第2話 幻の鮑

 煮やっこ。

 固めの木綿豆腐を小鍋で煮て、醤油と味醂みりんとかつお節の出汁で味を付けただけの料理である。

 絹ごし豆腐のつるんとした舌触りも悪くはないが、やはり煮物焼き物には木綿豆腐であろうと、目鬘めかつら売りの猪松は考えている。懐に余裕があれば卵を落としたいところだが、卵一個は蕎麦一杯よりも高くつくので、余程稼いだ日でない限り手が出せない。

 一丁丸ごとをさいの目状に切って濃いめの味付けをするのが猪松の好みで、これだけで飯が五合は喰える。豆腐で四合、残りの一合は小鍋に放り込んで雑炊にする。

 朝に飯を炊いたので今日中に喰い尽くす必要があるのだが、猪松にとっては意味は違うが「朝飯前」で、むしろこの時間になるまで手を付けず我慢していたほどである。

 肌寒さが嫌が応にも増す師走の風をものともせずに、裏長屋の表で木綿豆腐を長々と煮込みながら煮汁の香りを愉しんでいた猪松の元へ、ふらりと現れた男がいる。

「よお、猪松」

 名を呼ばれ顔を上げた猪松は、その丸顔に精一杯の愛想笑いを浮かべた。

「こいつぁ、大家の旦那じゃございやせんか」

 白縹しろはなだ小袖こそでに吉岡染の羽織、角帯にぶら下げたるは銅の印籠。

 とても長屋の大家とは思えぬほど小ぎれいな身なりの献残屋伝次郎けんざんやでんじろうは、七輪を団扇で扇ぐ猪松の隣に貼り付いて膝を屈める。

「見慣れない七輪だな。買ったのかい」

「ええ、まあ」

 今月分の家賃をまだ納めていない猪松は、団扇で扇ぐ手を休めずに曖昧な返事をする。

 江戸の長屋で暮らす独身男は、土間に炊事場が有っても飯炊きの道具を持たない。それというのも、独り身で働く連中の殆どは棒手売ぼてうり、あるいは振り売りと呼ばれている、天秤棒担ぎの小売業ばかりだから家を留守にしがちで、買い置きの鍋釜を長屋に置いて外出しようものなら、たちまち盗まれてしまう。そういう道具を盗まれるたびにいちいち買い直すより、必要な時だけ損料屋そんりょうやという小道具屋から借りて使う。

もちろん借りるだけでも銭を払わなければならないから、飯炊きに割くだけの時間が無い、もしくは炊事そのものが面倒くさいという輩も多く、結果として江戸の外食産業と食文化に貢献することになるのだが、猪松は違う。少ない実入りから、自分のための鍋やら釜やら包丁やらを買い揃えてしまったのである。眼前で煮やっこを温めている七輪も、長年使い続けた挙句にうっかり落として割ってしまった先代になり代わって煮炊きの任を負うようになった今戸焼いまどやきであるが、猪松の懐事情からかんがみるに、決して安い買い物ではない。

 とにかく喰うこと、味わうことを無上の悦楽と決めた男なのである。

「呆れた野郎だ。飯のために頑張るその気概が、どうしてガキのうちから修行に向けられなかったもんかねぇ。そうすりゃ今頃は、一端いっぱしの大物になれていたかもしれんのに」

 今の時代の忍びに、一端もヘチマもありゃしねぇよと、猪松は心の中で毒づいた。

 目鬘売りの猪松は、郷里で忍びとしての修行を続けた男である。

 もっともその腕前は同輩らに比べて大きく劣り、飢饉による里の口減らし方策として江戸に入ることを公儀に認められた理由の一つが、この程度の男ならば難事も起こさぬ、起こしたとしても失敗に終わるであろうと見做みなされたからという、なんとも情けない経歴の持ち主である。

 地方から江戸に流れ込んできた忍びのほとんどは、何かしらの形で厳しい監視が付けられているものだが、こと猪松に限ってはそれらしき視線を感じたことは一度も無い。

 もちろん猪松が気付いていないだけかもしれないが。

「暇か」

「今から飯を喰います」

「飯を喰ったら暇になるか」

「仕事に出まさぁ」

 目鬘とは、細長い厚紙に目やら眉毛やらを描き込んだ玩具おもちゃであり、百眼ひゃくまなことも呼ばれている。

 目に当てる部分には穴を開け、鼻に当てるところには切れ込みを入れて窪みにしており、厚紙の両端に開けた小さな穴に紐を通して耳に掛け、顔の上半分だけを覆って遊ぶ。

 描かれた目には喜怒哀楽の表情がくっきりと表れているものが多く、それらに加えて寄り目や流し目、片側だけ半開きにしているものなど種類は豊富である。また長方形ではなく額に当てる部分まで作られている目鬘になると、老若男女のまげや髪飾り、果ては犬猫の耳や鬼の角などという凝ったものまでこしらえることが出来る。

 猪松は昼までにこれらを描き上げ、昼飯を喰ってから方々を歩いて子供相手に売りさばき、夕飯を喰ってからは色街いろまちで酔っ払い相手に少し高値で売る。宴席での素人芸として受け入れられていた目鬘による百面相は、浮世の馬鹿騒ぎを好む町人相手に、そこそこ売れる。

「どうせ大した稼ぎにはならんだろうから、たまには大家である俺の仕事を手伝え」

「いやあ、粗忽者そこつの俺なんかじゃ旦那の足を引っ張るだけでさぁ。それより、隣の丁の字を誘ったらどうです?」

 愛想笑いを崩さぬ猪松の眼前で、伝次郎は被りを振った。

「ピンゾロの丁助なら留守だぞ。どうやら、また博打で負けて付け馬に追い回されているらしい。俺があいつの処へ行ってみたら、付け馬が畳に胡坐あぐら掻いていやがった。あの様子だと、当分帰っては来ないだろうな」

「それなら、三吉はどうです?」

 伸子しんし売りの三吉は、丁助とは猪松の部屋を挟んで反対側の部屋に住んでいる。

「あいつも駄目だ。家賃をふた月も溜め込んでいるくせに、一向に姿を見せん。大方、また新しい女の処に入り浸っているのだろう」

「ははあ、道理でここ数日は両隣が静かなわけだ」

 とぼける猪松に、伝次郎はさらに付け加える。

「それにな、あいつらでは不味いのだ。丁助の奴は出目や手札を睨み過ぎて両眼が血走っているし、三吉は三吉で鼻の下を伸ばしながら女を探してきょろきょろする。これから御厄介になるお方に引き合わせるには、甚だ印象が悪い。お前は呆けて頼りない薄ら馬鹿に見えるが、あの二人に比べればいくらかマシだろう」

「そんな褒め方されてもなぁ」

 献残屋伝次郎は、猪松や丁助、三吉らと同じ郷里の出身であり、また彼らよりも前に忍びとしての修行を行った人物でもある。

 表向きは裏長屋の大家を兼ねている献残屋だが、裏長屋を管理すると同時に、江戸に流れてきた同郷の忍びたちを監視する任も請け負っており、場合によっては粛清する権限をもあわせ持っている。

 猪松にとっては唯一の例外とも言える監視の目だが、本業以上に機能しているようには見えず、むしろ目よりも家賃督促の手の方が怖い。

 その荒事に関する腕前は、猪松は元より彼以上に優れた丁助や三吉をもってしても、足元にも及ばない。裏長屋の住人同士の喧嘩は、大概は伝次郎の腕力によって決着がつく。

 以前、執拗な家賃の取り立てと監視の厳しさに腹を立てた三吉が、裏長屋の住人全員で一斉に襲い掛かれば勝てぬことはないと伝次郎抹殺計画を持ち掛けてきたことがあったが、議論の末に却下された。

