第12話 冴え冴えとした月の下、城壁で

 レンティは初めて知った。

 過ぎた怒りとは、こんなにも冷たく、硬く、鋭いものだったのか。


 冒険者ギルドで話を聞いたとき、もちろん怒りは感じた。

 それは、誰しもが想像する『憤怒』そのもの。


 だが、レンティの『憤怒』は一瞬にして冷え切った。

 沸々と赤く焼けていたものは、熱を失い、冷え切って黒く凝固した。


 そしてそれはひび割れて、剣の切っ先のような鋭い断面を晒したのだ。

 まるで黒曜石の刃のように。


「――レオンさん」


 かすかに開いたままの唇から、何の感情も乗らない声で、その名が紡ぎ出される。

 遠くから、ザワつく人々の声が聞こえる。


 しかし、それは実際は、彼女の周囲で起きている人々のどよめきだ。

 レンティは往来を歩いている。

 ただそれだけのことでパルレンタの市民達は驚き、おののき、半恐慌に陥った。


 渦中のレンティにとっては、それは遠い場所での騒ぎでしかない。

 そんなものを気にするだけの余裕、彼女に残っているはずがないのだ。


 レンティは歩く。

 パルレンタ市の往来を、迷いのない足取りで歩く。


 思考はほとんど停止している。

 頭と胸を満たすのは、黒く凝固した冷たい刃のような感情だけ。


 一向に熱を放たないそれは、果たして怒りと呼ぶことができるのだろうか。

 そんな、詮無いコトを考えたりもした。


 考えるべき疑問は幾つもあった。

 いきなりザンテが自白した理由もわからない。


 いつもは高慢で居丈高な彼が、ひどく殊勝だったのも気になる。

 あれはまるで、目前にある死の恐怖に屈しているかのようでもあった。


 ああ、だけどもどうでもいい。

 あの男の話は全て事実だということに比べれば、取るに足らないことだ。


 ザンテの話は嘘ではない。

 それは、あの男が放っていた蒼い光が物語っていた。


 ララテアの『虚偽報呪』の魔法は、対象の精神の奥深くにある真実を露わにする。

 あくまでも『対象が真実だと思っていること』であるので、完璧ではない。


 場合によっては『偽りを信じこまされていること』何かもありうる。

 しかし、今回についてはザンテ自身が自分とリアンを騙した側であった。


 ザンテの自白は、全て事実だったと見るべきだ。

 自分は、そしてリアンは、レオンと結託したあの男に偽りの情報を握らされた。


 そのあとレオンが自分にしたことなど、レンティは気にも留めていなかった。

 レオンとザンテがリアンを騙した。

 その事実の重大さ比べれば、それこそ羽毛よりも軽い。


「……どうして、どうしてだよ」


 呟きながら、レンティは歩みを進める。

 辺りに恐怖を撒き散らしながら、それに気づかず彼女は大通りを抜けていった。


 そのまま歩き続けて、月がさらに高くなった頃、彼女は目的の場所に到着する。

 そこは、壁だった。パルレンタの内と外とを区切る、分厚い城壁だ。


 長い歴史を持つこの街には、二つの城壁がある。

 街が大きくなかった頃に建設された旧城壁と、十数年前に建てられた新城壁。


 レンティがやってきたのはそのうちの旧城壁だった。

 第一区の市街部を囲んでいるこの壁は、しかし、現在はほとんど使われていない。


 街を守る役割を負った騎士団や兵団が詰めているのは、新城壁の方だ。

 一応、兵士の巡回路には入ってはいるが、こちらは基本的に閉鎖されている。


 ――『勇者』レオンは、ここにいる。


 かつて、リアンから聞いたことがあった。

 彼女と兄の、秘密の剣の練習場。


 騎士の家の出であった兄妹は、亡き父からその場所のことを教わっていたという。

 旧城壁の一角、人目にはつきにくいその場所に、大きな亀裂が入っている。


 そこから、閉鎖されている旧城壁の中に入ることができるらしい。

 旧城壁はちょっとした城塞となっており、最上階まで行けば壁の上に出られる。


 リアンとレオンは、幼い頃から邪魔が入らないそこでの鍛錬を日課としていた。

