第13話
翌朝、俺は弥勒亭で大きな水槽を移動するとかで手伝いに出払っていた。弥勒と親父さん、それから俺で水槽を持ち上げ、店の一番目立つところへ配置する。なんでも俺がとってくるヤマメやイワナをここで泳がせて、客の目の前でとって焼いてやるという出し物をするらしい。
確かに「今まで生きていた魚」を調理してくれるとなると新鮮さが伝わってうまく感じるというものだ。
「おぉ、すげぇ」
「やっぱ、にいちゃんの捕まえてくる魚は太ってていいなァ」
大将は腕を組んで、うんうんと頷くと満足げに水槽をバシンと叩いた。水槽の中には数匹の魚が泳いでいる。
弥勒と俺は焼いたあたりめを咥えながら作業を終えた汗を拭き、キンキンに冷えた緑茶を飲んでいた。
「お、怖いねぇ」
大将は店内の端っこにある箱、テレビをつけると中身に写っている動画を見て唸った。
<東京都 新宿区マンション 女性殺人事件 元交際相手の男性連絡つかず>
上空から映しているのか、とてもでかい建物が映されている。街中でも江戸……東京は異次元にハイカラらしい。今度彼岸にお願いして東京に行ってみようか。いや、行きたいなぁ。
そうそう、東京の方には王子稲荷がある。まだ俺が森に住み着く前の狐だった頃、年の終わりに狐仲間たちと一緒に王子稲荷まで歩いたものだ。各地の狐たちとそこで飲み明かし、狐の面をした人間たちと一緒に夜道を練り歩いたものだ。
あそこで食べる出店の食い物が美味かったのをよく覚えている。あの稲荷神社はまだあるだろうか。
「痴話喧嘩っすかねぇ」
「だな、この子もかわいそうに。ロリータ殺人事件だなんて、囃し立てられてよぉ」
ロリータという言葉に馴染みはないが変わった女だったのだろうか。俺は気になってテレビを眺める。
「あっ……」
俺は被害者として映し出された女に見覚えがあった。目の周りを黒く塗って、人形が着るようなヒラヒラした頭巾をかぶっている。不健康そうにやつれた頬に、これまたヒラヒラした服。
<都内在住 職業不詳の女性 浅岡やよいさん21歳は自宅マンションで刃物で滅多刺しされた状態で発見されました。事情を知るとみられる元交際相手の男、
やよいの次に映し出された男は、俺がやよいの記憶の中でみた「みっくん」という男だった。
「尾崎さん? どうしたっすか?」
「弥勒、悪い。ちょっと、帰るわ」
俺は嫌な予感がして弥勒亭を急いで出た。弥勒が送ろうかとかどうしたとか心配する声が聞こえたが今は構っている暇はない。
逃げ水が見えるほど暑い中、俺は弥勒亭から彼岸堂まで急いで走った。草履の隙間から熱々のじゃりが入ってきて痛かったが気にしていられない。
なんとも言えない胸のザワザワ、嫌な予感が俺の頭いっぱいによぎる。彼岸堂が見えてきた。開けっ放しの玄関、やっぱりだ。彼岸堂の中には人の気配が二人、どうする? そうだ、この際でかいクマかなんかに化けて……。
「やよいはここで何を話した! 俺は、俺は!」
ぎゃんぎゃんと騒ぐ男は刃物を振り回し、奥に座っている彼岸を威嚇する。彼岸の方はと言えば、落ち着き払って座っていて、なんなら茶を飲んでいた。
「あら、尾崎。早かったわね」
「彼岸!」
男は俺の方に振り返るとブンブンと小さな包丁を振り回した。男はやよいの記憶の中でみた「みっくん」だと思う。記憶の中ではもっといい男だったし、髪や服も乱れていなかった。今のこいつはどうだろうか。目の下には真っ黒なクマがあり、髭も生え、服は土で汚れていた。結構いい男のはずが見る影もない。
「クソ、男がいたか……いいか! ちょっとでも動いたらこの女を殺す!」
俺が動く前に男は彼岸に包丁を突きつけた。
「やめろ!」
焦る俺とは対照的に彼岸は薄笑いを浮かべたままだ。本当にこの女は……。彼岸の余裕の構えに男は発狂する。大声を上げてぎゃあぎゃあとなんだかわからない言葉を喚く。
「尾崎、お客様よ」
「彼岸、お前まで何言ってるんだよ」
「ねぇ、三橋さん」
突然名前を呼ばれて三橋は動きを止める。彼岸は怪しい光を携えた紅色の瞳で三橋をじっと見つめる。
「なんだよ……」
「あなたはここに死の相談をしにきた。違うかしら?」
三橋は彼岸の瞳に吸い込まれてでもいるように大人しくなった。
「なんだよ、それ」
「あなたは、やよいさんがここにきたことを知ったからやってきたのではなくて?」
三橋はドスンと腰を下ろした。
「あぁ、そうだよ。やよいが言ってたんだ。樹海のそばの彼岸堂で洗いざらい話して、だからもう俺とは関係を切るってさ。それってここのことだろう?」
「えぇ、確かにやよいさんは先日ここへきて<死の相談>をしたわ。尾崎、お客様を応接室に案内して。それから、冷たいお茶を」
俺はだらんと垂れた三橋の手から包丁を奪い取る。
「なにすんだよ!」
「こんな物騒なもん、俺の主人に向けんじゃねぇ。客だろうとそれはゆるさねぇぞ」
俺はぐっと妖術で包丁を曲げ見せると三橋は怯えた様子で頷いた。
