1-11 白昼夢

 それは、白昼夢のような感覚。

 目の前が光で満ちて、突如、イメージが頭に雪崩れ込んでくる。

 まるで自身が雲になったかのように、眼下に眺める地上には自宅も見えて。

 砂粒のようなそれに、自分自身が、実体を伴って、集まって、真っ逆さまに、槍のように、注ぐ―――


「……雨…?」

 自室で独り呟いたのは白和泉麻望だ。学校に行くため身支度をしていた彼女はふと立ち上がり、窓の外の空模様を窺った。じきに迫ってくるであろう梅雨の気配などほとんど感じさせない爽やかな晴天で、雲一つ見えない。

 彼女は制服に着替えて居間へと向かい、食卓へと腰掛ける。自分よりも早い時間に出ていった母が残していったテーブルの上の朝食―――そばに『お弁当は冷蔵庫に入ってるよ、忘れずにね』というメモ書きが置かれている―――に向かい、いただきます、と手を合わせるとテレビを点けた。

『……へと来ております!こちらが今注目を浴びに浴びている話題のスイーツ、』

「興味なし」

 チャンネルを切り替える。

『なんと!人気お笑い芸人○○と、17歳年下の一般人の女性の方が今月末結婚するとの発表が』

「歳離れすぎキモい」

 再び切り替える。

『……さん、そちらのお天気は?』

『はい!現在の都内は青空が広がっております。気温は23℃ですが、この後お昼頃になりますと、30℃に到達するとの見込みです、暑くなりますね!』

 きゅっと眉を下げて、残念そうな顔を作ったアナウンサーがそう報じた。

「最悪、日焼け止め塗らないと…」

『一日を通して今日は全国的に晴れとの予報ですので、お洗濯日和かと思います。』

 アナウンサーが下に表示されたお洗濯日和!と書かれたテロップを指差す動作をしながら笑顔でそう言ったのち、全国の天気の画面に切り替わったが、麻望は呆れたような顔でそれを見、

「琉晴近郊は16時から18時にかけて局地的な雨、予報を信じて布団なんて干してたらビッショビショだわ」

 と独り呟くのだった。


 白和泉麻望にはちょっとした能力がある。それは天気を察知する能力で、ふとした瞬間に虫の知らせのように「あの日の何時頃雨が降る」といったような情報が脳に突然雪崩れ込んでくるのだという。具体的な言葉で啓示が降るわけではなく、さながらこれは既視感(デジャヴ)だと気付いた時のように、感覚的に「それはこういうものなのだ」と理解できるものらしい。

 彼女が幼い頃はそれを面白可笑しく、または人の役に立とうと思い周囲に知らせたものだが、実際に当たって気味悪がられるか、そもそも信じられず何を馬鹿なことをと蔑ろにされるかのいずれかだったので、いつしか彼女は他人にそれを伝えなくなった。


 さて、彼女の勘に依れば琉晴学園近郊は予報外れのにわか雨に見舞われるということであるが、彼女はニュースを消してしまうと、

「…ごちそうさまでした」

 食べ終わった食器を片付けて、

「あー忙し忙し…」

 洗面台へと向かっていき、

「……」

 小さく鼻歌を歌いながら器用にメイク―――本当にナチュラルな、主張の少ないもの―――を始めた。その途中で何を思ったか、メイクを済ませてしまうと、なんと傘も持たずに家を飛び出してしまった。


 ―――もうこの力は私のためにしか使わない。この雨でオトコと相合い傘でも何でもして、冬也をあっと言わせてやるわ!


 彼女はこう見えて、まだ昔のオトコのことを引きずっていた。


 --

「おはよう、麻望」

 麻望の家を出てしばらく歩いたところにある交差点で、先程までイヤホンで音楽を聴いていたらしいほっそりとした長身の黒髪の少女が、ひらひらと手を振りながら挨拶した。彼女も麻望と同じように控えめなメイクを施していて、その肌の白さも相俟ってみずみずしい印象を受ける。