 ならば、いるはずだ。冒険者ギルドにいなかった彼が、ここに。


 レンティは、かつてリアンに教わった通りに城壁の裏に回る。

 するとほぼ全方位から死角になっている場所に、人が通れる大きな亀裂があった。


 立ち止まることなく、中へ。

 するとすぐ目の前に飾り気のない螺旋階段があり、レンティは上を目指した。


 小さな窓から入る月明りだけを頼りに、一段一段踏みしめながら、上へ。上へ。

 心は冷たく、頭も冷たく、だがに握り締めた拳だけはやたらと熱を持って。


「……どうしてだ、レオンさん」


 漏れる呟き。

 彼は、リアンのことを大事にしていると思っていた。


 だから、ことあるごとにリアンを見捨てた自分を責めるのだと、そう捉えていた。

 構わなかった。それで一向に構わなかった。


 恥ずかしいことだが、レオンに責められることで罰を受けている気分になれた。

 自分で死を選べないレンティにとって、それはありがたいことだった。


 なのにザンテが告げた真実は、レンティの認識とはまるで逆だった。

 レオンにとってリアンは邪魔だった? たった一人の妹が? 同じ冒険者の妹が?


 そんなはずはないと、レンティは思いたかった。

 何かの間違いだと思いたかった。

 だが、それならばザンテの自白は何だ。あの、真実の蒼に染まった、彼の自白は。


 重々しい闇の中、カツンカツンと階段を上がる音がする。

 窓から吹き込む風が少しだけ強くなり、レンティの金髪のポニーテールを揺らす。


 やがて、階段の果てが見えた。

 闇の中に四角く切り取られた星空が見えている。


 レンティはそれが見えた時点で一瞬立ち止まった。

 だが、息を一度飲み込んで、すぐにまた階段を上がり始める。


 階段もいよいよ終わりに近づくと、何かが鋭く空を切る音が耳をかすめた。

 いる。間違いなくいる。聞こえたのは、剣の素振りの音だ。


「……レオンさん」


 城壁の上に出たレンティが、月の下で素振りをしている彼を呼ぶ。

 すると、上半身裸で汗まみれになっている彼が、素振りをやめて振り向いた。


「レンティか」


 彼女の姿を認めた『勇者』は、ニコリともせずに言ってくる。

 普段は誰に対しても穏やかに笑って話すレオンだが、レンティにはいつも冷淡だ。


「どうしてここに? ……ああ、リアンに聞いていたのか」

「ええ、まぁ」

「そうか。それで何か用かな?」


 互いに平坦な声での、形ばかりの会話。

 レンティは、それを堪えることができずに単刀直入に切り出す。


「ザンテが、全部話しましたよ」

「ん? ギルド長が?」


「ええ」

「彼が、君に何を話したというんだ?」


「だから、全部です」

「だから、全部とは?」


 ギヂリと音がした。

 それはレンティが血が出るほどの強さで奥歯を噛み締めた音だ。


「全部と言ったら、全部だッッ!」


 冴え冴えとした月の下、城壁でレンティが腹の底から吼え猛る。


「おまえとザンテが手を組んで『試練』でわたしとリアンをハメたことも! リアンを貶めるような噂を流したことも! これまでわたしが助けてきた人達を、ガゥドとジョエルを使って始末してきたことも! 全部、全部だ!」

「――――」


 一気呵成にまくし立てるレンティに、レオンはほんのかすかに目を見開く。

 そして、抜き身の長剣を右手に握ったままで、自分を睨む彼女へ、無表情のまま、


「そうか」


 と、だけ返した。


「話してしまったのか、彼は」


 表情はなく、しかし言葉の上では認めてしまうレオンに、レンティはさらに問う。


「……否定、しないんだな」

「ああ、ザンテさんの性格を考えればわかることだよ」


 人形めいた無機質さを漂わせながら、レオンはそんなことを言う。


「彼は保身と出世のためなら何でもする男だ。その彼が、自ら罪を白状した。ということは、そうせざるを得ない状態だったんだろう。なら、言い逃れできない状況に自らを置いて、君に教えたはずだ。大方『虚偽報呪』でも使ったんじゃないかな?」


 当たりである。

 レオンのザンテに対する人物評も、そこから来る推測も、見事に的中していた。


「だったら、僕がここで否定したって、それは無意味だ」

「じゃあ、おまえは本当に、リアンとわたしを……ッ」


 さらに強く奥歯を軋ませるレンティを見つめ、レオンはやっと表情を浮かべる。


「ああ、僕がザンテさんに提案したことだよ」


 優しい笑顔で、優しい声だった。まさしく皆が頼りにする『勇者』の顔だ。


「どうして、そんなことを?」

「君とリアンが邪魔だったからだよ。僕は『勇者』になりたかったんだ」


 レオンは『勇者』の顔のままでレンティにそれを明かす。

 当時、先にAランクに到達したのはリアンだった。レオンは後れをとっていた。


「『勇者』になりたいから? だから、わたし達を騙したのか?」

「ああ、そうだよ」


「どうして? そんなことしなくても、おまえは『勇者』になれてただろ!」

「なれていただろうね。リアンよりも後に、だけど」


「それじゃあ、ダメだっていうのかよ!」

「当然だろう? 僕がリアンより劣ることになるじゃないか。それはダメだよ」


 レオンは応じる。うなずく。優しい顔のままで、優しい声のままで。

 それがレンティには信じられない。


「リアンは、おまえのことをいつも自慢できる兄貴だって言ってたんだぞ!?」

「あの子は純粋だったからね。人の悪意を知らない。だから、ちょっとした演技を見破ることもできない、愚かな妹だったよ。今日までの君のようにね、レンティ」

「……おまえッ!」


 言われて、レンティはレオンを厳しく睨みつける。

 レオンの表情は穏やかで、声も人々に向けるものと同じくあたたかいものだった。


 しかし違う。これは違う。

 レオンの態度の奥にいつもは感じられない何かがある。黒々と蟠る醜悪な何かが。


「しかし、ザンテさんは何があったんだろう。彼がそこまで追いつめられるなんて」

「何だ、その言い草。他人事みたいに……!」


「他人事さ。別に彼がいなくても、僕が『勇者』である事実に変わりはない」

「ザンテはみんなの前で白状したんだぞ。おまえがやったことだって、みんな知ってる。言い逃れなんてできると思うな、レオンッ!」


「ああ、そうなのかい? それならそれで、やりようはあるさ」

「……何だよ、おまえのその反応は?」


 まるで平然とした様子で肩をすくめるレオンに、レンティは半ば唖然となる。

 ザンテと同じく自分も追いつめられているはずの状況で、何故そんな風に笑える。


「僕はね、レンティ――」


 レオンが、笑みを変える。

 優しげだった微笑が、突如としてカエルのバケモノみたいな歪んだ笑みになる。


 豹変。

 まさにそれは豹変だった。


「僕は『勇者』なんだよ、レンティ」


 声だけは『勇者』のままで、彼は自らを誇って胸を張る。


「過去にどんな罪があろうとも、僕はAランクに到達した冒険者で、ギルドが定める『試練』をクリアして王家から認可を得た『勇者』だ。君達を陥れたのと同様に、僕という人間が『勇者』になったのも、まぎれもない事実なんだよ」