 同じ裏長屋の住人である易者の左源堂魔巻さげんどうまかんいわく、

「勝って益無し、負ければ全滅」

 敗れようものなら、仮に生き残ったとしても全員が江戸を追われることは免れぬだろうし、勝ったとしても代わりの監視役が郷里から派遣されるだけである。

 家賃も暴利と呼ぶほどではなし、放っておくのがお互いのためであろうという結論になり、一同は解散した。

 現時点で裏長屋の店子たなこは九人いるが、全員が忍びの修行を経験している。その九人が総掛かりで仕掛けても倒せるか否かというのが、献残屋伝次郎という男の恐ろしさである。

 実際に暴力を振るわれたり嫌がらせを受けたりすることはないのであろうが、家賃を滞納している手前もあり、猪松としては断り辛い雰囲気であることに違いはない。

「わかりましたよ。でも、今すぐは勘弁してくださいよ。せっかく長々と煮込んだこいつが冷めちまう」

「それは心配いらん。出掛けるのはもっと夜が更けてからになる。向こうにも色々と事情があるのでな」

 献残屋という商売は、主に年賀などに贈答品として受け取った品物のうち、実際には使わないもの、或いは消費し切れず余ってしまうものを引き取り、代金を支払う。

 折櫃おりびつ檜台ひのきだいのように再利用出来る品物であれば、修繕や塗り直しを行い、それを扱う小間物屋に売るか自分で直接売る。干物や乾物、海産物など保存がきく食品は、そのまま行商人などの伝手を頼って安値で売り捌く。

 消費し切れぬ贈答品であれば、売らずに知人や親戚に送ればよかろうと思う方もいるだろうが、この時代は実利よりも体面を重視する。金が欲しいという本音もあるだろうが、余った分を誰かに送るというのでは礼儀を失するのである。また武家においては――確かに金も必要ではあるが、それ以上に――年末年始に送られてくるであろう贈答品を収納しておく空間が必要とされ、遅くとも年が変わるまでには、蔵の中にある収蔵品の一部を処分しなければならないのである。

「良かった。今すぐ出発するぞと言われてたら、旦那がこの鍋持って俺が煮やっこを喰いながら歩くのかと心配するところだった」

「どういう心配をしとるのだ、お前は」

 猪松が煮やっこで飯五合を平らげている間に支度を済ませた伝次郎は、算盤そろばんやら天秤ばかりやらを詰め込んだ木箱を猪松に担がせて裏長屋を出発した。この木箱は、帰りには伝次郎自身が担ぐのだが、代わりに猪松は買い取った折櫃やら贈答品やらの一切を一人で担ぐことになっている。

 重労働ではあるが、伝次郎の仕事に同行すると偶に役得があることを猪松は知っている。買い取った品物の中には、量が多過ぎて並みの行商人では捌き切れそうにないという、善意なのか嫌がらせなのかもわからない贈答品もあり、底値で叩き売ってもまだ売れ残った場合に限り、裏長屋の住人に無料で配られることがあるからだ。昨年は、これで鳥の塩漬けにありついている。

 献上品や贈答品を売り捌くというのは武士らしくないという体面をおもんぱかり、出来る限り人目につかない深夜に訪うのが賢い献残屋なのだと伝次郎は日頃から偉そうに語っており、そのくせ普段の取引相手は金に困っていそうな御家人ばかりなので、猪松ら裏長屋の住人たちはたかを括っていた。

 しかし今夜の訪問先が大名の蔵屋敷と知り、同行した猪松だけは流石に考えを改めた。

 丁助や三吉が望まれないのも道理である。大名相手に不審な立ち回りをしたのでは、こちらの命が危ない。

「ええ、三石みついし昆布が四貫で百文、熨斗鮑のしあわびは折櫃ごとで三百文、それとは別に空の折櫃が……」

 裏長屋の前では厳粛な面持ちで超然としているくせに、交渉役らしき侍の前では庶民くさい愛想笑いを浮かべながら勘定を続ける伝次郎。いかにも目利きでございと言わんばかりに、得意げに算盤を弾いているが、どうせ半分くらいは本来の相場を無視した当てずっぽうなのだろうと、猪松はこれまた嵩を括っていた。

 よくよく考えてみれば、年貢米や地元の名産品を収めておくための蔵屋敷で、贈答品の叩き売りを行うのもおかしい。大方、伝次郎の口八丁に乗ってしまった田舎侍が、蔵の中で見つけた品を個人の贈答品という体でこっそり売り払ってしまうつもりなのだろう。

 手持ち無沙汰ぶさたの猪松が、呆然と伝次郎の背中を眺めながら立てた無意味極まりない推理は、伝次郎からの総勘定を聞き受けた侍が蔵屋敷の奥へと消え、再び舞い戻ってきた時に粉砕された。

 売り払う贈答品を運んでくるとばかり思っていた侍が、その身なりから明らかに彼の上司とわかる二人の侍を連れてきたからだ。

 二人のうち、特に後方にいる男から放たれる、異様とも取れる並みならぬ剣気に呑まれる猪松の足を、伝次郎の雪駄せったが踏みつける。

「馬鹿、早く礼をしろ」

 小声で諭した伝次郎が素早く膝を折り正座して地面にぬかづいたので、猪松も慌ててそれにならう。猪松の心情としては、伝次郎の命令に従ったというより、男の剣気から逃れんがために伝次郎の動きを真似た、と言った方が正しい。

(旦那、こちらはどなた様で?)

 郷里の忍びにしか通用しない言語を使い、小声で尋ねた猪松に、やはり同じ言語と声量で返答する伝次郎。

(江戸家老の諏訪辺宗見すわべそうけん様だ)

 後ろの物騒な方は、と猪松が続けざまに尋ねようとするより先に、諏訪辺宗見と呼ばれた老人が、キビキビとした声を発した。

「伝次郎、並びに従者猪松。苦しゅうない、面を上げよ」

 言われるままに顔を上げると、すぐさま伝次郎が口火を切る。

「このような場所に諏訪辺様がおられるとは気づかず、この伝次郎、汗顔かんがんの至りにございます。この度は、御召し物の余剰分を下賜かしいただけるという栄誉を賜りまして参上いたし……」

「良い、良い。口上はそれぐらいにしておけ」

 つられるように顔を上げた猪松は、ぼんやりとした提灯のほのかな輝きに照らし出された諏訪辺宗見の顔を見て、

(成程これは家老顔だ)

と妙な納得をした。白髪混じりの髷と刻み込まれた深い皺は、己が主君と領地を護るためにあらゆる苦悩を背負いながら、その重責を次の世代に押し付けることが叶わぬまま隠居も許されぬという老臣の苦悩を、見事なまでに表現している。

 次いで家老の背後に控える男を見て

(成程こいつは化け物だ)

と感じた。宗見の背後に立ち控えてはいるが、その位置からでも伝次郎や猪松は元より、交渉を担当しているはずの侍すらも一瞬で斬り伏せることが可能であろう間合いを保ちつつ、それでいていずれかが刃物を抜いて襲い掛かってくるのを待ちわびているかのような視線で睥睨へいげいしている。

