第18話 終恋

 昼休憩時間に社食で芽依がオムライスを食べていると、健人が目の前に座った。

「あれ? 今日、シフト入ってました?」

「あ、昼から村上さんと交代したんです。ちょっとお嬢さんが急に具合悪くなったとかで」

「そうだったんですか」

「それで今から仕事なんですけど、メロンパン、追加で焼いた方がいいかと聞きにきたんです」

「あ、売り場見てから…考えないと。でも朝見たら、そうでもなかったと思うから、焼くのは予定通りで大丈夫だと思うけど…。今日は昼からオーダーがいくつか入ってて。それで忙しくなると思う」

「はい。分かりました」と言って、健人は立ち去ろうとして、また戻ってきた。

「この間の話ですけど、また今日、お伺いしていいですか?」

「え?」

「芽依さんのアパート」と言うだけ言って、去っていった。

 いつもは苗字を呼ぶのに、名前の方を呼ばれて、芽依は少し困った。健人は一体、何を考えているのか、さっぱりわからない。それと鉄雄の様子も少し変だったのも気になっている。疲れたのかもしれないけれど、ちょっと元気がなさそうで、アパートに着くとシャワーを浴びに自分の部屋にすぐに入って行った。芽依も急いで用意して出かけたので、今朝は挨拶を交わすこともできないまま、会社に来た。何か鉄雄が喜ぶことをしてあげられないかな、と芽依は考えた。そんなに美味しいご飯を作れるわけでもないし…、鉄雄みたいに綺麗なお花を選ぶこともできない。思わず芽依の眉間に皺が寄ってしまう。


 昼から健人や他のパートさんと働いて、忙しくしていた。卒業シーズンなので、サンドイッチの注文が入っていた。幼稚園児のお母さんたちがパーティをする用だったり、中学生が子ども同士で集まって食べたい、という注文もある。

「村上さんがいない分、頑張らなきゃ」と自分の気合を入れるために言った言葉を聞いて、健人が「だから僕が入ってるんです」と言い返してきた。

「あ、ごめんなさい。そう言う意味じゃなくて…」

「分かってますけど、傷つきました」

「ごめんなさい」

「じゃあ、お家、行きますね」

「え?」と顔を見たら、すました顔でサンドイッチをパッキングしている。

 芽依も仕事に集中することにした。なんとか注文を用意し、午後のパンを売り場に並べた。たくさんの人に美味しいと思って食べてほしいな、と崩れた並びも綺麗に並び替える。ピザの売れ行きも良さそうで、追加で焼いてもいいかと思った。

 肩を叩かれ振り向くと岡崎が立っている。

「え?」と思わず芽依は体をビクッとさせた。

 職場で逃げ場がない。

「ずっと会えないから…来たんだけど。ちゃんと話をしたい。今日…いつものところで待ってるから。仕事終わったら来て欲しい」

 スーパーの売り場で油を売ることはできない。芽依は頷いた。それを確認すると岡崎が立ち去っていく。売り場に目をやるとやはりピザは補充した方がいいようだった。調理場に戻ると、ガラス窓から芽依を見ていた健人が近づいてきた。

「クレームですか?」

「あ、違うの。あの…今日は…一緒には行けなくて。悪いんだけど、売り場にピザを補充して欲しいのと、あと、家は先に行って待ってて。ピザも鉄雄さんに買って…」

「情報量多いですけど。とりあえずピザ補充します」と言って健人は素直にピザの生地を取りに行った。

 岡崎と何をちゃんと話すことがあるのだろうか、と思ったが、もうこれで終わりにしたい、と芽依は考えた。


 仕事が終わると、健人に買ったピザとドーナツを渡して、鉄雄と先に食べてて欲しい、とお願いした。

「どこ行くんですか?」

「ちょっと友達に会うから…」

「友達?」と健人は訝しげだったが、芽依は頭を下げて、慌てて着替えに行った。


 今日の服はごく普通のピンクのパーカーにジーンズだった。化粧も薄い。色付きリップを唇に塗った。化粧直しも、そもそも化粧道具を持ち歩いていなかった。一つ括りにした髪を下ろしてみたが、ゴムの跡が付いているので、結局、一つ括りに戻した。飾らないといえば聞こえがいいが、素っ気なさすぎる芽依の顔が鏡に映っている。綺麗にしたところで、もう別れた相手なのだから、着飾る意味もない、と芽依はため息をついた。

 いつもの場所は店から駅五つ離れた各駅停車しか停まらない駅の下にある喫茶店だった。思えば、こんな変なところで待ち合わせするのも隠したい関係だったからだろうと芽依は今さらはっきり分かった。久しぶりの喫茶店の扉をくぐると、少し前までは岡崎に誘われて、嬉しくて、緊張して、待っていた自分だったと思った。

「ミルクティください」と注文してから芽依は一人で笑った。

 岡崎から見たら、ミルクティばかり飲んでいるように思われても仕方がない。ミルクティが運ばれてきた時、岡崎が入り口から入ってきた。

「待たせてごめん」

「いえ。大丈夫です」

 岡崎はいつものようにコーヒーを頼んで、目の前に座る。

「色々…すまなかった。君の家に押しかけたことも。騙していたことも」

「…はい」

 付き合っていた頃はこんな話をするなんて思ってもみなかった。久しぶりに面と向かって顔を合わせてみると、言葉が上手く出なくて、好きだった時の気持ちも少し残っていることに驚いた。ウェーブがかった髪は栗色で指を差し込むと柔らかくて、好きだった。

「君のことは本気で好きだった」

 悲しくなる。今、それを聞いても、嬉しいと言う気持ちより、寂しさを覚えた。

「…私も、岡崎さんのこと好きでした。初めて好きになった人だったし…。でも人を裏切ってまで続けたくないですし、やっぱり嘘をつかれてた人とは…無理なんです」

「ごめん。君が来て、いつも笑顔で、職場も明るくなって…、騙そうとかそういうつもりじゃなくて、気がついたら好きになってたんだ。気持ちを抑えられなくて。今更言っても、伝わらないと思うけど」

「…いえ。あの時の…気持ちまで嘘だとは思わないことにします。私も気づかない馬鹿だったのが悪いと思うし」

「いや、悪くないから。悪いのは僕だから」

(そうだよ。オマエが全部悪い)とミルクティをぶっかけることができたら、胸がすくだろうか、と一瞬、芽依は想像した。

 その想像のおかげで、芽依はふっと力が抜けて、微笑むことができた。

「岡崎さんにはいろんなことを教えてもらいました。人を好きになる気持ちと…、辛さと、心の醜さと、自分の馬鹿さ加減。だから…ありがとうございました」と言って、頭を下げた。

 少し傷ついたような顔を岡崎がして、鞄から封筒を取り出した。

「これ…受け取って欲しい」

(その封筒を見て、ドラマみたいだ)とぼんやり思う。

 いくら入ってるのか正直分からない。芽依は封筒を開けて中身を見ると、想像通りお金が入っていた。芽依はその中から一枚だけ抜き取って、後は岡崎の方へ押しやった。

「これで今晩、美味しいもの食べます。ありがとうございます。どうかお体に気をつけて」

「…。本当にすまない」と頭を下げた時に、コーヒーが運ばれて来た。

「私…もう行きますね。さようなら」と頭を下げて、芽依は岡崎の前から立ち去った。

 もらったお金からミルクティ代を払い、残りを財布に入れる。このお金でお寿司でも買って、鉄雄と一緒に食べようか、と芽依は考えて表に出た。表に出た途端、涙がこぼれた。大好きだった人を許したかった。自分の思い出も綺麗なままで置いておきたかった。でも今はまだ、何一つできずに、混乱の中に置き去りにした。

 太陽が投げかける夕方の光が眩しかった。今日の朝日も夕日も眩しくて目を塞いでも、芽依の心を通り抜けていく。このまま光に溶けて、空気になりたい、と一瞬願ってしまう。

(お寿司を買って、帰って、食べて、全部、忘れよう)

 早く家に帰って、鉄雄に会いたかった。会って、馬鹿なことを言って、笑いたかった。芽依はすっかり健人を家に行かせていることを忘れていた。

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