「おはよ、琳」

 軽く挨拶して、彼女の隣に並ぶ麻望。

「…待った?」

「別に〜。さっき来たばっかりだし?」

 琳と呼ばれた少女―――中岡琳という―――は腕を組みながら肩をすくめた。

「てか、いつも通りの時間だし。麻望はそういう細かいところに気を遣いすぎ。仮に遅れたから何なのよ〜」

 うーん、と伸びをしながら歩く琳はその気怠げな声で麻望を諭すが、

「…別に」

 当人はふくれてそっぽを向きながらその横を歩く。図星で照れてやんの、わっかりやす〜、と、琳の唇の形が動くが、勿論声など出さない。


 からっと晴れた晴天の下、指定のスカートの丈を分かりやすいほどに詰めた二人の女子が細く長い足で一歩一歩と歩くさまは宛らモデルウォークのようで、青空と住宅街に映えた。勿論モデルなどしていない二人は女子高生として教科書の入ったバッグを背負って登校している訳だが、本人達のあずかり知らぬ所で、そのルックスとスタイルが話題に上っているとか、上っていないとか。


「…ってわけ。麻望は知ってる?黄月さんって生徒のこと」

「知らなかったわ。それは可哀想だったわね」

「同い年の同級生が亡くなったっていうのにえらくドライだねえ」

「自分が知らない人の死で当事者ぶって噂したり泣いたり悲しんだりするのは都合が良い人間のやることよ。去年の冬に亡くなったのに、冬が明けて、春が来て、夏になってもその名前さえ知らなかった。今更アタシにそれを悼む権利なんてない」

「そりゃまあ、一理ある」

「…でも、ショックじゃないって言ったら、嘘になるわ」

「それもそう」

 アスファルトをローファーの踵で蹴りながら、二人は会話を交わす。

 琳は二年A組の生徒だ。当然、D組で過ごしている麻望とは耳に入ってくる情報の種類も異なる。何故急にそんな話に、と問うと、昨日クラスでその話を聞いたからだという答えが返ってきた。教室が三つ隣に移るだけで話題も何もかも異質な世界になってしまうのかと、麻望は短く溜め息をついた。


「最近、冬也、どうしてる?」

 麻望はおもむろに琳に小声で問うた。

「ん?あぁ、六刻くんのことね」

 A組に所属する琳は、冬也と同じ教室で時間を過ごしている。当然、彼の生活ぶりもお目にかかっている。

「普通だよ。毎日ゲームしてるし、毎日碓井知生くん?だっけ、と一緒」

「あぁ、そう」

 琳の報告を受けてふん、と分かりやすいほどに不機嫌になる麻望。心なしか、その歩む速度も少しずつ速くなってゆく。

「ほら麻望、早足だとアタシが追いつけないでしょ〜。元陸上部ぅ〜」

 そんな琳の声をよそに、麻望はずんずんと先へ歩いていってしまうのだった。

「あはっ、相変わらずああいう陰のある人が好きなんだねえ」

 揶揄うような口調で、琳は独りくつくつと笑う。


 --

 切に願っても、叶わないことは多々ある。

 恋の成就も、予報外れの雨が早まることも勿論叶わなくて。

 全ては目に見えぬ運命のままに動いている。


 端から端まで丁寧に強固に固められた神様のスケジュールに抗えずに、下校時刻の差し迫った白和泉麻望は自分の席で苛立っていた。

 日中何度も何度も携帯端末の画面に表示された現在時刻と睨めっこをしていた彼女だが、その時刻はようやく15時40分を回ろうとしていた。

「……」

 そして時刻を睨んだ後は、窓の外を見遣る。

 つい数分前も同じ景色を見たが、昼までは突き抜けるほど青く澄み渡っていた空を、分厚い黒い雲が覆い始めていた。あれが自分の能力が告げたにわか雨の大元であると、麻望は確信した。

 ―――早く、降りなさいよ…


 無意識のうちに足をたんたんとタイルに打ち付けてしまいながら、頬杖をついてただひたすらに、その時を待っていた。


「おい!外見ろよ!」

 全ての授業を終え、ホームルームを始めるべく担任である杉本を待っていたD組一同であったが、突如降り注いだ予報外れの雨に教室内はてんやわんやになっていた。

「げっ、すっげぇ雨降ってきてるな」

「予報外れてんじゃねぇかよ、これじゃ俺また迅と走れないんだけど〜」

「はいはい分かったって…」

 麻望の意識の片隅で、聞き覚えのある声が聞こえた。黒羽迅と降矢侑斗が嘆いている。

「翔太、今日の計測はどうする?」

「予定通りやるつもりだよ、気をつけながらね。でも…」

 続いて、迅はやってきた赤坂翔太に話しかけたらしい。

「今晩星釣りが出来ないのはなあ。楽しみにしてたのに…」

 分かりやすいほど落ち込んだ声で翔太は答えた。

「気を落とさないでください、赤坂君。雨にも負けず風にも負けず、です」

 このガラスのように透き通った声はかなり特徴的だ。エミリーが翔太を元気づけているらしい。


 ―――仲良しで宜しいこと。ま、アンタ達と馴れ合うつもりはないけれど。


 ごった返す教室の中、周囲とは対照的に腕を組んで静かに黙っている麻望はふん、と鼻を鳴らした。

「俺も一緒に行くよ、……ん、聡子から?」

 観測隊のメンバーに告げかけて、携帯端末を眺めながら迅が零した。メッセージでも届いたのだろうか。

「悪い、俺遅れて行くわ。もしかしたら、行く前に終わっちゃうかもしれない」

「あれれ、なにか用事なの?」

「ああ。ちょっと呼ばれてさ」

 迅は何かの用事で計測に不参加らしい。目を動かして迅の姿を見遣るが、彼は少し怪訝な顔で首を傾げていて、何か考えているような素振りだ。

「悪い!ちょっとばかし遅れたな、ホームルーム始めるぞ。席つけ〜」

 視線を教室の前の方に向けると、担任である杉本がこれから配布するであろうプリント資料の束を持って大股に教室に入ってくるところだった。集まって談笑していた生徒たちも彼の声を聞くなり散開し、各々の席へと戻っていく。

 杉本はにやりと笑って、生徒の方を伺いながら教卓上でプリントの束をトントン、と整えている。

「お前らの考えていることはようっく分かる。雨だろ。顔に書いてあるぜ」

 彼は器用にもそれぞれの机の列にプリントを配布しながら、話を始めた。

「予報は外れるから面白いんだ。予報ってのは、過去のデータの積み重ねから作り出されてる……つまり予報が外れた瞬間が今現在のデータの限界なわけだからな。だが、そこからもう一度データを集め直していくことで、更なる真実へと近づいていく過程を楽しめる」

 よくもまぁ窓の外を見た直後なのに饒舌に語るなぁ、と麻望はぼんやり思った。

 杉本、裕行。ひ、ろ、ゆ、き。少しどころではなく変人だが、顔立ちも整っているし凜々しくて、素敵な男性だ……と、思う。ああいう男性にはきっと、恋人が居るんだろう。仮に居なくたって、たくさんの女の子からモテたりするんだろう。


 ―――はー、彼氏ほしー…


 麻望は、ふーっと、長い長いため息を吐いた。


 --

 ホームルームもやり過ごして、麻望はあからさまに『傘を忘れて困った女の子』を演じるべく、玄関先で雨を凌げる場所に立っていた。

 琉晴学園の玄関を抜けて伸びているコンクリートの道路は、予報外れの雨に打たれていた。こうして開け放されている入り口に立つと、滝のような音を伴いながら雨水が地面に叩きつけられているのがわかる。室内とは喧しさが段違いだ。

 充電残量が少なくなってきた携帯端末を手持ちぶさたといったように弄っていると、多くの生徒が傘を差して下校していく中、男子生徒がおもむろに学生鞄を頭に乗せて大雨の中へと駆け出していった。

「やっば、風邪ひくでしょ…」

 彼女は雨音にかき消される程の小さな声で呟く。

「…あれ?」

 学生鞄。そういえば、自分の鞄はどうしたろう。自分の手元には、今朝家から持ってきたはずの鞄がない。その場所は、すぐに思い当たった。

「うわ、教室に置いてきた…」

 ため息をつきながら、彼女は自分の元居た教室へと戻るべく踵を返した。


 麻望は一段一段、確かめるように階段を上っていく。迅のように二段飛ばしで駆け上がったりなどしない。基本的に白和泉麻望という女は落ち着き払っていて、動作がのんびりしているというよりは、しゃなりしゃなりとしているのだ。

 階段の途中でも、何人かの生徒とすれ違った。彼等は電車に遅れるだの、傘に入れてくれだの、大声でやりとりしながら慌ただしく駆け下りていった。

 下校のピークはとうに過ぎているようで、二階の廊下はにわか雨が止むのを待っている生徒がまばらに歩き回っているだけだった。

 仮に今日の雨で荒れたグラウンドで駆け回ろうものなら、ゆるんだ地面が足跡だらけになり、晴れて乾いた時には表面がボコボコになってしまうのだろう。陸上部も、サッカー部も、グラウンドを使うあらゆる部活が休みになったはずだ。