「伝次郎。其方の慧眼けいがん、中々のものである。これならばお互いの損にはならぬ取引であろう」

 売り払う品の目録らしき帳簿を眺めていた諏訪辺宗見は、能面の如く凝り固まった表情を寸毫すんごうも動かさずに言う。してみると、伝次郎の算盤も案外に当てずっぽうではなかったらしい。

「しかし、だ」

 ほうら来た、と心の中で毒づく猪松。

 一旦は認めたように見せかけておいて、権勢を盾に己が得するだけの取引を推し進めようとする。如何にも、商いをまるで理解していない侍のやりそうなことである。

 しかし、この状況を猪松は半ば歓迎した。

 果たして伝次郎は、侍からの無理難題にどのような態度を取るつもりなのか。

其方そのほうが無償でこれらを得る方法もある」

「えっ?」

 声を上げたのは。伝次郎ではなく猪松だ。

 伝次郎、諏訪辺宗見、さらに控えの侍から一斉に睨みつけられた猪松は、気まずさに堪え切れず一人だけ再び額づく。

「諏訪辺様。ご足労ではございますが、何卒その方法について詳しくお聞かせ願えませぬか」

 このようなやり取りを、献残屋として幾度も経験しているのだろう。流石に伝次郎は動じなかった。

「我が殿が、天にも昇らんばかりの美味なる鮑を御所望なのだ」

「あわび?」

 またしても猪松は顔を上げてしまった。



「世話になったな、目鬘屋。礼代わりに、ここの払いは俺が持つぜ」

 剛毅を言う中間の半纏はんてんには、諏訪辺宗見の羽織に縫い込まれたものと相違ない家紋が縫い込まれている。

「そいつは有難い限りですな。まあ、まずは一献」

 そう言いながら猪松が傾けた徳利から、とくとくいう音を立てて流れ落ちる透明の液体。

 それを盃に受け、ちゅるっと呑み干す中間。

 さながら十年来の再会を期して呑み明かそうとする旧友の如き情景だが、二人が顔見知りになったのは、つい今しがたのことである。

 美味なる鮑、という言葉に反応したのが不味かった。

 諏訪辺宗見には顔を覚えられ、成り行きとその場の勢いで伝次郎から鮑探しの仕事を押し付けられた猪松は、忽ち途方に暮れた。

 喰うことを無上の喜びとし、出来れば金のかからない美味を求めて生きているような猪松である。勿論鮑の美味なることを知っているし、それなりに味わったこともある。

 しかし、天にも昇らんばかりの美味なる鮑と言われては、探し当てること自体が骨の折れる仕事である。

 鮑が美味であることは疑いようがない。獲れたての新鮮な鮑を刺身にして、磯の香りとこりこりした食感を愉しむ。あるいはその場で塩焼きにして生醤油でいただく。具材そのものが美味なのだから、新鮮であればわざわざ技巧を凝らす必要が無い。元々は保存が目的で生み出されたのであろう干し鮑も、噛めば噛むほどに独特の旨みが肉から滲み出る。あまりにも美味なので外国からも買い手が付き、長崎の船に積み込まれる俵の中身としても有名になってしまったほどである。

 ただし、その中からさらに美味なるものをと限定されてしまうと、どうにも手が付かない。伊勢、紀伊、駿河、上総に下総、奥州と、それこそ神州全域で収獲できるだけに、どれが上であるという甲乙が付けにくい。

 ましてや相手は大名である。猪松が今までに味わったこともない美味飽食の末の要望だとすれば、煮やっこで満足している猪松如きの舌では到底相手にならない。

 思案に思案を重ねているうちに腹が減り、今日明日の御飯おまんまと家賃のために、猪松はとりあえず目鬘売りとして本業に専念することにした。

 但し、鮑探しを放棄したわけではない。

 地廻じまわりに場所代を払って吉原入りする前に、昨晩訪れた蔵屋敷の周辺で目鬘を売りながら門を見張り、献残屋伝次郎と交渉していた侍が中間を連れ表に出てきたところを、こっそりと後をつけていたのである。

 息苦しくなる仕事を終えたのだから、さぞ命の洗濯を求めているであろうという猪松の読みは的中し、侍と若い中間は吉原へ向かった。

 勿体もったいぶりながら吉原へ入り、揚屋あげや花魁おいらんが到着するまでの時間を持て余した侍は、退屈凌ぎに控えていた中間に芸を強要した。

 中間は幇間たいこもちではないし、上役を相手に披露できる上品な宴会芸を持つ器用者がそうそういないのは、今も昔も変わらない。

 芸の準備と偽って揚屋の玄関先まで逃げだし、いっそ吉原からも逃げ出してしまおうかと思い悩んでいる中間の前に、百面相の目鬘を振り回しながら登場したのが猪松である。

「いや、助かったぜ。お前さんが居てくれなかったら、下手すりゃ酔っ払った今田様にお手討ちくらっていたところだ」

「ははは。まさかそこまでの大事にはならんでしょう」

 笑いながら、お寒いでしょう温まりましょうと、猪松は赤ら顔の中間のさかずきに酒を注ぐ。

 猪松は酒に強いが、酒そのものは得に好きという程のものではない。

 むしろ喰らう方に専念するため、他人に酒を勧めながら自分はひたすら喰い続け、ついでに酔い潰れた酔客のさかなを失敬するのを得意としている。

「そうは言うがな、今田さまは酒が入ると気性が激しくなるお方なんだ。今迄だってそうだ。酒が入ってからくらった拳骨の数を数えてみたら、手足の指だけじゃとても足りねぇぐらいなんだよ」

 酒が入ると口が軽くなるらしい中間は、注がれた酒に口を付ける。

 踊りながら目鬘をさっとすり替える百面相の手法と、立ったまま地面に手を付けた状態で両足だけを左右に振り上げる芸、そして宴席でのみ許される下品な宴会芸を二つほど授け、目鬘の代金は後程と付け加えてから、猪松は中間を揚屋の中へと押し返した。

 目鬘売りとして夜の色街を練り歩き、数々の宴席と修羅場を目撃していた猪松である。その読みと直感は的中したらしく、しばらくして揚屋の中から絶え間ない笑い声が上がった。

 やがて花魁が到着すると、手が空いた中間はこれ幸いと上機嫌で揚屋を飛び出し、長々と待ち続けていた猪松を晩酌に誘ってきたのだ。

「まあまあ、今日のところは難も起こらず終わったということでよろしいじゃありませんか」

 干された盃に酒を注ぐ猪松の元へ、酒と共に注文した鰯の塩焼きとたこのぶつ切りが運ばれてきた。酒を勧める際の常套句となってはいるが、師走の寒風を相手に素面のまま床几に座り続けていると、流石にこちらも尻と背中が辛くなる。

 待望の蛸のぶつ切りをそれとなく覗き込んでから、猪松は早速切り出した。

「思い出した。そういやその半纏の家紋を何処かで見たことがあると気になっていたんですが、同じものを魚市場で見かけましたよ」

「ああ……鮑だな」

「鮑?」

 引っ掛かったという快哉かいさいを表には出さず、猪松は怪訝けげんな表情を作る。

「そう、鮑。うちの殿様がな、思い出の鮑を食べたがっているんだよ。それで御家老以下、家臣一同が江戸どころか日本中の魚市場を血眼で駆けずり回っているんだわ」

「思い出の鮑ねぇ……思い出の味なら、そいつを喰った場所に行ってみれば良いんじゃないですかね」

「誰だって、そう思うわな。しかし今田様がその思い出の場所とやらに行ってみたんだが、鮑は見つからなかったそうだ。鮑が見つかるわけが無え。殿様がそいつを喰ったのは御幼少の頃の話で、しかも場所は山ん中ときた」

「山の中」

 鰯の頭を噛み砕いた猪松が、空になった皿の上に、蛸のぶつ切りが入っていた器を乗せると、入れ替わるように葱鮪ねぎまが運ばれてくる。

「それで今田様は御家老からお叱りを受けたっていうんだから、腹立たしくなるのも已む無しなんだろうがなあ。とはいえ、まさか殿様の御記憶違いではございませんか、なんて尋ねるわけにもいかねぇ。だからそのむしゃくしゃを酒と女で誤魔化そうとしているわけよ」

「成程ねぇ。それは酒に逃げたくなるのもせん無い話ですな」

 同情するかのように頷きながら葱鮪を平らげ、器に残る煮汁にも口を付けると、中間が嫌な顔をした。

「豚みてぇな喰い方だな」

「たまに言われます」

 煮汁を飲み干してから、バツがわるそうにへっへっへと笑う猪松。

「殿さまがな、幼い頃に御供を連れて山駆けに出た時に、どういう訳か一人だけはぐれちまったらしいんだ。それで二進にっち三進さっちもいかなくて困っていたところに、偶々たまたま通りがかったきこりだか狩人だかに助けられたんだが、その時にそいつの山小屋で振舞われたのが、粟粥あわがゆと鮑だったそうだ。その男が、山駆けに同伴した御供衆おともしゅうを見つけ出して山小屋に案内するまでの間に、空腹と不安を紛らわせたいという一心で両方とも平らげてしまったが、一国の領主と成りなされた今でも、あんなに美味いものは食べたことが無いと述懐じゅつかいなさっているらしい」

 そこまで語ってから、中間は盃の酒を一気に呑み干し、大きな息と愚痴を吐く。

「思い出を大事になされるのも大変結構だが、そのせいで駆けずり回される御家来の身にもなってもらいてぇもんだ。国元はおろか江戸城下まで探し回った挙句に叱られていたんじゃ、今田様や俺たちの身が保たねぇ」

「そうですなぁ」

 相槌を打ちながら、また盃に酒を注ぐ猪松。

「ちと気になったのですが、その鮑は生でしたか? ひょっとして、煮しめだったのではございませんか?」

 おっ、と声を上げた中間は、真っ赤になった指先を猪松に突きつける。

「それだよ、煮しめだよ。粟粥と一緒に食べたのは、鮑の煮しめの切り身だと仰っているらしい」

「それなら思い当たる節がございます。殿様が幼い頃に山駆けをなされたのは、甲州でのことではございませんか?」

「甲州?」

 僅かに何事かを思い返すような仕草を見せた中間であったが、すぐに盃を持たぬ方の手をばたばたと振って、それを否定した。

「いんや、もっと西、ずっと西の話だ。それはそれとして、どうしてあんたは甲州の話だと思ったんだね?」

「鮑の煮しめは、甲州の名物なんですよ。駿河で獲れた鮑を甲斐で漬け込んだまま熊笹の葉で包み、さわらの樽に詰めて馬で運ぶんです」

 馬で運ぶことにより、何故か他所の鮑の煮しめよりも味が良くなると言われているのだが、残念ながら猪松にはその理由まではわからないし、他所の鮑の煮しめと食べ比べるなどという贅沢な目に遭ったこともないので、味の違いも分からない。

「ですがね、鮑の煮しめなら甲州の方が味は上だと思いますがね」

「歯触りと舌触りが、まるで違うんだとよ。もっと柔らかくて、子供でも無理なく噛み切れたらしい」

「ははあ。失礼ですが、そいつは殿様が他の貝を鮑と思い込んでいるかもしれませんな。螺貝つぶがい鳥貝とりがいは試して御覧になられましたか?」

「御家老の諏訪辺様が、とっくに試した」

海松貝みるがい馬鹿貝ばかがい、それと栄螺さざえはどうです?」

「それも試したから困っているだとさ」

 赤貝は、流石に見た目で違いが分かる。帆立も同様であろうし、牡蠣、はまぐり浅蜊あさりの類は言うまでもない。

「待てよ、山の中なら田螺たにしかも」

「今田様が献上してお叱りを受けたのが、その田螺なんだよ」

「八方詰まりですなぁ」

 豆腐の味噌田楽を貪りながら、猪松は困惑の表情を浮かべた。

 山の中での出来事ということで真っ先に思いついた、それは甲州の煮しめであろうという予想が外れてしまったことで、己が発想も煮詰まってしまったのかもしれない。

「しかし、どうしてそこまで気にするんだい? 実際に探し求めている俺たちはともかく、お前さんにはさして係わりの無い話じゃないか」

「いやあ。下々の身とはいえ、あっしのような食い道楽が食材の名産地を思いつかないなんて、江戸中の食い道楽の笑いものにされちまいますからね。どうにかして突き止めておかないと、こちらの沽券こけんにかかわるってもんです」

 半分は冗談だが、残りの半分は猪松の本音である。

「それに、あんな物騒な方に魚市場をうろうろされていたんじゃ、こっちもおちおち美味いもんを物色できねぇ。解決することで居なくなってくれるのなら、それに越したことはありませんからな」

「物騒?」

「ええ。始終おっかない顔しながら、いつでも抜いてやるぜと言わんばかりの歩き方で魚市場を睥睨なされている、お侍なんですがね。そちらに縁のあるお方なのでは?」

 おう、と中間は床几しょうぎを掌で叩いた。

「わかった。日比谷助左衛門ひびやすけざえもん様だ」

「やっぱり、お知り合いでございましたか」

「見たことはあるが話したことは無ぇ。見てくれもおっかねぇ御人だが、聞いた話じゃ中身も恐ろしいぞ」

 相槌あいづち代わりに中間の盃に酒を注ぎながら、猪松が尋ねる。

「どういった御方なんで?」

「御家老の甥にあたる方なんだが、上州で真庭まにわ念流を学んだ、剣の達人らしい」

「へぇ、剣の達人」

「ああ。しかし御家老の愚痴では、護身を真髄とする真庭念流を学んだはずなのに、心までは学べなかったそうだ」

「どういう意味です?」

「俺にもよくわからんが、とにかく何かを斬らないと気が収まらない性質らしい。子供の頃からその気性が表に出ては騒動を起こし、遂には性根から叩き直すつもりで上州の知人に預けて修行させたのに、かえって手が付けられなくなってしまったのだそうだ。現に、うっかり上屋敷の庭に迷い込んだ野良犬や野良猫が見つかると、真っ先に駆けつけてその首を斬り落としてしまうものだから、日比谷様が来てから犬猫を見かける機会がめっきり減ってしまったとまで言われているからな」

「そんな方を江戸に住まわせて、大丈夫なんですかね?」

「危なっかしいからこそ、御家老は手元に置いて監視しているのかもしれん。目の届かない国許くにもとで好き放題させていたのでは、いつ刃傷沙汰が起こるかわかったようなもんじゃないからな」

