撫でしないように答える。

「い、今のって、何のことですか?」

 そう言ってから気づいた。質問に質問で返すのはまずかったかもしれない。

「怪獣だよ、怪獣。さっきそこにいたでしょ? それを見たかって聞いてんの」

 どうやら質問に質問で返したことは不問だったようだ。というか、あれ、怪獣なのか。言われてみれば、怪獣という呼び方が一番似合うような気もする。

「み、見たよ。見たというか、吹き飛ばされそうになった」

 今度は敬語を忘れてしまった。同い年くらいに見えたから、つい。

「あ、そうなの? それはごめんね」

 意外と怒ってないのかもしれない。ほんの少しだけ彼女の声は柔らかくなった。

「どうして君が謝るの?」

「あれ、私だから」

「あ、そうなんだ」

 すんなり受け入れてしまった。どこにでもある日常的な会話のように、彼女がそう言ったから。今は六月の真夜中で、天気は曇りで、この子は怪獣。何も不思議ではない。

 いや、おかしいでしょ。

 でも、僕は少し安心した。会話の内容はともかく、この子はこちらに危害を加えるつもりはないらしい。会話も一応は成り立つ。

 それに、夢なら全部どうなってくれても構わない。夢でないなら、それこそ、どうなってくれても別に構わない。僕の脳は混乱しきっていた。

 彼女はこちらの様子を気にせず言った。

「悪いけど、今の忘れてくれる?」

「君が怪獣で、空を飛んでた事?」

 忘れてくれる、というのはどういう事だろう。誰にも話さないで欲しいという意味だろうか。それなら自分から正体を明かさないで欲しい。

「そうそう。これは君のためでもあるからね」

 そう言うと彼女は僕の腕を掴んだ。一瞬ドキッとしたが、次の瞬間に覚えたのは強烈な痛みだった。彼女は僕の左腕を強く握った。鋭い痛みが、脳に危険信号を伝える。

 危害加えるつもり、あるのかよ。一瞬ドキッとした僕を責めたい。何浮かれてんだよ。

 僕は彼女の手を振りほどこうとしたが、ピクリとも動かない。さすが怪獣。見た目は女子高生でも、力は強いらしい。

「じっとしててよ。君のためでもあるって言ってんじゃん」

 僕がそれに答えようとしたとき、遠くで大きな音が鳴った。爆発音?

 見ると遠く、町はずれの小さな駅がある辺りから大きな黒い煙と赤い炎が上がっている。火事だ。かなり大きい。

 だが、ただの火事ではなさそうだった。遠くからで詳しくは分からないが、煙の奥に何か動くもののシルエットが見える。その動きに合わせて腹に響く地響きがドシーン、ドシーンと一定のリズムでここまで伝わってきている。

 あれも、怪獣? 僕の疲弊した脳細胞がそう予想した。

 その怪獣はさっき僕の上に落ちてきた翼竜もどきより大きいように見える。駅なんか軽く踏み潰されているんじゃないかと思うくらい。

 ふと隣を見ると、怪獣女子高生もそちらに気を取られているようだった。チャンスだ。僕は彼女から思い切り腕を振りほどいた。

 彼女は横目でじろりとこちらを睨んだ。また怒らせたかも。多分この子が本気を出せば僕は一撃でコロリだろう。僕の左腕の痛みは止みそうにない。折れるかと思った。もしかしたらもう折れているかもしれない。

 彼女は少し考えてからこちらを横目で見ながら言った。

「君、名前は? この辺に住んでんの?」

「あ、はい。名前は、青木悠馬、です」

 彼女は大きなため息をつき、棘のある声で言った。

「私はアカリ。本当は今すぐ君の記憶を食べないといけないんだけど、寝起きで力が出ないの。君にかまってるとあの怪獣と戦えないから、今日は見逃してあげる。でも君をほっとくわけにはいかないんだよね。だから、明日も同じ時間にここに来て。いい?」

 いや、良くない。彼女の言ってることはよく分からないけど、記憶を食べられるのは多分困る。というか、さっきまでも僕の記憶を食べてたんじゃないのか? 僕の記憶喪失的な何かは、ほぼ確実にこの子が関係していると思う。その辺りの説明を先にして欲しい。

