【終】君の隣で見る夢は(壱)

 朝のアインザーム城の中庭には、女たちの笑い声が響いていた。疲れ切ったアッカーは、ふと息を吐く。 


 この中庭には、とても古い鍵盤楽器がある。それは一般的にピアノと呼ばれているものによく似ているが、それをピアノと呼んで良いのか、アッカーにはわからない。


 よくあるピアノより、ひとまわりほど小さく、音も高いような気がする。それにアインザーム城は海からだいぶ近い。中庭とはいえ外に置いたまま、何年もーーー城の王によると、この城が建てられた三百年以上前からあるらしい。調律なしで問題なく弾けるピアノなどあるだろうか。


(……きっと神器と呼ばれるものなのだろうな)


 神器とは、女神の伝説の宿る地に伝わる武器だ。

 有名なものでは帝王の持つ天剣、北の大公国に伝わる獅子の爪、獅子の牙と呼ばれる双槍。

 楽器の神器は今まで知られてなかったが、まぁあってもおかしくないだろう。


(……ああ、だめだ。眠い……)

 アッカーはここ数日、内務執務室のソファで寝る毎日が続いている。

 ようやく先程、皇都へ書類を飛ばして一区切りついたので、自室へ帰ろうとしている途中だった。


 軽やかな笑い声が聞こえた。

 それに惹きつけられるように、ふらふらと中庭を囲む柱廊の場所へ来てしまった。


 執務棟から中庭は一段低い場所にあり、無骨なレンガの手すりに寄りかかって見下ろせば、童話に出てくる森のような景色が広がる。


 中庭というにはこんもりと緑が茂り、レンガの壁には緑色の蔦が這っている。だいぶ成長している高い木々の間を、自由に小鳥たちが囀っていた。


 鍵盤楽器から少し離れた箱庭の真ん中、決して広くはないが子供が遊び回るのには充分な広間で、二人の娘が踊っている。

 ふわふわの下草の上、男性役で踊るのはカタリーナ・ヴィレ。この度、ようやくアッカーの気持ちが通じて、晴れて彼の婚約者となった。といっても、一度皇都で皇帝に認めてもらう必要があるのだが。


 ティグノスの中でも珍しい真紅の髪をゆるく括り、いつものシンプルなブラウスに焦茶のロングスカート。この国でその姿を身近に見るようになって初めて、アッカーは彼女が驚くほど見た目に頓着しないことを知った。

 どうやら彼女の世話は、この城に住む侍女と女官の二人に任せられているらしい。学園にいた時はそれなりに気を遣っていたような気もするので、もしかしたらこの城では気を抜いているだけかもしれない。


 ティグノス王家には、時々彼女のような真紅の髪の女が生まれる。そういう娘は、特別な存在としてこの国では扱われた。彼女の曽祖母『紅焔の魔女』のように。

 ただし、カタリーナはそういう異能と呼ばれる能力はないらしい。

 だからこそ、のびのび自由に生きてこられたのだろう。


 一方の少女は、この国の国王アーベル・アインザームの婚約者、フィリーネ・アンガーマンだ。

 この城に来てまだ半月ほどだが、あの時とはまるで別人のよう。

 満開の花を思わせる華やかな笑顔で、カタリーナに身を任せている。この城の侍女と女官の二人に磨かれ、本来の彼女の美しさが引き出されたのだろう。


 ちなみにこの城には侍女も女官もそれぞれ一人しかいない。城の雑務は城おじじと呼ばれる海軍上がりの年寄りたちの仕事だし、料理や炊事は同じく元海の女たち城おばばたちの仕事だ。これが恐ろしく元気がいい。

 アッカーにも世話役に城おばばがいるが、ここに来て何度怒られたかわからない。


 夜になれば城のもの皆で宴会が始まり、そこにアーベル達王族も普通に混ざっている。

 流石に、最初はその光景には驚いた。だがどうやら、この国ではそれが当たり前らしい。

 非番の若い警備兵たちとカタリーナが体を寄せ合って踊っていた時には、さすがに平常心ではいられなかった。だが、それほどティグノスの民にとって酒と踊りと歌は毎日の生活に欠かせない存在なのだ。