「ふざけるな」


 朗々と語るレオンを、レンティは氷の如き声で切って捨てる。


「何が『試練』をクリアして、だ。その『試練』は元々わたしとリアンが受けたものだ。おまえが倒したのは、リアンとの戦いで深手を負ったボスだろうが!」

「そうとも」


 レオンは、いともあっさりそれを認める。


「けれど、だから何だっていうんだい? 君の言うことは当たっているが、それでもボスモンスターを倒したのは僕だ。『試練』をクリアしたのは僕だ。僕なんだよ」

「……おまえは、わたし達を踏み台にしただけだッ!」


 握る拳には痛みが走って、噛み締めた奥歯には血の味。

 レンティの心の中、黒曜石の刃が再び熱をもってマグマに変わろうとする。


「フフ、フフフフ――」


 しかし、そんな彼女をレオンは笑う。嗤う。


「何がおかしい!」

「いや、笑いもするさ。突然やってきて何かと思えば、今さらリアンのことなんてね。僕にとっては終わった話だ。君にとっては違うのかもしれないけどね」


 終わった話。

 嘲りに満ちたその一言が、再燃しつつあった彼女の怒りをいよいよ爆発に導く。


「これが終わった話なら、おまえがわたしにしてるコトは何だ! わざわざリアンの名誉を傷つけるような噂を流してわたしを挑発して、何が終わった話だ!」

「そこで出てくるのが『リアンの名誉を傷つけるような』、か……。君は本当にリアンのことが大好きだね、レンティ。あんな不肖の妹の何がいいのやら」


 がなり立てるレンティに、しかしレオンの余裕は崩れない。

 それどころか、リアンに固執する彼女を見て、一層おかしげにクツクツと笑う。


「おまえが――」


 レンティは全身をわななかせて、レオンに怒りを叩きつける。


「おまえがリアンを語るなッ! おまえみたいなヤツに、リアンのことがわかってたまるか! おまえなんかが、おまえみたいなクソ野郎が……ッ!」


 腹の底から噴き上がる怒りが全身の隅々にまで行き渡っていくのを感じる。

 灼熱。憤怒。憤激。熱烈。ボコボコと煮え立った血が血管を破ってしまいそうだ。

 それだというのにレオンは――、言う。


「僕には、わかるさ」

「……何だと?」


「わかるんだよ。僕には、リアンのことがわかるんだ」

「おまえ、何を言って……?」


「何故なら、僕の中にはリアンがいるんだよ」

「…………は?」


 そのレオンの一言に、レンティは一瞬、怒りを忘れた。

 右手に長剣を携えたまま、レオンは左手を胸に当て濁った瞳を線のように細める。


「僕にとって、邪魔者はリアンだけだった。君はどうでもいい存在だったんだよ。でもね、僕の中のリアンが言うんだ。『レンティに自分を忘れないでほしい』とね」

「な、何だよ、それ……」


 いきなり、レオンが奇妙なことを言い出す。

 レンティをからかってる。――ワケではない。彼の声は、至極真面目だ。


「確かに僕はリアンを貶める噂を流した。そしてそのあとで、暴行事件を起こした君の冒険者復帰を手助けして、君が助けた奴隷の始末もしたね。意味不明だろう? 支離滅裂だよね? でもそれも僕の中のリアンが僕にやらせたことなんだよ」

「やめろ、そんなワケないだろ。それ以上、変なことを言うな……ッ!」


 命令するような物言いで、レンティはレオンに懇願する。

 しかし、『勇者』は語り続ける。


「君の中にあるのは、所詮美化された『君にとっての勇者』であるリアンだよ、レンティ。それは本物のリアンじゃない。あの子の実態には程遠い、ただの虚像だ」

「やめろ、やめろ……ッ!」


 レンティは激しくかぶりを振り続ける。

 これは揺さぶりだ。レオンはこうやって、自分をいたぶっているだけだ。


 聞いちゃダメだ。

 そう思っていながらも、彼の声が耳を通して意識を蝕んでくる。


「君はそうやって自分の中に作り出した虚像を追いかけて、あの子のマネをすることでしか自分を保てない、哀れな道化だ。でも僕の中のレンティもそれを望んでいる」

「うるさい! おまえなんか、おまえなんかが……ッ!」


 彼は左手をスッと差し伸べる。そして、嘲弄。


「ねぇ、レンティ。君は、自分で思っているほど、あの子を理解できてるのかな?」


 そこが、限界。


「おまえなんかが、知った風にリアンを語るなァ――――ッッ!」


 レンティが、鞘から引き抜いた長剣を手に、レオンへと斬りかかった。

 今は使われていない城壁で、『勇者』と『場違い』の戦いが始まる。

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