「だからといって江戸をうろうろされたのでは、あっしら江戸っ子が困りますよ」

「幻の鮑が見つかりさえすれば、日比谷様もわざわざ魚市場をうろついたりはしないのだろうがなぁ」

 最後の一杯を呑み干した中間が、ゆらりと立ち上がる。

「そろそろ頃合いだろうからな。こっそり抜け出して酒をかっくらっていたと知れたら、今田様が俺の首を斬り落としかねん。今宵こよいは世話になったな、目鬘屋」

「あ、ちょっと」

 立ち去ろうとする中間を呼び止め、猪松は片手を差し出した。

「なんだよ、ここの払いならこれから」

「いえ、先ほどお譲りした目鬘のお代を戴きたいんでさぁ。六枚で三文、戴きやす」



 その場に無い食材について玄人に尋ねるのは、失礼であるし馬鹿馬鹿しいことでもあると感じながらも、猪松は本業の合間に魚市場へと赴いては「幻の鮑」について尋ね回ってみたものの、何処も怪訝な顔つきでただ首を捻るばかり、中には、そいつは何処どこの女郎だね、と隠語扱いされて揶揄からかわわれる始末。

 これではらちが明かぬ、やはり殿様の昔の思い出について詳しく調べる必要があると考えた猪松は、忍びたちの監視役である伝次郎に、殿様の居る上屋敷へ潜入する許可を貰うことにした。

 忍びとしては動きが鈍く、自身もそれを自覚しているからこそ、苦手とする潜入や妨害行為には消極的だった筈の猪松の申し出に、伝次郎はしばし面食らったが、すぐさま猪松を自室に押し込め三つの掟を復唱させた。

 殺めず。

 盗まず。

 右袒うたんせず。

 猪松のような忍びが江戸で暮らす前に遵守を誓った掟であり、幾つかの例外はあるものの、一つでも掟を破ろうものなら直ちに江戸を追われるか、同胞の手による粛清を受ける。

 今回は潜入行為ということもあり「盗まず」を意識してのことであろうが、猪松は盗みに入るのではなく情報を聞き出すために潜入するのだから掟には抵触しないと判断した伝次郎は、それでも猪松がヘマをして捕まっては困るからであろうか、潜入の極意の幾つかを猪松に伝授した。

 伝次郎から殿様の居る上屋敷の場所を聞き出し、ついでに何時描き上げたのかわからぬ平面図を借りた猪松は、夕暮れに目鬘を売り歩くふりをしながら屋敷の周囲をうろつき回り、隙を見て土塀代わりになっている長屋の屋根に飛び移り、転がり込むように上屋敷の庭先に侵入すると、手近な庭先の陰に身を潜めた。

 脱いだ一張羅いっちょうらを裏返して黒装束に変え、懐から取り出した黒頭巾を被る。

 大名屋敷の屋内は広く、迷宮のように入り組んだ造りになっている。大雑把な平面図は伝次郎から借り受けているものの、明るい場所で再確認する機会は恐らく今しかない。

 殿様で居るであろう大広間の位置を確かめ、あまり人が訪れることは無いであろう物置の外壁まで移動してから、鉤縄を《かぎなわ》引っ掛けて屋根に這い上り、屋根瓦を外して穴を開けた頃には、夜空の満天の星が照らし出していた。

 これが三吉ならば、潜入開始どころか今頃は脱出している筈である。

 慎重に天井裏に身を沈め、肥り気味な身体を持て余しつつ大広間へと向かう。

 格子天井の羽目板を僅かにずらして内部を伺った猪松の視界に入り込んできたのは、殿様らしい貴人の姿であった。

 中肉中背で齢も若く、俯瞰ふかんではあるがその面には聡明さをたたえた名君の容貌ようぼうである。子供の頃の思い出にこだわっているのだから、さぞかし陰気で下膨れの青瓢箪あおびょうたんに違いないと勝手に思い込んでいた、丸顔で豚鼻の猪松にとっては意外でさえあった。

 猪松自身は比較対象外にしろ、始終目を血走らせている丁助や、男振りを見せつけようとしても鼻の下の伸び具合の方が目立ってしまう三吉よりも男前である。

「殿」

 折良く家老の諏訪辺宗見が日比谷助左衛門を従えて入室し、それまで年末年始の典礼について小姓に尋ねていた殿様は急に居ずまいを正した。

「只今、戻りまして御座います」

「うむ。御苦労であった」

「本日も幻の鮑を求め築地を回りましたが、生憎の不漁につき品薄ということもあり入手には至らず、また東西へ走らせております者共からも吉報は届かず……」

「見つからなかった、ということか」

「御意」

 半ば諦めたかのような表情で、殿様が脇息に肘を掛ける。

「伊勢志摩の鮑が良しと聞き、酒蒸しにいたしました。今宵はこちらでご寛恕のほどを」

「食べ飽きたわ」

 そのひと言に、天井裏でやり取りを聞いていた猪松は己の腸が煮えくり返ったかのように感じた。金と手間が掛かると言われている伊勢の鮑の酒蒸しを、食べ飽きたのひと言で下げさせるなど、食に対する不敬である。

 はたと、諏訪部の背後に控えていた日比谷助左衛門が上体を起こして頭を巡らせた。

 恐らくは、天井裏の気配を察知したのであろう。

 これはいかんと猪松は、焦りながらも静かに天井裏から屋根へと抜け出し、今度は秘かに縁の下へと潜り込む。頭の中で屋根からの移動経路を思い出し、その道筋に従い這い進むと、聞き覚えのある声が頭上から響き渡ってきた。

「申し訳ございませぬ。この諏訪辺宗見、江戸家老の身でありながら、江戸において殿の御要望に応えられず、汗顔の至りにございます」

「宗見、面を上げよ」

 数日前は伝次郎に掛けていた言葉が、どうやら今度はそっくりそのまま殿様から諏訪辺宗見に向けて掛けられているらしい。

「宗見。儂は幻の鮑が見つからぬ事を、其方の怠慢とは思うておらぬ。むしろ儂のおぼろげな記憶を頼りに調べ尽し探し回っている其方らの忠節は、称賛に価すると思うておるのだ」

「勿体なきお言葉。この諏訪辺宗見、並びに家臣一同、感激の極みに御座います」

「しかし、それでも見つからぬ幻の鮑に、儂が疑問と関心を同時に抱いておるのも、また事実である」

 猪松の頭上で、微かに木々の擦れ合う音が聞こえた。恐らくは殿様が脇息きょうそくに肘を掛けたか、逆に半身を起こしたのであろうが、床下からでは何も見えない。

「儂が幻の鮑を追い求めているのは、その味を今一度この舌で確かめておきたいという気持ちもあるし、その出処を探し出して、あの日の儂を助け出してくれた御仁に礼を言わねばならぬという思いもある。彼の御仁の、赤ら顔で鍾馗しょうきさながらに豊かな髭、妙に物々しい言葉遣い、思い返すに、あれは人ではなく天狗だったのではあるまいか、とさえ考えるようになった」

 いや、やはり人でございましょうと、猪松は心の中で否定した。

 ただし猪松が考えるに、その正体は天狗ではなく人であろうが、人里離れて修行を続けていた忍びに違いない。郷里で彼を鍛え術を授けてくれた師は、平素は独り山奥に籠って術の修行を続けていると語っていた。

