三章 残酷なる試練
――えっ?
――ここはどこ?
――公園? それに、住宅地? どうして、こんな所に……。
かの
「ママ?」
「えっ?」
突然の声にかの
「どうしたの、ママ? なんか、おかしいよ?」
「本当、どうしたんだい、ボオッとして」
背の高い、優しそうな男が心配そうに声をかけてくる。かの
「あ、いえ、なんでもないわ。……そう。なんでもない」
「そう? なら、いいけど……」
「ええ、本当に。なんでもないわ……」
そして、かの
勇者マークスⅢ。
かつて、そう名乗り、呼ばれていた人間であることを。
――ああ、そうよ。どうして、忘れていたの? わたしはもう勇者でもなければ、マークスⅢでもない。どこにでもいる当たり前の女であり、妻であり、そして……母親。
――
――そして、わたしは剣を捨てた。当たり前の女の幸せを求めた。そして、いま……望んだままの幸せを手に入れた。
「さあ、もう遅いわ。家に帰りましょう。今日は腕によりをかけてご馳走を作ってあげるからね」
「わあい! あたし、ママのご飯、大好き!」
「おれもだよ。楽しみだなあ」
娘と一緒になって笑う夫に対し、かの
「あなたはちゃんと手伝いなさいよ」
「わ、わかってるよ。野菜を切るぐらいはやるって」
そして、三人は家路についた。幼い娘を真ん中において。娘は大好きな両親の手を、その小さな手でしっかりと握っている。
それはありふれた、けれど、かけがえのない幸せな一家の姿。
そう。それは、幼い頃から修行に明け暮れてきたマークスⅢが心の奥底に眠らせていた『当たり前の暮らし』への憧れ。
わしはその憧れを引き出し、マークスⅢに理想そのものの人生を体験させている。
これはただの幻覚などではない。本人の心の奥底から沸き起こる欲求を
この世界にいる限り、
マークスⅢ。
わしはこれから、おぬしにある残酷な仕打ちをする。
おぬしは絶望に打ちひしがれる。
そこに『救い』がもたらされる。
そのとき、おぬしはどう行動するか。
それが、おぬしの試練。鬼骨を手に入れ、
では、行くぞ、マークスⅢよ。
その残酷なときのために、いましばらくは幸福の幻影に包まれるがよい。
かの
愛する夫と娘に囲まれ、何気ない日常を重ねる日々。夫と娘のために食事を作り、家庭を守る。ささやかじゃが、充実した毎日。ときには幼い娘のワガママや生意気な態度に腹を立てることもある。夫相手に喧嘩することもある。それでも――。
まぎれもなく幸せな日々。
かの
そう思う。
その思いに応えるかのようにさりげない毎日が繰り返される。そのなかで愛する娘は着実に成長を見せる。夫と共にその成長に喜び、ときには驚かされる。
いつまでもこの幸せがつづく。
ごく自然にそう思い、疑うことすらもない。
しかし、その思いは突然、裏切られる。
愛する夫と娘が殺される。
同じ人間の手によって。
戦乱から卒業したこの時代においても犯罪はなくならない。殺人もまた。
かの
突如として奪われた幸福。
破壊された家庭。
かの
「……
そう。そこにいたのはかつてたしかに倒したはずの
滅びの定めを
その世界の敵がいま、絶望に打ちひしがれるかの
「夫と娘を取り戻したくはないか?」
「な、なんですって……?」
「
愛するものを失い、絶望に打ちひしがれる人間にとって、これほど残酷な言葉はあるまい。希望はときに、この世で最大の残酷さとなる。
このような仮想現実に出会わせるなど、心が痛む。しかし、これはやらなくてはならないこと。この試練をくぐり抜けることなく
かの
「本当に……本当に夫と娘を取り戻せるの?」
「むろんだ。
かの
――越えられなかったか。
わしは苦しい思いと共に目を閉じた。そこへ響いたひとつの言葉。
「ふざけるな!」
その叫びと共に――。
かの
かつての勇者よりもなお勇ましい、ひとりの『母』がそこにいた。
「なにが『取り返せる』よ!
その叫びで――。
マークスⅢの試練は終わった。
「すべては偽り……だったのですね?」
――そうじゃ。
わしが千年の間、眠っていた
「本当は、どこにもいなかったのですね。愛する夫も、娘さえも……」
――そうじゃ。
わしはそう繰り返す。それ以外、なにも言えはしない。
――すまぬ、とは言わぬ。恨むなら恨むがよい。じゃが、これは必要なことじゃった。
――かつて、騎士マークスも同じ誘いを受けた。わしと共に戦った仲間たちのなかにもその誘惑に引かれ、
――死者は返らない。
――死者を取り戻す方法を示されてなお、その
わしは一振りの剣を取り出した。マークスⅢに差し出した。
「これは……」
――これが鬼骨。かつて、わしの時代、〝鬼〟と呼ばれた海賊がおった。
「〝鬼〟……」
――あやつは人間ではなかった。この
――いかなる力をもってしても
――マークスⅢよ。いや、人間の娘よ。いま一度、この場で選ぶがよい。鬼骨を手に
「……わたしはすでに選んだ」
ガッ、と、驚くほどの力を込めてマークスⅢは鬼骨をつかみおった。
「偽りの世界とは言え、あの子はたしかにわたしの娘だった。その娘を犠牲にしてでもわたしは
――よく言った。おぬしの決意、たしかに受け取った。ならば、わしもこの身に残るすべての力をもっておぬしを助けよう。行くぞ、マークスⅢ。今度こそ、
「はい!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます