第6話 ロンドン



 マリアがロンドンに到着したのは、10月2日。

 イタリアからは馬車や馬での移動だったため、時間を要してしまった。それでも、夜を日に継いでの移動だったのだ。

 去る9月30日に〝切り裂きジャック〟によると思われる2件の殺人が起こっていたが、到着前であったため、さすがにマリアにもどうすることも出来なかった。


 ロンドンの下町、テムズ川の河口から1キロほど上流にある異端審問会管轄の小さな教会の扉をマリアは敲いた。本当に管轄下にあるのかと目を疑うような教会だったが、マリアは意に介した様子もない。


 すでに陽が傾き始めていた。時刻は午後の4時を回っていた。

 ブラウンの髪と瞳の若い修道士が出てきたが、天使と見紛うばかりのマリアの顔を見て、彫像の如くに固まってしまった。マリアが、


「ローマから派遣されました。マリアです。よろしくお願いします」


と、柔らかそうな金色の髪を揺らして、ぺこりと頭を下げると、掛かっていた魔法が解けたように、


「こ、こちらこそ、パトリック・スティングレイです。御用があれば、何なりとお申し付けください」


と、人の良さそうな笑顔で右手を差し出しながら言った。屈託の無さにマリアも好感を持った。握手を返すマリアに、


「えっと……、お名前だけなのですか? では、マリアさん――と呼べば?」

「ええ。任務の特性上、〝マリア〟のみで通していますから」

「わかりました。私のことはパトリック――と。こんな若くて可愛らしい方が来られるとは思ってもいませんでした。歴戦の強者だとお聞きしていたもので……」

「まあ。ですが、見た目通りの年齢とは限りませんよ? 女は〝化生けしょう〟と申しますから」


 ふふふ、と口元に手を当てて微笑むマリアは確かに妖艶にも見えて、しかし、次の瞬間には無垢な少女のように見えた。その年齢の不詳さに、若いパトリックはどぎまぎした。

 彼は内心の動揺を誤魔化すためか、


「あっ……と、お荷物を。部屋はこちらです」


と、マリアから荷物を受け取った。宿舎の部屋へと案内しながら、


「他の方はもうお着きです。お2人は一昨日、もうお3方さんかたは昨日お見えになりました」


 そう、マリアに先客の事を告げた。オルシーニ枢機卿が言っていたハンターのことだ。だが……。


「? ですか?」

「はい。え……? 違うのですか?」


 マリアはパトリックが気付かぬくらいの、ほんの一瞬だけ眉を寄せたが、元通りに何食わぬ顔で話を続けた。

 

「いえ。もう、皆さんお揃いなのですね?」

「はい。ただ、行動を起こされた方と、まだ何もなさっておられない方が……」

「まあ、それは追い追い……」

「よろしいので?」

「はい。ところで、先日……また事件があったようですね」

「ええ。1日の間に2人も殺されました。人の所業とは思えません。恐ろしいことです」


 マリアの振った話に、パトリックは顔を曇らせながら、そう言った。


「こちらの部屋をお使いください。それから、夕飯は6時半頃の予定ですがどうなさいますか?」

「ええ、頂きます。それまで、辺りを回ってこようと思います」

「わかりました。ただし、くれぐれも気を付けてください。今は何分、物騒ですので……」

「ありがとう」


と、荷物を返して貰いながら、マリアはパトリックと握手を交わし、案内された部屋へと入った。

 使い込まれた小さな机と椅子、それに古い箪笥とベッドが置かれただけの質素な部屋であった。マリアはそんなところを気にしなかったし、どちらかと言えば、華美なところのないこのような部屋の方が落ち着く性質たちだ。


 マリアは部屋の内装を確認するように見回すと、ベッドの上にトランクを投げ出し、開けた。

 取り出した黒い革製のに着替え、トランクに隠していた大小2本の剣を肩口から吊るす。ミケーレから贈られた短刀と同様に鍔はない。鞘越しに見てものない真っ直ぐな剣だった。柄は短く20センチメートルほどで、刃渡りは、小は45、大きい方でも60センチメートルもない。これらは上から外套を羽織ると、傍目には仕込んでいるのが見えなくなった。

 靴は履いてきたミドルカットの革靴のまま。これの紐をしっかりと締めなおして終わりだった。


 ロンドンの地図はローマを出るときに頭に刻み込んできた。

 準備の整ったマリアは、足音もなく部屋を出た。



  

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