「だが、儂はただあの鮑を食べたいというのではない。食べさせてやりたいのだ……宗見」

「はっ」

「其方の末娘、明日が百箇日ひゃっかにちであったな」

「殿の御記憶に留まっていようとは。娘もさぞかし草葉の陰で喜んでいることでございましょう」

「五十を超えてから生まれた娘だ、注いだ愛情もひとかたならぬものがあったであろうに、幼くしてこの世を去ったのは親子共々不憫である」

「流行り病では仕方なかったと、諦めて御座います」

「まだまだ親として教えてやりたいことがあった、語ってやりたいことがあったと、酷く悲しんでおったな。儂の気持ちは、まさにそれなのだ」

 どういうことかと床下の猪松が悩む前に、頭上の殿様は言葉を続ける。

「流行り病とは恐ろしいものだ。どれだけ用心しようと、いつわずらうかしれたものではない。儂も儂の子も、いつ病にかかり没するかわからぬ」

「殿」

「聞くのだ、宗見。儂は、儂が生きているうちにあの幻の鮑を我が子光治郎みつじろうに食べさせ、このような美味がこの世にはあるのだと思い出と共に語り、光治郎の喜ぶ顔を見ておきたいのだ。それが親としての本懐であろう。本来ならば父として、己が足で探し歩いて見つけ出したいところではあるが、仕事と立場がそれを許さず叶わぬ夢になりかけていたところを、其方をはじめとした家来一同が儂の代わりに探しておるのだ。その成果に不満を漏らしたのでは罰が当たるわい。宗見、先ほどの食べ飽きたという言葉は取り消すぞ。すまなかったな」

「勿体ないお言葉。諏訪辺宗見、感激の極みに御座います」

 このやり取りを縁の下で聞いていた猪松は驚いた。

(こいつぁ名君だ)

 単に自分が食べたいからというよりも、その本音が我が子へ美味の系譜を相伝すること、そして子供の喜ぶ顔が見たいという親として当然のものであり、それを察して行動していた諏訪辺や日比谷に感謝の意を示す。

 想像していたよりも、余程出来た人物である。

「それにしても」

 殿様の言葉はまだ続く。

「いまだに見つからぬというのは一体如何いかなることか。いや、其方らの怠慢ではない。儂とて、山中で食した鮑の味が未だに忘れられぬものでありながら、果たしてあれは本当に鮑であったのかと、己の記憶を疑い問い質したくもあるのだ。もし本物を目の前にすれば、天狗鮑てんぐあわびと名付けたい、あの幻の鮑を」

 好き勝手言っているなと苦笑する猪松の脳裏に、殿様の言葉が引っ掛かる。

 山中で食した鮑の味が。

 果たしてあれは本当に鮑であったのかと。

 あった。一つだけ、思い当たる節があった。

 恐らくはこれに違いあるまい、早速伝次郎に知らせねばと膝を浮かせた猪松の眼前で、裂帛れっぱくの気合と共に白刃が床板を貫いてあらわれた。


 日比谷助左衛門にとって、刀とは斬るために存在するものであり、またあらゆる生き物の命を絶つために存在するものである。

「身を惜しみ命を惜しむ、何ぞ武士ならざらんや」

 馬庭念流の門をくぐる以前から、この考えを捨てろと叔父に何度も繰り返したしなめられてきたが、今をもって捨ててはいない。

 その結果が、馬庭念流からの放逐であると助左衛門は考えていた。

 未練は無い。基礎は確かに求道の足掛かりになりはしたものの、所詮は農民が学ぶ程度の剣術に過ぎないのだ。守りに専念したところで、実戦に役立つとは到底思えない。形や相手を選べぬ世界では、斬らなければ斬られるだけである。

 江戸ならば、あるいは己の志に合う道が見出せるやもしれぬと思い、口煩くちうるさい叔父の元へと身を寄せてみたが、いずれの道場も助左衛門の志とは微妙に食い違うし、叔父は叔父で自分の自由と求道心を束縛せんと画策している。

 日々を虚しく過ごすにつれ溜まる鬱憤を晴らす機会は、屋敷に迷い込んできた犬猫を手に掛けることのみに限られていたが、最近ではその犬猫すらも警戒して屋敷に近づかなくなったらしい。

 いっそのこと西へ修行の旅に出ようか、それとも威勢ばかりで中身の足りぬ町奴まちやっこを斬り捨ててしまおうかと思案に暮れていたところへ転がり込んできた、絶好の機会である。

 今宵はなんとしても床下の不埒ふらちな賊を我が手で討ち取り、腰の愛刀に血をすすらせねば、こちらの気が収まらぬ。

 暴力的な願望に囚われた助左衛門は畳から愛刀を引き抜くなり、主君や叔父に詫びも入れず表へと飛び出し、縁の下から這い出してきたであろう曲者を探し求める。

 いた。

 呪いのつもりか、珠数繋ぎにした目鬘をたすき掛けにし、転がるように慌ただしく逃げ去ろうとする黒装束の後ろ姿。

「待てい!」

 一喝してから立ち止まり、投げつけた小柄が曲者くせものの目鬘と背中に突き刺さる。

 深手ではないが、怯ませるには十分。

 仰け反った曲者に追いついた助左衛門は、その背後で鯉口を切った。

「覚悟!」

 腕前は達人の域に達していると自負している日比谷助左衛門である。

 仰け反り動きが止まった曲者の首を斬り落とすなど、吊り下げられた大根を斬るより容易たやすい筈であった。

 曲者の、斬り落とされるべき首が、手を下すよりも先にポロリと胴体から離れる。

「あっ」

 剣を抜いた際の勢いで、刃が首に触れてしまったのであろうか。

 いや、そのような筈がない。

 達人であろうと、意図せぬひと振りで首を綺麗に斬り落とすなど、至難を越えて不可能に近い。

 ならばこれは何事かと驚く助左衛門の前で、さらに怪異は続きを見せた。

 胴から離れ転がり落ちる首を受け止めたのは、他ならぬ曲者の伸ばした両腕。

 それでいて、切り口からはだくだくとおびただしい量の血があふれ出て止まらない。

 果たして自分は斬ったのか、斬っていないのか。

 斬っていないのであれば、何故自分は血ぶるいを行っているのか。血ぶるいは斬った後に行うものである。

 では斬ったのか。

 しかし手応えも無ければ愛刀を振るって斬りつけた覚えもない。しかも斬られた曲者は、首を失ったまま生きているかのように動いているのである。

 なんだ、これは。一体なんなのだ。

 呆然とする助左衛門をよそに、血塗れの頭を抱えた黒装束は、這うようにして屋敷のへいを乗り越え武家長屋の屋根に飛び移り、姿をくらませてしまった。

「あ……くそっ」

 我を取り戻した助左衛門は正門をくぐり抜け、黒装束が乗り越えた長屋の前に出る。

 暗闇の中で、男が一人提灯をぶら下げていた。

「これは、日比谷様ではございませんか」

 先日蔵屋敷で顔を合わせた、献残屋だった。

「こんな夜更けに、如何なさいました?」

「献残屋。賊を見かけはせなんだか」

「賊……はて、どのような格好でございました?」

 助左衛門は返答にきゅうした。まさか、斬り落とされた自分の首を抱えていたとは、とても言えない。

「怪しげな黒装束だ」

「さて、見かけませんでしたなあ。そこは如何いかがです?」

 提灯を持たぬ方の手で指さした長屋に、人の気配は無い。

 それでも念のためにと、献残屋から借りた提灯で長屋の中を照らし改めてはみたものの、やはりもぬけの殻である。

 逃げられた。

 否、そもそもあれ《・・》は人であったのか。

 釈然としないまま屋敷へ戻ろうとする助左衛門の背中に、献残屋の声が届く。

「日比谷様、師走の夜風は御身体に障ります。何卒なにとぞご自愛のほどを」


「おう、もう出てきても良いぜ」

 日比谷助左衛門の前では、下卑げひた愛想笑いを浮かべていた伝次郎。

 その表情が、物騒な侍が屋敷内に消えるなり険しいものに変わった。

 途端に、星明りと伝次郎の持つ提灯により生み出された影の中から、黒装束姿の猪松がぬう《・・》と現れ出でる。

 無論その首は胴に繋がったままで、血は一滴も流れてはいない。

「やれやれ、危なかった。旦那が来てくれなかったら、今度こそ奴に追いつかれて滅多斬りの肉膾にくなますにされていたところだ」

「どうせこんなところだろうと思って来てみれば、案の定こんなところだったなあ」

 献残屋伝次郎が使う術の一つに、人や物を己の影に隠してしまう術があることを、猪松は知っていた。原理までは教えてもらえなかったが、その術を使えば、例え敵の隣に立っていようと絶対に気付かれないらしい。