 彼女は僕の返答を待たずに続けた。

「何回も言ってるけど、これは君のためでもあるんだからね。じゃあ、約束だから。また明日この場所でね」

 それだけ言って彼女――アカリは、夜の闇へ駆けていった。


 ――プツン。

 この夜の記憶は、ここで終わっている。

 気づくと翌朝で、僕はいつも通り自室のアラームで目覚めていた。



 僕の今日は、いつも通りだった。いつも通り両親は会話をせず、僕の深夜徘徊も咎められることは無かった。

 僕は家の中では基本的に息を殺している。両親の不仲はもう十年近くの事だ。初めはただの喧嘩のようだったと思うが、今では常に険悪な空気が流れている。それ以前は、普通の家庭だったと思う。もうよく覚えていないけど。

 僕は二人の問題には干渉しない。二人の問題は二人で解決するべきだと思っている、というのが一番の理由だが、もっと単に怯えているだけかもしれない。怒りの矛先が僕に向かうと嫌だ。

 それなのに朝食と夕食は決まって三人で取るから、そこそこやりづらい。気にしなければ別にどうってことはないけど。多分僕より両親の方がしんどいと思う。やっぱり、僕が割を食うのは仕方ないと思うことにする。

 ところで、昨晩の事は夢だったのだろうか? 僕は昨晩、記憶喪失になりかけ、空から降ってきた怪獣に潰されそうになり、自らを怪獣だと名乗る少女に出会った。その彼女は、今晩も同じ場所で会おう、と約束までしてきた。夢にしてはディテールがはっきりしすぎている。ただ、その女子高生と別れてからの記憶が無い。気づいたら朝だった。彼女に記憶を食べられたのだろうか。よく分からない事ばかりだ。夢なら夢だと言って欲しい。夢でないなら困る。何に困るのかは、はっきりしないが、きっと何かに困る。

 僕は彼女との約束を守ろうと考えていた。こちらとしては約束を結んだつもりはないが、女の子を待たせるのは気が引ける。

 それに、彼女は怪獣らしい。今日行かなければそのうち食べられてしまうかもしれない。こちらの名前も教えてしまったし、いつだって自分の命は大切にしたい。

 しかし、彼女は僕の記憶を食べるつもりだと言っていた。よく意味の分からない言葉だ。僕は記憶喪失になってしまうのだろうか。でも、なんとなくそうではない気がする。彼女の事を忘れるだけに留めてくれるような気が、なんとなくする。真偽は不明だ。どっちにしろ良い事が起きるわけではなさそう。

 行っても行かなくてもろくな事にはならなそうだ。それなら行っておくべきだと思う。彼女は悪人には見えなかった。性格が良さそうかと言われればそれもノーだが。

 学校で過ごしている間も、僕の今日にこれといった変化はなかった。いつも通りに授業を受け、いつも通りに昼食を取り、いつも通り下校した。

 いつもよりなんだか教室が広い気がしたけど、多分気のせいだと思う。

 変化といえばそれくらいのものだった。昨晩怪獣少女に腕を掴まれたときに聞こえた爆発音と黒煙はかなり大きなものだったが、それっぽいニュースや話題もない。悲しいニュースは少ないにこしたことは無いから、良いことだけど。

 いや、流石におかしいか?

 火事も事故も近くで見たことはないけど、昨晩のあの火事がニュースにならないのはおかしいと思う。ビル一つが丸々燃えたんじゃないかというくらいの煙だった。それに、火事の現場には怪獣が出ていたはずだ。駅なんか木端微塵になっている気がする。

 というか、僕の上に降ってきた怪獣の事だって誰も話題にしなかった。いくら深夜一時だといっても、誰か一人くらいは気づいていても良い気がする。

 それらを踏まえると、昨晩の事は全て夢だという気がしてしまう。

 よく分からない。

 とにかく今夜午前一時に、家を出て彼女に会いに行こう。


 時間ぴったりに、家を出た。少しだけ星が見える、風の気持ちいい夜だった。

 昨日彼女と出会ったのは、家の近くの小さな公園だ。小さい頃からよく訪れていた公園だが、遊具はブランコと滑り台しかない。その代わり何故かベンチはたくさんある。そのアンバランスさが、僕は好きだ。でも、昨日はこの公園でよからぬ事が起きた。今日だってそうならないとは限らない。少なくとも記憶喪失は勘弁したい。