 昨日はその宴で真っ赤な顔をしてお酒を舐めているフィリーネの姿もあった。

 彼女はすっかりこの城で受け入れられ、年相応の娘らしい華やかさを醸し出している。


 徹夜明けの少々鈍い思考のまま、アッカーはその光景を眺める。


「フィー、とっても上手よ! あなた絶対センスがあるわ!」

「お姉さまの教えがわかりやすいからです! でも……」

 余裕なく視線を動かしているところ、まだまだというところだが、それでも来年の新年の儀はなんとか乗り越えられるだろう。

 というかいつの間に、愛称やら姉などと呼ぶようになったのだろう。


「ほんとうねー。あっといまに上手になったわねぇ」

 少し間延びする話し方をするのは、カタリーナの兄ギルバート・ヴィレ伯爵の妻、マティルネだ。


 腕には半年前に生まれたばかりの娘イレーネを抱き、隣には二人の息子イヴォーグとイザークがいる。

「ぼくもかたとおどりたいー」

 イヴォーグは膝を抱えて不貞腐れたようにつぶやいている。イザークはまだ何もわかっていないのか、父親譲りの金の目をぱちくりとさせていた。


「だめよー。今日はカタリーナは先生なんだから」

 どうやら、駄々でも捏ねて母親に怒られたようだ。


 その様子を、アッカーは大人気もなくいい気味だと思ってしまった。


 イヴォーグはカタリーナに懐きすぎだ、と思う。

 数日前の朝に二人が一緒にいるのを見かけたが、その日カタリーナの部屋に泊まったという。

 カタリーナにぎゅうっと抱きつくイヴォーグを見ると、なぜかアッカーは苛立ちを感じるようになってしまった。


 アッカーははっと我に帰る。

(子供相手に何をムキになっているんだ……)

 よっぽど疲れているのかもしれない。


「そうね、イヴォーグはもう少し大きくなったら、一緒に踊りましょうね!」

 カタリーナが楽しそうに声を上げているので、すこしむっとしつつも、心が和むのを感じる。

 どんな場面でも、やはり自分が恋している人の笑顔を見るのは、幸せなものだ。


「さて、せっかく上手になったんだから、音楽に合わせて踊りたいわね」

 カタリーナはちらりと庭の片隅のピアノに目をやった。

 この不思議なピアノはカタリーナのお気に入りで、時々息抜きを兼ねて弾いているのをよく見かける。どうやらピアノの伴奏で踊りたいらしい。


 彼女がピアノを弾くとなると、フィリーネが一人になってしまう。顎に指をあてて、カタリーナが少し考えたあと、ふいにこちらを向いた。


 こっそり見ていたやましさから、アッカーは慌てて柱の影に身を隠すが、遅かった。


「アッカー様!」

 笑顔で名前を呼ばれた。カタリーナが執務棟へ繋がる階段を駆け上り、アッカーの手を取る。躊躇うことなく、触れる手が嬉しい。

 だがここはもう少し隠れて見ていたかった。


「今ちょうど、ダンスの練習相手が欲しいのです! ちょうどいいところに!」


「いや、俺では練習相手には……」

 何せ徹夜明けだ。だがカタリーナは違う意味に捉えたらしい。

「何いってるんですか。アッカー様はすごくお上手です! わたしより絶対いい練習になりますよ!」


 総満面の笑みで言われ、手を引かれてしまってはたまらない。



 中庭に降りると、マティルネがあらまぁと笑い、イヴォーグがわかりやすく剥れる。イザークだけが、楽しそうに声を上げた。


「さ、フィー。今からピアノの音に合わせて踊ってね」

 アッカーをまだ足元を見て復習しているフィリーネの前に立たせると、自分はさっさとピアノの方に行ってしまう。なかなか強引である。


「フィリーネ嬢、よろしくお願いします」

 挨拶のつもりで声をかけると、ようやく顔を上げたフィリーネと目が合う。そのとたん、わかりやすくフィリーネが震えた。


(……やっぱりな)

 今日は彼女に会うつもりはなかったので、顔を誤魔化す眼鏡をつけていない。流石に目があった瞬間に怯えられるのは堪えるが、仕方がないだろう。


「申し訳ない。誰か別な者を呼びます」

 すぐに彼女から離れようとするが、フィリーネは慌てて首を振った。

「大丈夫です! アッカー様、よろしくお願いいたします」


 少し顔色の悪いまま、フィリーネは言い切る。そして恐る恐る右手を伸ばす。

「アーベル様から伺っておりました。なのにびっくりしてしまって、申し訳ありません」


 アッカーは首を振る。

 だが何かを確認させられたようで、心の中に小さな杭を打たれたような気がした。


 中庭にピアノの音が響き、二人が踊り出す。

 まだ足元が気になって仕方ないフィリーネは少し危なっかしいが、それでも十分よく踊れている。狭い庭の中をうまく導きながら、ターンを繰り返す。冬の初めの冷たい空気が、動いている体には心地よい。

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