「それで、どうだった。幻の鮑は何処で獲れるのか、わかったのかい?」

「旦那、それが大間違いだ。皆、間違った処に立ったまま探しているから見つからないんだ。幻の鮑の正体は……」



 翌々日の夕暮れ。

七輪に風を送り込む猪松に、ぶらりと出かけようと裏長屋を出た三吉が声を掛けてきた。

「よお、豚松」

「猪松だ」

「何を焼いているんだ?」

「焼いているんじゃねぇ、温めているんだ」

 一々訂正しながらも、団扇で扇ぐ手は休めない。

 七輪の上の料理を覗き込んだ三吉は、おっと声を上げた。

「鰻か」

「もどきだ」

「もどきなんて魚がいるか」

「鰻もどきって料理なんだよ」

 しっかりと水を切った豆腐をり鉢で擂り下ろし、同じくり下ろした山芋を加えてさらに摺り混ぜ、ウナギの蒲焼そっくりな形に切った海苔の土台に乗せて、形を作る。この際、乗せる前に卵白を海苔に塗ることを忘れてはならない。

 作り上げた形が崩れないように細心の注意を払いながら油でからりと揚げ、本物と同じタレを塗りながら焼けば出来上がり。欲張らず盛り上がらないよう薄く海苔に乗せ、中央に一本の縦筋を作ってしまえば、外見だけならば本物と見分けがつかなくなるが、中身は勿論鰻ではなく豆腐である。

「そんな手間のかかるもんを、わざわざ作ったのか」

「いんや、知り合いの料亭から貰ったんだ。下げ膳なんだとよ」

 猪松が温め直している鰻もどきは、去る高級料亭が茶人同士の懐石にと、わざわざ技巧を凝らして用意したのだが、肝心の客人たちが所有茶器の自慢話から喧嘩になり、宴席は中止。勿体ないが捨てるしかないと諦めていたところへ、市場で顔見知りになった猪松がひょいと顔を出したのである。

「だからお偉方は馬鹿なんだ。見栄や嫉妬で喧嘩して、こんな旨そうなもんにありつけないんじゃ、一体何のために生きているのかもわかりゃしねぇ。どんなに格好つけたところで、びもびも腹の足しにはなりゃしねぇだろうに」

 代金代わりにと聞かされたのが、鰻もどきの作り方と料亭側の愚痴である。

 鰻もどきを丁寧にひっくり返した猪松の前で、そういえばと三吉が切り出した。

「例の鮑はどうなったんだ?」

「鮑?」

「ほれ、手前が天狗鮑と喚いてた奴さ。正体がわかったんだろう?」

 ああ、それはと言いかけた猪松の表情が、怪訝なものに変わった。

「なんでお前が天狗鮑を知っているんだ?」

「今朝方、およしの処から戻ってきた俺とすれ違った時に、天狗鮑だ幻の鮑だって譫言うわごとみてぇに何度も繰り返していたじゃねぇか」

「そうだったかな」

 すれ違ったのが三吉であったかどうか。それすらも猪松の記憶には残っていない。

 日比谷助左衛門の凶刃から逃れたばかりの猪松が、天狗鮑こと幻の鮑の正体を居合わせた伝次郎に伝えたものの、その正体の意外さもありにわかには信じてもらえなかった。いくら口頭で説明しても理解してもらえぬ苛立ちと腹立たしさに、ならば実物を見せましょうと啖呵たんかを切ってから裏長屋へ戻り、夜明けと共に市場へと駆け出したのだが、その道中で朝帰りの三吉とすれ違ったかどうかまでは覚えていない。

「今度の女はお芳っていうのか。まあいいや、あれの正体は鮑じゃなくて……」

「あ、いけねぇ」

 猪松の説明を遮った三吉が、踵を返してその場から逃げ出すと、入れ替わるように背後からひたひたと近づいてくる足音が聞こえてきた。

「おい、今しがた逃げ出したのは三吉だろう?」

 捕物さながらに問い質してきたのは、裏長屋の大家を兼任している献残屋伝次郎である。

「そうですが、彼奴きゃつが何か?」

「やっぱり三吉か。あの野郎、家賃をふた月も滞納しておいて、よくのうのうと俺の長屋の前をうろつけるもんだ」

 裏長屋を所有しているのは郷里の里長であり、伝次郎は管理しているだけの雇われ大家に過ぎない筈なのだが。

「こんなところで油を売る暇があったら、真面目に働いて家賃を払いやがれってんだ」

「旦那、彼奴が売っているのは油じゃなくて伸子ですぜ」

 揶揄う猪松の声を聞き流すように、伝次郎はエヘンと勿体もったい付けた空咳からぜきを一つした。

「猪松、今回は世話になったな」

「それじゃあ、やっぱりあれで正解だったんですかい」

「うむ。献残ということで、使わなかったところはしっかり貰って来てやったぞ」

 そう言いながら、なんとも似合わぬ竹編み籠をぶら提げていた伝次郎は、その上におおい被さっていた袱紗ふくさめくってみせた。

 伝次郎の動きに合わせるかのように、竹籠のなかでころころと転がっていたのは、まだ開き切っておらぬ松茸の傘。その数は四つだが、いずれも同種としてはかなりの大振りである。

「まさか、こんなもんが幻の鮑の正体とはなあ」

「こんなもんとは旦那もひでぇや。こいつも立派な風物詩じゃねぇですかい」

 正しくは、精進鮑という。

 本来は、なまぐさである鮑を食べることを戒律で禁じられた僧職の典座てんざが、ならば見た目だけでも――と技巧を凝らして作り上げたものである。

 作り方は簡単で、傘と石突きを斬り落とした大振りの松茸を塩水で洗い、しっかり水気を切ってから酒と醤油のタレで煮含め、鮑の形そっくりに切るだけである。しかし見た目は鮑の蒸したものそっくりでありながら、食べてみれば食感と舌触りは松茸そのもの。調理の過程を実際に目撃していた伝次郎ですら、猪松が作り上げた見本を目の当たりにし、また口にして驚きの声を上げた。

「諏訪辺様のお話では、俺が伝えた通りの方法で作った精進鮑をお召しなされた殿様が、これだ、これだ、この味だと大喜びだったらしい」

 俺が伝えたと伝次郎は言うが、その中身は猪松が教えた作り方そのものの筈である。

「しかし、どうにも不思議でならねぇ。どうして誰も気づかなかったのだろうな」

「あっしが言ったじゃないですか。皆、間違った処に立ったまま探しているから見つからないんだって。最初から鮑だ、貝だと思い込んでいたところが間違いの元だったんでさぁ」

 本物の鮑に似せて薄く切るところに技量の有無を求められこそするものの、如何にもそれらしく作り上げた精進鮑は、本物の鮑を隣に置きでもしない限り、そう簡単に見分けがつくものではない。