 公園に着くと、彼女はブランコを小さく漕いでいた。昨日と同じセーラー服を着ている。この辺りの学校のものではないのは確かだ。

 彼女は、こちらを見つけると、自分の隣のブランコを目で指した。座れ、ということだろう。

 僕はそこに腰掛け、彼女に声をかけた。

「こんばんは」

 彼女は落ち着いた声で答える。昨日とは印象が違う。

「こんばんは。君、深夜に家出て大丈夫なの? それも二日連続で」

 口調が優しい。昔馴染みの友人のような感じだ。ほぼ初対面なのに。

「珍しい事じゃないから大丈夫だよ。親は多分気づいてるけど、怒られるようなことは無い」

「それならいいけど。ちょっと歩こうよ」

 少女は立ち上がってそう言った。先ほどブランコに座らせたばかりなのに、もう歩かせるのか。といっても、特に断る理由は無い。深夜の散歩は好きだ。

 彼女は僕の前を歩く。不思議な子だ。彼女の背中には、妙な安心感がある。僕と同じくらいの年齢に見えるのに、その背中からは歴史を感じる。怪獣って、そういうものなのだろうか。

 明かりがすべて消えた街で、二人の足音だけが心地よいリズムを打っている。

 公園を去って少したった後、僕は尋ねた。

「君は、本当に怪獣なの?」

 彼女は、雲間の星を探しながら答えた。

「そうだよ。あと、私の名前、アカリだから。君、じゃなくて」

 変な所に拘る子だ。呼び方より気になる事が沢山ある。君にはないかもしれないけど、僕には沢山ある。

 それに、健全な男子高校生にとっては同い年くらいの女の子を下の名前で呼ぶのは恥ずかしいものだ。

 次に彼女がした質問は、唐突だけど、でも多分大切な問いだったと思う。

「悠馬はさ、人生で一番最初にできた友達の事、まだ覚えてる?」

 僕は答えた。

「覚えてない、と思う」

 初めて友達が出来たのは、幼稚園に入るよりも前だと思う。母親の友達の子供と、仲が良かった気がしなくもない。でも、その子の顔も名前も思い出せない。幼稚園の頃の友達だって思い出すことはできない。

「だよね」

 彼女は小さな声でそう言うと、今度は大きな声で言った。

「私の存在は、まさしく『それ』なんだよ」

 よく分からない。比喩だとは思うが、何を伝えたいのか分からない。

「どういうこと?」

「大切なものも、皆いつかは忘れられるって事だよ。間違いなく自分を作ってくれた存在なのに、自分の記憶にはもう居ない存在。そういうのって、あるでしょ?」

「……ある、かも」

 彼女は澄んだ声で続けた。

「私は、忘れられた人たちの事を、皆に覚えていて欲しいんだよ。だから私は戦ってるの」

「君は、自分の事を覚えていて欲しいってこと?」

 今度は人懐っこい声で彼女が言った。

「君、じゃなくて、アカリだって言ってるでしょ」

 僕らの会話はそこで途切れ、黙ったまま少し歩いた。

 住宅街を抜け、河川敷についた。比較的大きい河川敷だ。道路から繋がる石の階段を途中まで降り、彼女は躊躇せずそこに座った。一昨日の雨はもう乾ききっていた。若い草の匂いが、鼻腔を刺激する。五感は互いに影響し合っており、暗闇では嗅覚が鋭くなる。

 僕が彼女の隣に同じように座ったとき、彼女は言った。

「私が今日悠馬を呼び出したの、どうしてか分かる?」

 忘れていた。出来る事なら思い出したくなかった。

「僕の記憶を食べるんでしょ。記憶を食べられたら、僕は記憶喪失になるの?」

 彼女は笑った。何もおかしなことを言ったつもりはない。

「記憶喪失にはなんないよ。私の事を忘れるだけ。今日の事と、昨日の事」

 僕は一安心したが、それは不思議な事だった。彼女は先ほど、忘れられた人たちの事を覚えていて欲しいと言った。自分の存在はまさしくそれだ、とも言った。

 それなのに、自分の事は忘れさせるのか。

「君は、自分の事を覚えていて欲しいんじゃなかったの?」

 また、君と呼んでしまった。彼女はそれには触れずに答える。

「覚えてて欲しいよ。でも、あなたのためだから」

 彼女は笑った。

 でも、なんとなく。

 本当になんとなくだけど、その笑いは、本当の笑顔ではない気がした。

 この子の事は何も知らないけど、そんな気がした。悲しみを抱えながら、それを相手に悟られまいとするような笑顔。なんていうか、自衛のための笑顔というか、これ以上踏み込んで欲しくないときの笑顔というか、そんな感じがした。