 窓に大粒の雨が打ち付け、まるで洗車中の車内のようにごうごうと音が鳴り響く廊下をゆっくりと歩く。彼女はD組の前に辿り着くと、引き戸に手を掛けた―――

「それで話って…どうかしたのかよ」

 その時、教室の中から男子生徒の声がした。驚いた麻望は反射的に戸の前から飛び退いてしまう。


 ―――えっ、何、屋内の部活でD組の教室って使ってた…!?


 静まりかえった教室を期待していた彼女だったが、思わぬ他人の気配に自分の心音が耳の近くで聞こえるかと錯覚するほどに狼狽した。

「陸部の話なら、俺…」

「違うの。そうじゃ、なくて」

 応える女子生徒の声がする。陸部とは、陸上部のことだ。女子生徒と喋っているということは、降矢侑斗だろうか。それとも―――

「陸上部としての迅に用事があるんじゃなくて」

 ―――迅!


 陸上部、迅。紛れもなく黒羽迅のことだ。では、その相手は?

「えっ、それってどういうこと」

「ずっと、言ってなかったことがあるの」

「ちょっと待てよ聡子、中学からの付き合いだろ。今更隠し事なんて水くせぇよ」

 軽く笑う迅の声が扉越しに聞こえてくるが、女子生徒―――聡子という名前らしい―――は愛想笑いも返さない。余程真剣な話なのだろう。というか、


 ―――嫌な予感がするし聞かない方が良い気がする…けど続きが気になる…!


 勘でこの後の話の流れを察した麻望は、苦い顔をしながら聞き耳を立てていた。中学の頃からの付き合い。同じ陸上部に属しているくらいだし、余程信頼をおいているに違いない男女の友人。なのに隠し事。もしかしないでも、これは。

 麻望ははらはらしながら、固唾を呑んで見守った。


「……こんな、日だったよね、あの時も」

 扉越しではあるが、聡子は物腰の穏やかそうな女子生徒だった。話し方も少女漫画のヒロインのような、明るくて優しい、花のような女子のそれ。麻望は、絵に描いたような可愛らしい女子生徒を想像する。

「中学の頃。今日みたいににわか雨に降られた時」

「…何の、話だ?」

「迅は覚えてないのかも知れないけれど、あの日…傘、貸してくれたじゃない?自分はダッシュで帰るから心配するな、って」

「そんなことあったっけ?」

「へへ…迅っていつもそうだよね。そういうこと、すぐに忘れちゃう」

 あのね、と聡子は続ける。

 麻望は当事者でもないのに、緊張で滑るほど手汗をかいていた。

「急かも知れないけれど、私」

 麻望はごくり、と息を呑む。

「あの時から、迅の事が、……ずっと好きだったの」


 き、き、き、き………

 来たぁ―――!


 心の中で、麻望はのたうち回っていた。

 こ、告白の瞬間よ!どうするの、アタシ!これで答えまで聞いちゃったら大変な事になるわよ!どうするの!

 外見は落ち着き払って、戸の前で携帯端末を弄る普通の女子高校生を演じきる。しかしその携帯端末はとっくに充電が切れてしまって、画面には何も映し出されていない。


「やっぱり急だよね、ごめんね」

 迅よりも先に、聡子の方が口を開いた。

 女の子が思いきって告白してるのに何で答えないのよ!情けないわね、足だけは速いくせに何でこういうときばっかり遅いのよ、駄目な男!と麻望は歯ぎしりを始める。

「いや…驚いた、からさ、そうか…」

 曇ったような迅の声。

「このままだと、ずっと言えなくなる気がしたから」

「……俺がこのままずっと陸部に戻らないから、ってこと?」

「そう…ね」

「……」

 そうだ。迅は今、本業である陸上部での活動から退いているのだ。天候観測隊でも教室でも毎日のように姿を見かけるので忘れかけていたが、聡子の言葉で彼の事情を思い出した。迅は聡子を待たせている―――陸上部員としても、想い人としても。

