第25話 決戦へ

 


 それからのマリアは、約束の日時までの2日間をあちらこちらと忙しく動き回った。

 ミケランジェロ広場に〝人避け〟の結界を張る下準備をした。さらに、異端審問会を通して、警察の動きを制しておいた。これで勝負の際に、一般人が誤って入り込んで巻き込まれる危険性は減り、この事件の解決に躍起になっている警察の邪魔が入ることもない。


 その連絡の際、決戦の事を聞きつけたコッツイ卿が増援を送ると言い出したが、マリアは丁重に断った。

 ランドがどのような手を打って来るか、不確定な要素が多過ぎるためである。増援によって、乱戦になることも予想されたからだった。

 それでもコッツィ卿は自身の功名心に駆られて独断で増援を送ってくるかもしれなかったが、1度は丁重に断りを入れているので、その上での増援に関しては知ったことではないし、また結果として、その増援がどうなろうと知ったことではない――とマリアは捉えた。

 名誉や栄華、権力などといったモノを求める人たちを数多く見てきたからだろうか。教会に属しておきながら、そういったことに関しては、マリアは同僚たちも驚くほどに冷淡だった。


 その他、予想される事後処理のことも含めて一通りの手筈が付いたのが決戦当日の昼過ぎ、午後2時を少し過ぎた頃のことであった。約束の時間まで暇が出来たので、マリアは夜まではゆっくりと過ごすことにした。


 マリアは遅い昼食を軽く済ませると、バルジェッロ美術館に行くことにした。

 到着すると、マリアは2階に上がった。部屋をいくつか抜け、2つの〝イサクの犠牲〟を探した。奥の壁に飾られたこの2つの〝イサクの犠牲〟は、ロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネッレスキの両名がサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の扉の制作権を賭けて制作したものだ。

 ちなみに、この勝負はギベルティに軍配が上がり、破れたブルネッレスキは失意のうちにローマに渡った。そこで建築学を学び、後年、難航していたフィレンツェのドゥオモの巨大なドームの設計・制作を手掛けることになる。


 他にもドナテッロの〝ダヴィデ〟像、〝バッカス〟を始めとするミケランジェロ・ブオナローティの数々の作品。ここは数多の彫刻の名作を揃えた美術館であるが、その割には客は少ない方なので、マリアはゆっくりと作品群を見て回った。


 それから、今度はピッティ宮に向かった。

 向かう途中、ドゥオモの前を通るついでに『スクーデリ』というBARに寄って、スプレムータ・ディ・アランチャ――生絞りオレンジジュース――を1杯飲んだ。新鮮なブラッディ・オレンジの甘さが美味しかった。

 一息つくと、ウフィッツィ美術館の横を擦り抜け、アルノ川へ出た。川沿いにポンテ・ヴェッキオへ向かう。アルノ川の水面が穏やかな午後の日差しを反射し、キラキラと光っていた。何人も載せた競技用のボートがゆっくりと川上へと進んでいた。

 ポンテ・ヴェッキオでは時期が時期だけに、今日も多くの観光客が金銀細工の店を覗き込み、橋の上で地元の人たちがたむろしている。その中を、マリアは軽やかに人混みを抜けて、対岸に辿りつく。

 そのまま、さらに進むとピッティ宮だ。城門前の敷地は石畳の広場のようになっていて、そこに結構な人数の人々が座ったり寝転がったり、と思い思いにくつろいでいた。


 このピッティ宮は、初代トスカーナ大公・コジモ1世が買い取り邸宅としたものだ。ここからアルノ川に架かるヴェッキオ橋を経て、当時、政庁舎であったヴェッキオ宮殿・ウフィッツィ美術館まで続く回廊が造られた。この回廊――ヴァザーリの回廊は、政敵や刺客に狙われないために、1度も外に出ることなく通うことが出来るようになっている。そのため、当初は市井を観察するための小さな覗き窓だけが造られていたが、現在の橋には中央に遠景を望めるような大きな窓がある。

 本来の趣旨に反するこの大きな窓は、第2次世界大戦の折り、侵攻してきたナチスドイツが設えてしまったものだ。


 さて、このピッティ宮殿には近代美術館や銀器博物館、衣装博物館、陶磁器博物館などがあり、メインのパラティーナ美術館には著名な絵画を始め、膨大な数の美術品が収蔵されている。さすがに全部を回っている時間はなかったので、マリアはパラティーナ美術館だけを見て回ることにした。