 そうだ。この笑顔は、僕の父親に似ている。何を抱えているのか教えてくれない、こちらを拒絶する笑顔。

 だから、僕は咄嗟に答えた。

 何が何だか分からなかったけど、答えるべきだと思った。

 両親の問題には口を出さない僕が、ほぼ初対面の女の子に身勝手に手を差し出すというのは矛盾している気もするが、それでも咄嗟に言った。

 言わなきゃいけないと思った。

「じゃあ、忘れさせなくていいよ。それが君のためになるなら、僕の事はどうだっていい」

 彼女は一瞬驚いたようにこっちを見たけど、すぐに俯いて顔を隠した。そして、小さな声で言った。

「皆、最初はそうやって言うんだよ」

 分からない。どういう意味だろう。やんわり否定されたような気はする。

 彼女は自分に言い聞かせるように続けた。

「忘れてはいけないものが沢山あるんだよ。子供の頃の夢とか、初恋とか、初めて声を出さずに泣いたときの記憶とか。だから私は戦ってるんだよ。怪獣に記憶が消されてしまわないように。でも、私は違うんだ。私の事は、全部忘れられるべきなんだよ」

 僕は空を見上げたが、何も見つからなかった。だから、聞いてみた。

「どうして、君の事は全部忘れられるべきなの?」

 彼女は答えない。この子は、どうして自分だけを特別扱いしているのだろう。やはり、彼女の言っている事は矛盾していると思う。自分の事を覚えていて欲しいのか、忘れて欲しいのかよく分からない。

 本心はどっちにあるのだろう。

 僕が考えていると、彼女は絞り出すような声で言った。

「だって、私も怪獣だから。それに、もうそんな事を考えるのには疲れたんだよ」

 そう言った彼女の横顔は、とても人間らしく見えた。葛藤とか、後悔とか、そういう、人間らしい痛みを全て詰め込んだような表情を、彼女はしていた。

 でもそれは一瞬だけの事で、次の瞬間には彼女はニッコリした笑顔を浮かべていた。

「はい、ここで話は終わり。君は君で明日からも死なないように生きてね」

 そう言うと彼女は、僕の腕を掴もうとした。僕はそれを出来るだけ優しく払った。

「ちょっと待ってよ。君の本心はどっちなの? 本当は、君は悲しんでるんじゃないの?」

「君、初対面でグイグイ来るね。私の嫌いなタイプだ」

「僕もそう思う。でも、君、僕の記憶を消すんでしょ? それなら代わりに君の話も聞かせて欲しい。そうじゃないと不公平だよ」

「何言ってんのか分かんない。もういいんだよ。私はずっとこうやって生きてきたの」

「じゃあ、これからは違う道を行こう。変わるって意外と悪くないよ」

「分かった風に言わないでくれる? どうせ忘れるくせに」

「分かんないよ。君が教えてくれないから」

「屁理屈じゃん」

「僕もそう思うよ」

 本当にそう思う。どうしてこんなに彼女に固執しているのか自分でも分からない。記憶を消されるのが怖いというのは一つの理由だろう。でも、それだけではない。なんとなく、君が悲しんでいる気がしたんだよ。あんな表情を浮かべた君を、放っておく気にはなれないんだよ。