 ましてや子供の頃の思い出が基準である。何故記憶の味と異なるのかを追求するより、記憶そのものが曖昧なのだという思い込みの方が勝ってしまったのであろう。

 く言う猪松も、殿様が求めているのは本物の鮑であると、上屋敷に忍び込むのでは本気で信じていた。

 それを根底からくつがえし精進鮑に結びつけたのは、床下で耳にした殿様のつぶやきである。

 果たして、あれは鮑であったのか。

 それまで自身を含めた誰もが疑いを持たなかった状況で、唯一その根底に異を唱えることが出来たのが、当の殿様本人のみであったというのは、皮肉でしかない。もし仮に殿様以外の誰かが同じことを思いついたとしても、それを口にするのははばかられる。

 また、それを聞いていたのが猪松であったことも僥倖ぎょうこうと言えた。いくら忍びの技術に長けていたとしても、潜入したのが丁助や三吉、伝次郎であったならば、その呟きから精進鮑に辿り着くまでの食に対する知識と発想が無いので、無駄に聞き流していたところである。

「諏訪辺様は、一度に二つも良いことがあったと喜ばれていらっしゃった」

「二つ?」

「うむ。一つは精進鮑により殿様の願いが叶えられたこと。もう一つは、例の日比谷助左衛門な、あいつがあの晩以来、めっきりしおらしくなって、剣を捨て仏門に入るべきかと相談してきたそうだ」

「へえ、仏門に。それはまた思い切ったものですな」

 猪松が驚いた理由は、精神の変容や助左衛門自身による求道の限界などといった高尚なものではなく、仏門に入ったら腥が喰えなくなるだろうにという、俗っぽい同情からである。

「上屋敷に忍び込んだ不埒な曲者を斬ろうとしたものの、斬れずに逃してしまい、それからは剣の修行にも迷いが出るようになってしまったのだそうだ……猪松、お前、一体何をやらかした?」

「あっしに出来ることなんて、嵩が知れてまさぁ」

 団扇で七輪に風を送り続けながら、猪松は嘯く。

 忍法、百眼(ひゃくまなこ)。

 幾何学模様の中に描かれた眼の図形をかざすことにより、相手がこれから行おうとしている行動を、既に実行したと錯覚させる術である。

  例えば酒を呑もうとしている相手に使うと、既に呑んだものと思い込むだけではなく、実際に呑んだかのように顔を赤くして酔っ払うし、帰宅中の相手に使えば自宅に着いたものだと思い込んでその場で寝てしまう。

 つまり猪松がああしろ、こうしろという暗示を掛けているのではなく、術に掛かった相手が、行動した後の光景を夢想するのである。ただし猪松が相手の心の中まで読み取っているわけではないので、術に掛かった相手がどのような行為を取るのかについては猪松も予想できない、という欠点を持つ。

 今回は、それが上手い具合に作用したのだろう。

 逃げる黒装束の猪松を追うということは、その身体に襷掛けにしていた百眼も凝視していたことになる。暗示が掛かったからこそ、剣を抜いた助左衛門は、己が行動した後の光景を幻視し困惑したのであろうが、結果としては中途半端な足止めにしかならなかったのが、猪松としては残念なところである。

「まあ、物騒な考えを改めてくれたのであれば、それはそれで良かったんじゃありませんかね。お陰でこちとら肉膾にされかけましたがね」

「それだけのことをやらかして、報酬がこれだけというんだから、まったく欲の無い野郎だよ、おめぇは」

 そう言いながら伝次郎は竹籠を軽く揺らし、開き切らぬ松茸の傘を転がした。

「いやいや。こいつを水洗いしてから七輪で焼いて、醤油と酢橘すだちを垂らすのですよ。今まで買い求めてきた鮑が一級品なんだから、松茸だって有名どころで大枚はたいて買った一級品に違いないでしょ。こちとら今まで安物の松茸しか口に出来なかったんだ、偶には贅沢に味の違いってもんを楽しませてもらいますぜ」

「まさか、今からこいつを焼くわけじゃあるまいな。鰻と松茸を一緒に喰うなんて、贅沢過ぎて罰が当たるぜ」

「旦那、こいつは鰻じゃありませんや」

 鰻もどきの説明を猪松から聞いた伝次郎は、ふぅんと感心の声を上げてから、七輪の上の鰻もどきと竹籠の中の松茸を交互に眺めた。

「それじゃあ、そいつも精進鮑と同じような料理というわけだな」

「まあ、どちらも本来は腥を禁じられた坊主たちが腥に代わるもの、腥に執着するものに対するせめてもの心遣いとして編み出したようなものですからな」

「そこまでして煩悩を消し去りたいものかねぇ。坊主共の考えていることは、俺にはさっぱりわからん。もどき料理なんてもんを編み出したところで、腥もんを喰いたいという執着が消えるわけでもないだろうに」

 呆れたように零す伝次郎に、しかし猪松は、いやあと呑気な声を上げてそれを否定した。

「あっしらだって、こんな世の中じゃろくに使い道の無い忍術なんてもんを編み出してきたでしょうに」

「その忍術で今まで生き延びてこれた奴が、良く言うぜ」

 伝次郎の言う忍術とは、百眼の術や影隠しの術のような特殊な術のみを指しているのではない。市井に紛れながら己にとって必要な情報を探し、聞き出し、集めて整理する技術をも指している。運動能力は大きく劣る猪松であるが、それらの技術を学び活かしてきたことは大きく評価されるべきだと伝次郎は考えている。

「もどき料理だって、こうして俺たちの舌と腹を満足させてくれますぜ」

「どうだろうな。今回みたいに、喰った奴を勘違いさせて後々にまで騒動の種になる、なんてこともあるにはあるようだが。まあ、もどきの鮑と本物の鮑の違いを見抜けなかった殿様のために用意された松茸だからな。あまり期待すると拍子抜けするかもしれんぞ」

「見抜けなかったのは仕方ないことだと思いますぜ。旦那だって御家老だって、出来上がった精進鮑を見て、本物そっくりだと思ったんでしょう?」

「それはそうだが」

「獲れたての松茸を見て、鮑そっくりの姿をしているなんて、誰も思いやしませんて。殿様の舌を馬鹿にするより、松茸を鮑そっくりに見せる技巧を思いついた奴と、そいつを殿様相手に披露した樵を褒めるのが妥当だと思いますがね、あっしは」

 むぅ、と伝次郎は低く唸った。

 普段は何事も笑って受け流すような呑気者のくせに、こと食に関しては裏長屋の誰よりも鋭く、それでいて抜け目がない。

 目鬘売りの猪松とは、そういう男である。

「まあ、ことくだんの鮑に限って言えば、救難の恩と子供の頃の思い出という味付けが、本物の鮑の味を上回ったのでございましょうな」

「それだけの価値がある、もどき料理ということか」

「そういうことですな。それに、もどき料理とはいえ、使った松茸は文句なしの上物の筈だから、味が悪い筈が無ぇ」

 程良く温まった鰻もどきを皿代わりのほおの葉に乗せ、七輪の火皿から取り出した炭を火箸で火消し壺に収め終えた猪松は、よっと息を吐きながら立ち上がった。

「そういう訳ですんで、あっしにもぜひその上物の味を」

 竹籠を受け取るつもりなのであろう。

 両手を差し出した猪松に、しかし伝次郎は意地悪く竹籠を己の背後に隠してしまった。

「ご苦労だったと言いたいところだが……その前に先月分の家賃の話をしようじゃないか。猪松、手前てめぇはまだ納めてないよな?」



                                   (了)


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