 ラファエッロの〝大公の聖母〟や〝小椅子の聖母〟、〝ヴェールを被る婦人の肖像ラ・ヴェラータ〟、カラヴァッジョの〝眠るキューピッド〟、フィリッポ・リッピの〝聖母子聖アンナの生涯〟を始め数多くの名作が、かつてトスカーナ大公らが生活していた豪奢な邸宅に、当時を思わせるような展示で観覧出来る。ちょっと変わったところでは、ナポレオンが侵攻した際、持ち込ませた専用のバスタブも展示されているのが面白い。

 それはともかく、ここはチケット売り場では多少混雑して並ぶものの、入館してしまえば、館内はウフィッツィ美術館のようにごった返してはいないから、たとえ世界的な名画であってもその前で何時間でも眺めていられる。すでに少々遅めの時間帯でもあり、客足は疎らであった。マリアはここもゆっくりと見て回ることが出来た。


 その後、宮殿内にあるボーボリ庭園に移動し、洞窟を模した噴水の周りに並べられた彫刻群やバラ園などを回った。

 中央にある噴水を望む緩やかな丘陵部に戻ってきたマリアは石製のベンチに腰掛けて、入場する前に旧市街で買っておいた生ハムとチーズのパニーノを食べた。途端にお零れを求めてスズメと――ヨーロッパコマドリが数羽、寄って来た。餌を貰い慣れているのか、人を恐れもしないで寄って来る。自然の鳥に餌をやるのもどうか――とマリアは思ったので、手荒くパニーノを食べ、わざとパンが零れ落ちるようにした。膝の上に落ちた欠片を取りに、ロビンが膝の上に乗ってきた。ロビンは何の警戒心もないようで、それに触発されたのか、スズメもマリアの肩に止まった。

 もはやパン屑も無くなったのに膝や肩、それに頭の上にも小鳥が乗ったままで、傍から見れば、何とも長閑な情景であった。その証に、通りかかった人たちが皆、その光景を見て温かい気持ちになり、微笑みを湛えて通り過ぎていった。


 陽も傾き始め、小鳥たちも飛んで行ったので、マリアはようやくベンチから立ち上がった。そして、出口へと向かう。ピッティ宮を出るとマリアは表通りの道を右に折れ、さらに脇道のコスタ・サン・ジョルジョ通りを道なりに丘を指してつらつらと上って行った。ピッティ宮から少し離れると、この道は付近の住人以外にはほとんど通らず、元より人通りが多いとは言えない。

 人の頭を越えるほどの高さの塀が両側を囲む道を、マリアは黙々と歩いた。丘を登りきるまで、誰とも擦れ違わなかった。


 ミケランジェロ広場のほど近くまで来ると、ようやく人気ひとけが多くなった。夕刻近くでも観光客で賑わう広場を尻目に、宿舎であるサン・ミニアート・アル・モンテ教会へと戻りシャワーを浴びた。

 一息つく間もなく、いつものように戦いに備えて黒いに着替えた。上から黒のコートを羽織り、2本の剣を帯いた。何となく、いつもは持って来るだけの懐剣も腰の後ろ側に帯いた。それから先日、ミケーレから受け取った物を内ポケットに入れた。


 ちょうどその時、部屋の扉を叩く音がした。マリアが戸を開けるとマッテオ神父が立っており、半リットルのガラス瓶を2本差し出した。マリアが頼んでいた物だ。中身は聖水などではなく、至って普通の、水だ。

 戦う相手が吸血鬼だと聞きつけた神父が、聖水の方が良いのではないかと問うてきたが、マリアは、精霊を宿らせるので普通の水の方が都合が良いのだ――と説明して用意してもらっていたものだ。


「これでよろしいのですね」

「ええ、ありがとうございます」


 マリアは礼を述べて、それを受け取った。腰に付けたポーチに入れるのを見届けて、神父が名残惜しそうに言った。


「行かれるのですね」

「はい。お世話になりました」

「いいえ。貴女に神のご加護がありますように」

「はい」


 マッテオ神父に言葉にもう1度頭を下げたが、実のところ、〝〟という言葉に対しては曖昧に頷いただけである。教会という組織に属していながら、マリアは〝神のご加護〟なんぞに期待したことは1度もなかった。