「君、僕の記憶を消して後悔しない? ほら、僕たち、意外と仲良くなれるかも」

「するよ! するに決まってんじゃん!」

 と、彼女はいきなり叫んだ。急な大声に僕は唖然とした。

「でも、そうしないと駄目なんだよ。私一人の事情じゃない。怪獣が勝手な事すると皆が困るの!」

 彼女は止まらない。驚いた僕はそれを聞いている事しか出来なかった。

「そりゃあ私だって友達とか彼氏とか欲しいよ! でも、そういう訳に行かないの! 分かる? こっちはそれで一応納得してるんだから、もう黙っててよ!」

 僕は「はいそうですか」と頷けばよかったのかもしれない。

 でも、自分でも信じられないけど、僕は意地になっていた。頭で考えるより先に、僕も叫んでいた。

「嫌だよ! 友達欲しいなら、最初からそう言えよ! 友達になってくださいって! 事情とか知らないよ! 折角会えたんだからそれでいいじゃん!」

「うるさいよ! もう本当に黙って全部忘れてよ! 勝手に私の事救おうとしないで!」

「別に救いたいなんて言ってないよ!」

「言ってないならなおさらだよ! 他人の事なんだからほっといてよ!」

 確かにそうだ。赤の他人だし、彼女の事情なんて知らない。でも、何故かここで引き下がりたくは無かった。理由もなくむきになっているのだと、自分でも思う。

 でも、違う。違うんだ。

 一瞬の事なんだ。ふと、彼女が寂しそうに見えた。ふと、彼女が悲しんでいるように見えたんだよ。

 だったら、それを止めてみたくなるものだろう? 目の前で悲しんでいる女の子がいたら、その本当の笑顔を見てみたいと、思うものだろう?

 それだけが、理由なんだよ。

 だから、僕は彼女の内面を精一杯想像して言った。きっとこの子にはとても多くの事情があって、とても多くの悲しみがある。それを彼女は一人で背負って生きてきたのだろう。分からないけど、そう思い込むことにする。

「君が何を抱えているのかは、僕には分からない。でも、君が言いたい事は少し分かった気がする」

 それは嘘だった。彼女が何を言いたいのかなんて、少しも分からない。分かったふりをして、彼女を何とか慰めたかった。答え合わせは後ですればいいと思った。

 僕は、彼女を安心させるように言った。

「君は、誰にも何も忘れて欲しくないんだよね? だったら、自分の事だって、忘れさせなくていいんじゃないかな。他の誰でもなく、君自身のために」

 彼女は、僕を拒絶するように言った。

「悠馬は、忘れられない事の苦しみを分かっていない。私と関わり続けると、君は本当に苦しいまま生きていくことになる。だから、君は私の事を忘れないといけないんだ。私の事なんか知ったこっちゃない。ずっとこうやって私は生きてきたんだ」

 その言葉で、またこの子の事を考えた。

 そして、思い当たった。もちろん根拠なんてない推測だ。

 彼女はきっと、自身の提案を拒否してほしがっている。本当にそうなのかは知らない。でも、そう信じるしかないし、きっとこの予想は当たっている気がする。

 だって、僕が彼女の悲しみを止めてみたい。この子の、心からの笑顔を見てみたい。僕が、そうしたいんだ。何故だか分からないけど、僕の全身がそう叫んでいた。

 僕は完全に意地になっていた。彼女のためだと言い訳しながら、自分がこの子の笑った顔を見てみたくて、好き勝手に彼女と繋がる事を選んだ。彼女の事をもっと知って、彼女の苦しみを本当に理解できたときに答え合わせをしたいと思った。

 それで、僕の言うべき言葉が見つかった。彼女の隣に居続ける為の言葉だった。

「じゃあ、その時になったら忘れさせてくれればいいよ。今はまだその時じゃない。今はまだ、君を覚えていられるよ」

 この言葉は、正解だろうか。精一杯選んだ言葉は、彼女を慰める事ができただろうか。分からない。

 でも、その答えを知りたい。彼女の隣に居続ける事で、その答え合わせをいつかしてみたい。

 彼女は俯いて涙声で言った。

「君、じゃなくて、アカリだって言ってるでしょ。もう忘れないでよ」

 何故この子はそこまで呼び方に拘るのだろう。その理由も、知りたい。

「忘れないよ、絶対」

 アカリの事情は全く分からないけど、彼女の事を忘れなければ、彼女の悲しみと弱さをきっと理解できると思う。その時が来たらとても素敵だ。僕にとっても、きっと彼女にとっても。

 しばらくは、そのために生きてみようと思った。

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