【附録】金の瞳 赤銅の牙(弍)

「オラこの腐れぼん、俺の前でリーナに手出すとは、いい度胸だなァ」


 いかにも海賊風な、粗暴な声にアッカーはふり仰ぐ。


 赤銅色の髪を短く刈り込み、ギラギラと凶暴に金の目を光らせた男が立っていた。アーベルほどではないががっちりと筋肉のついた体で、その手には鞘に収まったままの長剣がある。どうやらこれでアッカーを殴ったらしい。まだ麻痺したような後頭部を押さえながら、アッカーは体を起こした。


「ギルバート……」

 名前を呼ばれた男は、凶悪そうな金の目を細め口元を歪めた。カタリーナによく似た鋭い犬歯がチラリと見える。

 ギルバート・ヴィレ伯。カタリーナの実兄で、このなりでティグノス諸島王国の内務長だ。つでに言うと、アッカーの学生時代からの友人でもある。


「お兄様……!」

 カタリーナも驚いたように声を上げる。ようやく冷静になったアッカーが体を起こしてあげると、彼女も目を丸くしていた。


「お前もだ、リーナ。男の性欲舐めんじゃねェ」

 ギルバートはカタリーナの頭を平手で打つ。一見乱暴そうだが、ぺしっと気の抜けた音がする程度だった。


「でも、これは……瘤になってしまうわ」

 こんな凶悪な兄の外見に臆することなくカタリーナは兄を睨みあげる。

「アッカー様、何か冷やすものを持ってきますわ。待っていてくださいね」

 そう言い、するりと彼の腕を抜けて走り出す。

 ……ああ、楽しい時間は終わってしまった。アッカーは名残惜しげにその後ろ姿を見送るしかない。


「おまえ、なァに腑抜けた面してやがる」

 そのアッカーを呆れた様子でギルバートが見ているが、これには何も返す言葉がない。


「ギルバード、止めてくれてありがとう。やらかすところだった」

 こぼした声も情けない。

「まァ、たまには腑抜けもいいんじゃねえの?

 皇都に行ったらもう気を抜く余裕なんて無ェだろ」

 ギルバートそう言いながら、ふんと息を吐く。そしてどかりとアッカーの隣に腰掛けた。

「うちのヘタレ妹に、お前の相手ができるかどうか不安だがなァ」

 それは紛れもない本心なのだろう。

「あいつはさァ、なんつうか……箱入り娘なんだよなァ。人間の汚い部分が見えないっつうか、見ないンだ」


 アッカーはふっと息を吐く。

「そういうところが俺は安心できるんだが」

 だが、中央はこの国とは違う。学園程度の貴族社会しか経験していないカタリーナにとっては、確かに厳しいだろう。

 アッカーは項垂れたままため息を零す。

「必ず守ると約束する」


「おうよ当然だ。だがなァ、まさかアンガーマン家に目をつけられるとはなァ」

 ごそごそと懐から葉巻煙草を取り出し、迷うことなくライターで火をつける。

「やっぱ兄弟で趣味同じなんかァ?」


 その言葉に、アッカーは不快感から眉をひそめた。

「ギルバート」

「わりィ。今のは八つ当たりだ」


 ふう、と煙吐き出しながら言うこの友人には、昔から露悪的なところがある。わかっているが、アッカーはつらいな、と思った。


「まァ実際は、お前がちょっかい出してる相手を欲しくなった、ってやつだろうなァ」

 ギルバートは口元を歪めて笑う。アッカーは黙って頷いた。


 現在のアンガーマン家当主、ヴェルナー・アンガーマンはアッカーの異母弟に当たる。既に妻子がいたはずだが、今年の新年の儀でカタリーナを誘った。そしてその後に、奥方が亡くなっている。あまりにも不自然だ。


 自分と同じ男を父に持ち、どこか自分に似ているというアンガーマン公爵の顔を思い出すだけで、アッカーは吐きそうなほどの気分の悪さを感じる。


 あの父も、かつて他人の恋人だった母を奪い、そして飼い殺しにしたのだ。

 ーーー冷え冷えとした石の城、見下ろす憎しみを孕んだ冷たい紫水晶の瞳、そして亜麻色の甘やかな檻の中。

 その全てを思い出すたび、アッカーは身を引きちぎられるような痛みを感じる。それを耐えるために、強く強く歯を食いしばらなければならない。


「屑の子供はやはり屑だ。絶対に渡すものか」

 アッカーは投げ捨てるように言う。


「んじゃァさ、そろそろうちのおっさんの方も頼むよ」

 昏いアッカーの目を見ているのに、ギルバートの口調は飄々と軽い。

「お前に無視されるとキツイようだ。まァ、お前のお袋さんが忘れらんないんだろうなァ」

 呆れたようなアッカーの視線を無視して、ギルバートが続ける。

「『皇女の愛人になるために婚約者をアンガーマン家に売った』。そんな噂話、信じてねェんだろ?」


 無言の抗議を無視して話し続けるギルバートに、ついに諦めてアッカーはため息を吐く。

「わかってる。わかっているんだ」

 母は死の瞬間まで、それどころか死後までも、あの鏡を手放さなかった。


 母の瞳の色と同じ緑柱石エメラルドと並ぶ、黄玉トパーズの石が何を意味するのか。それを知ったのは、ヴェルドフェス家に引き取られて数年後の事だ。


「だが、どうしても考えてしまうんだ」

 アッカーは自分の声がひどく掠れていることを自覚している。これほど弱い自分を見せられるのは、この凶悪な友人だけ。カタリーナにはもちろん見せたくないし、家族にも余計な心配はかけられない。

「あの男が守ってくれていたら、母はあれほど苦しまなくてすんだのではないか」


「まァ、当事者が死ンじまってる以上、真実を知る者は誰もいないがなァ」

 ギルバートは虚な目で煙を吐き出す。


「だがさァ、あんまりお前が病んでっと、お前の母親も浮かばれないんじゃねェの?」


 アッカーは目を見開く。


 ーーーみっつめのやくそくはかんたんよ。

 絶対に素敵な大人になって、誰よりも幸せになって。


 記憶の底に埋もれていた言葉が、天啓のように彼の脳内に蘇る。

 アッカーはそっと自分の目元を片手で覆う。

 どうしてこの大切な約束を、忘れてしまっていたのだろう。


「そうだな……」


「というわけで、まァあのおっさんの件は任せたわ。もう十年近く、お前に無視されるって泣くからさァ」

 流石におっさんの涙はウゼェしなァなどと、この友人はぼやく。

「十年……?」


 確かに宰相府で働くようになってから、時折顔を合わせるとは思っていたが、もしかしてわざわざ自分の顔を見に来ていたのだろうか。

 その度に無視したり邪険にしていたが、それでも変わらず、朗らかに挨拶をする彼に周囲も呆れていたが。

 母のかつての恋人が、自分を見守っている。その事実に少し心が動いた瞬間、


「ああいうの、ストーカーって言うんだよなァ」

 ギルバートがうんざりした口調で言った。

 一瞬浮かんだ感慨があっさりと消滅し、アッカーは強く心に決める。無視しよう、これからも。


 ちょうどその時、両手に氷嚢やらタオルやらを抱えたカタリーナが執務室に飛び込んでくる。そんな慌て者の恋人の顔を見て、アッカーはゆったりと笑った。

 間違いなく、今の自分は幸せだと実感しながら。

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