「陸部の事は、悪かったよ。まだ…」

「戻る決心がつかない。そうだよね、分かってるよ。それを責めるつもりもないの。こうやって迅を呼び出したことだって、私の我が儘だから」

「…うん」

「ごめんね、なんか、気まずくなっちゃって」

「…いや。ありがとう、そんな風に思ってくれてたんだな、気付かなくて悪かった。素直に嬉しいよ」

 でも、と迅が曇った声で続ける。

「多分今の俺じゃ、聡子の気持ちには応えてやれない。今の俺には何にも無いし、陸部で頑張ってる聡子に何も与えられない。足引っ張るだけだって、思う」

 ―――はぁ!?何よそれ…!そんな御託なんて要らないのよ、聡子は寂しがってんのよ、黙って頷きなさいよ!


 力ない返事に怒り狂う麻望だったが、

「大切な仲間なのに、適当な気持ちで応えたら、失礼だろ。結果的にお前の想いを踏みにじってるのかも知れない…けど、例えそれを受け入れたとして、その後のお前の気持ちを尊重してやれないのに黙って頷くなんて、できないよ」

 何かを決したかのような迅の声に、その怒りは呆気なく霧散してしまった。


 そうか。思いやりのない、身勝手な返事をしている訳じゃない。迅にとって聡子は大切な仲間だからこそ、軽々しく頷けない。大切だから、付き合えない。聡子にとっては、なんと残酷な話なんだろう。しかし、迅なりに聡子を守る為の返事なのだ。


 ―――お前の気持ちを尊重してやれないのに黙って頷くなんて、できないよ。


 麻望は唇を噛みしめて、迅のその言葉を反芻した。

「そっ、か」

 震えたような、聡子の声。

「迅てさ、陸部に来なくなってから変わっちゃったのかと思ってたけど、やっぱり相変わらずだね。芯が強くて」

「そう…なのかな」

 曖昧な、迅の返事。

「今日それが確かめられただけでも良かったよ。私の我が儘でこんなこと言っておいてだけど、みんなはいつでも迅が戻ってこられるように、頑張ってるよ。だから、もしも決心がついたなら、いつでも戻っておいで」

「…おう。こっちこそ、聡子にばっかり迷惑と心配かけてごめんな」

「私より、侑斗の方が心配してると思うな。面倒な人だけど、優しくしてあげてね」

「それは…そうかも知れない。分かった。本当、多方面に申し訳ない」

「そういうセンシブルなところも含めて迅なんだからさ、良いんだよ、迷惑かけても」

「…ありがとう、本当に」

 なんて、良い子なんだろう。もしも自分が迅だったら、身に余る程の思いやりだ…と、麻望は思った。それ程、四年間かけて中学時代から積んできたお互いの信頼が厚いものなのだろう。では、自分は?冬也としてきた付き合いなど、たった数ヶ月だ。お互いの間に、何も積んでなどいない。

 麻望は、その場に立ち尽くすしかなかった。

「じゃあ、私、先に帰るね」

 思わずえっ、と間抜けな声が出た。聡子が教室から出てきてしまう。麻望は慌ててD組から後ずさるようにして遠ざかるが、しばらく立ったままでいたせいか、足が固まってしまったかのように上手く動かせない。

「っあ…」

 その結果、開いた戸の向こうから姿を現した聡子と目が合ってしまう。

 聡子は、運動部ですと自己紹介されないまでも分かるほどに髪を短く切った、ぱっちりとした目の持ち主だった。きっと普段は快活なのだろうが、振られた直後だからだろうか、少し伏し目がちに麻望をみとめると、微笑みながら軽い会釈をしたのち階段の方へと歩いていってしまった。

「……」

 少し間をおいて、何事もなかったかのように教室へと歩を進める麻望。当然、そこには黒羽迅が居るわけで。

「…お、おう、麻望じゃんか。どうかしたの?」

 当然、気まずい雰囲気が苦手な彼は、ぎこちない笑顔を作りながら話しかけてくるわけで。

「別に。忘れ物したから、今戻ってきただけよ。学生鞄忘れたの」

 なるべく平静を装って、そう冷たく返す。

「しかし、すっげぇ雨だよな。止むのか?これ」

「…18時までは止まないわよ」

「へぇ、そうなんだ?」

 教室の前の壁に掛けられた、アナログ時計を見遣りながら迅が返した。時刻は、17時になろうかというところだ。ホームルームは16時に終わっているのに、そんな時間に忘れ物を取りに帰るなんてあからさまに不自然である。しかし黒羽迅という男は本当に鈍いのだろう、何の不信感もなく受け答えをしている。多分、そういう真っ直ぐに人を信じるところを聡子も買っていた―――いや、想っていたのだろう。