 いつも、ほとんどの事象は、手を尽くし、力を尽くした結果――だと思っている。マリアはそんな思考などおくびにも出さず、敬虔な修道女として頭を垂れた。


 取り決めた約束の時刻は午前0時だが、〝人払い〟の結界がしっかりと効果を発揮するか――を確認するためもあって午後10時にはミケランジェロ広場に出向いた。

 マリアは目立たないように広場の端に佇んだ。そろそろ結界が効き出す頃合いだ。

 ミケランジェロ広場には夜景を眺めに来た人たちがまだまだ多数いたが、何とはなしにしばらく広場を眺めていると、1人2人と広場を出て市内へと帰って行くが、新たにはやって来ない。どうやら効果は出始めているようだ。しかしながら、時刻が時刻なだけに帰っただけ――偶然ということもある。

 さらに様子を窺っていると、すでに時刻は午後11時半を回ったというのに、あちらに5人、こちらに10人と、都合50人を超える人たちが未だに残っている。


「ん?」


 奇妙な感覚を覚え、マリアは訝しげな表情で人々を見ていた。


「うん?」


 小首を傾げ、マリアは唸った。

 ランドと示し合わせた午前0時を前に、これほどの人が結界の効いている広場に留まれるはずがないのだ。それなのに残っているのであれば、その人々は大きく2種類に分けられる。


 1つはこちら側の人間。

 例えば異端審問会などに属しているのであれば、魔除けなど様々なものに対応する装備もそろっていることだし、またそういった人からすれば、この程度の結界などは歯牙にかけるほどに大層なこともないだろう。


 もう1つはあちら側の人間。

 いや、もはや人間と呼べるのか――。つまり、もう人でなくなってしまった存在。今回の件で考えられるのは、ランドに血を吸われ、その眷属となってしまっている者たちの場合だ。マリアが仕掛けた結界は一般人を巻き込まないようにするためのもので、人外の者には効果はない。一定数の人たちは市街に帰って行ったようなので、残っているのは専門家の類か、人でない者たちだろう。

 だったら、気にかけることはない。


 マリアはそろそろ時間だ、と広場の中央寄りに歩いて行った。

 その途中、


「ん?」


と、マリアは辺りを見回しながら、クン、と1度だけ鼻をひくつかせた。

 何だろう? ほんの僅かに獣臭い。

 だが、直後に吹いた風のせいで、匂いはよく分からなくなった。気にはなったが、自然が相手ではどうしようもない。

 仕方がないな――と、マリアは気持ちを切り替えて、歩を進めた。

 14、5人ばかりはこちらを確認するように見たので、おそらく彼らはコッツィ卿に派遣された異端審問会所属の隊員たちと思われた。

 マリアは軽く嘆息した。やはり、送り込んできたか。


(あれだけ、言っておいたのに……。ランド側か)


 いつの間にこれほどの人数を眷属としていたのか――。

 様々な老若男女が含まれていた。夜景を楽しむ恋人同士のように寄り添う2人や、赤いコートを着た少女に肩車をしてやる優しそうな父親。仲良く手を繋いで街並みを見やる老夫婦。

 警察に捜索依頼が出ている人も多いだろうが、死人・吸血鬼として始末されれば、みな塵と化して何も残さず消えてしまう。


(この件が片付いたら、みんな行方知れず……かな)


 この事件が解決しても、永遠に行方不明扱いだ。だが、柄にもなく、ほんの僅かに浮かんだ感傷もすぐに消えた。


 午後11時58分――。


(さて、と……)


 マリアは広場の中央まで来ると、学校で小さな子供たちの注目を集めるために教師がするように、ぱん、と両手を打ち鳴らした。異端審問会側の人々が何事かとマリアを見た。ランド側の眷属たちは反応しなかった。


 午後11時59分――。


「さて、そろそろ始めましょうか」


 マリアは、今から始まることを考えると、これ以上相応しくないものはないであろうほどの、極上の微笑を浮かべて高らかに宣言した。


「そうですね。始めましょう」


 いつの間にか、中央から50メートルほども離れた場所に立っていたランドが言った。


 午前0時――。


 街のいたる所にある教会が、新年を祝う鐘を打ち鳴らした。



 

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