「アンタこそどうかしたわけ?こんな時間に、こんな所で」

 ボロを出すのだろうか、と好奇心に任せて探りを入れてみる。やはり迅は苦い顔でうーんと唸ったが、

「ちょっと人と話してた。長話になっちゃって、結局この時間だよ」

 と応えるに留まり、軽く笑うだけだった。


 嘘をつくのが苦手なはずの彼は、ぎこちないながらも真実をうやむやにした。聡子のことを悟られないようにする為だろう。目の前にいるこの男は、余程聡子のことが大切なのだ。麻望はそう思い当たって、何故だろうか、胸の辺りがなにかつっかえたような感覚を覚えた。

「とっとと帰るかぁ」

 迅が荷物を纏め、麻望の横に立つ。何のつもりだ、と言わんばかりに麻望が怪訝な顔をしていると、

「何してんだよ、帰ろうぜ?」

 迅はそう持ちかけたのだった。


 --

 一緒に帰ろうなどと持ちかけておいて、ただでさえ短い共通の通り道である二階の廊下ですら、二人が会話を交わすことはなかった。迅は何も入っていないような薄さに凹んだエナメルバッグを肩から掛けていて、羽織っているジャージに手を突っ込んで黙々と歩みを進めるだけだった。

「よく飽きずに降るよなぁ」

 雨の打ち付ける窓に向かってぼやく迅。会話の内容に困ったのか、雨の話しかしない。

「こんな天気じゃ、電車とかも止まってんのかな」

「あの路線、そんなにヤワじゃないわよ。多少遅れてるかも知れないけれど」

「そうだと良いけどな」

 ぺた、ぺた、と足並みの揃わないお互いの上履きの音が、ごうごうという雨の音に混じって廊下に響く。やがて二人の足取りは階段へと差し掛かる。

「麻望ってさ、ここから何で帰ってるんだ?」

「…徒歩」

「そうか。俺は自転車」

「アンタの交通手段なんか聞いてないわよ」

「すいません…」

 たん、たん、たん、と、ゆっくり階段を下る。少し前に慌ただしく階段を駆け下りていたような生徒の姿はもうない。そこからしばらく二人の会話は途切れ、やがて呆気なく先程まで待ちぼうけをしていた下駄箱に辿り着いた。

「こんな中帰るの嫌だなぁ〜…」

 靴を履きながら、迅がぼやく。その手には、折りたたみ傘が握られていた。

 麻望も黙って迅の横に並び、軒先まで出て行く。

「じゃあ、またな」

「うん」

 迅は傘を差してその場を立ち去ろうとするが、麻望は腕を組んで、その場に立っているだけだった。傘を持っていないので当然である。どうしたの、と迅。

「…もしかして傘ない、とか?」

「…そうですけど」

 俯いたままの麻望を覗き込むようにして迅は問うた。それから、激しい雨の降り注ぐ外の風景を見遣り、

「じゃあほら、使えよ、これ」

 何のためらいもなく自分の傘を寄越した。麻望は弾かれたように顔を上げたが、

「気にすんなって。俺の足ならダッシュで帰ればこんな雨問題なし!ってな!」

 彼は屈託のない笑顔で白い歯を見せながら、親指を立てる。

「明日返してくれれば良いからさ。じゃあな!気を付けて帰れよ!」

 麻望が断ろうとするのも聞かず、迅はそう告げると大雨の中へ駆け出していった。確かに彼の言うとおり、その速さはとんでもないものだった。ほとばしる水たまりの泥水にも構わず、青いジャージの彼は閃光のように目映く駆け抜けていく。雨の煙の中へ彼の後ろ姿が消えてしまうまで、麻望はその光景に見惚れていた。そうしてふと自分の手を見ると、迅の折りたたみ傘が握られていた。でも、これではまるで、聡子の立場と同じではないか―――


「バッ、バカじゃないの!何なのよ、それ!」

 ふるふると頭を振って先刻耳にした甘ったるい台詞を追い出してしまうと、麻望は傘を開いて雨の中へ繰り出していくのだった。

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