「こっちだ、どうぞ」
彼岸の希望通り俺は三橋を連れて応接室へ向かう。リビングがこのバカ男のせいでぐじゃぐじゃだ。あとで片づけなければ。彼岸はどこまで気がついているのだろうか。俺はテレビを見ていたから知っているが彼岸堂にテレビはない。この男はやよいを殺した殺人犯かもしれないのだ。
冷たい緑茶を用意して、彼岸がソファーに座るのを待った。三橋は喉が渇いていたのかぐっと一気にお茶を飲み干してしまった。
「お待たせしました。では、始めましょうか。三橋さん、あなたはどんな死の相談を?」
「やよいは……ここで何を話したんだよ」
「やよいさんは、あなたに別れを告げられて<自死>をしたいとここへやってきました。ですが、話しているうちに考えをあらためて生きる選択をしてここを出て行きました。それが数日前ね」
三橋は彼岸をじっと睨んだ後、ため息を吐いた。
「余計なこと、しやがって」
「余計なこと? あなたはやよいさんに死んで欲しかったのかしら?」
「違う!」
三橋は不安定なのか突然大きな声を出した。やめてほしい。
「違うのね。じゃあ、話してくれるかしら」
「なんで話さなきゃなんねぇんだ。俺はお前たちがやよいと俺の関係性を、知っているかもしれないから口封じに来たってんだ」
なるほど、ではテレビで言っていた通り三橋はやよいを刺し殺したのか。そして、やよいが何か肝心なことを俺たちに話したかもしれないと思って俺たちを殺しにきたってわけだ。
「彼岸、やよいは死んだ。さっきテレビでやってた。こいつは逃げてる殺人犯だ」
俺の言葉に三橋は顔を真っ赤にして憤怒した。一方で、彼岸は楽しそうにコロコロと笑う。彼岸があまりにも楽しそうなので三橋も怒りの矛先を失ったようだった。
「まぁ、私、殺人犯さんの死の相談を受けるのは初めてだわ」
異様な雰囲気に呆れる俺、呆然とする三橋。
「なんだよ、俺は死の相談なんかしねぇって」
「あら、私たちは口封じに殺されてしまうのでしょう? なら、話してくれたっていいじゃない。それに、あなたの後ろにいるやよいさんもそうしてほしいみたい」
俺は彼岸の言葉でやっと気がついたが、三橋の肩口にうっすらと影が見えた。幽霊となったやよいがいるらしい。ただ、霊力が弱すぎてほとんど影になってしまっているが……集中してみると確かにそれがやよいであることがわかった。
「そういえば……肩が重かったような」
三橋の声が震える。しかし、三橋にやよいの影は見えていないようだった。おそらく、これは三橋がやよいに執着しているとかいないとか関係なくやよいの幽霊が弱すぎるせいだろう。
「あなたも、話しておいた方が気が楽になるわよ。やよいさんを成仏させてあげたいでしょう」
三橋はトンと机の上に力なく両手をおいた。あまりにも彼岸が怖がらないので威嚇するのもバカらしくなってしまったようだった。俺は、水差しから新しいお茶を三橋のグラスに注いだ。
「じゃあいいや、お前らの冥土の土産に話してやるよ。あいつの最期をさ」
やよいの部屋。三橋が玄関を開けるとやよいは部屋の中をきれいに片付けていた。茶色い紙の箱の中に乱雑に詰め込まれた男用の服、それから二人で写った写真などはゴミ袋の中に突っ込まれていた。
「やよい?」
「あぁ、みっくん。みっくんの荷物、纏めちゃおうと思ってさ」
やよいは俺が知っている化粧ではなく、質素で普通の女だった。服装も動きやすそうな服で、まるで別人のようだった。俺としては前の服よりもこっちの方が断然良い気がするが。
記憶の中の三橋の心は<焦り><不安>が入り混じっている。おそらくこの記憶の数日前のやよいの記憶では三橋はやよいに別れを告げていたはずだが……。
「なんで荷物、まとめるんだよ」
「だって、みっくん。私と別れたいんでしょ?」
「やよいは別れたくないって言ってたろ?」
三橋は笑顔を作ってやよいに近寄る。やよいの両肩に優しく触れて口吸いをしようとするがやよいはそれを手で払い除けた。
「やめてよ。私ね、決めたの」
「決めたって何を?」
「今までは……みっくんの夢を応援するために生きていたけど、これからは私は私のために生きようと思うの」
やよいはそういうと部屋の端っこにある小さな箪笥から書類を取り出した。書類には<賃貸借契約 解約手続き>とかかれていて、やよいのハンコが押してあった。退去日は8月3日。1週間後だ。
「なんだよ、退去って」
「私ね、小さい頃から夢だった服飾の専門学校に行こうかなと思って実家に帰ることにしたんだ」
やよいはすっきりした表情で三橋にいった。
「もう、誰かのために体を売って、不安定になるのは嫌なんだ。みっくんも、ごめんね。私、ウザかったよね」
一方で三橋の心の中は<焦り>でいっぱいになっていた。三橋はあんなにやよいと別れたがっていたのにどうして焦っているんだ? 三橋はじんわりと冷や汗をかき、今度は膝から崩れ落ちた。
「やよい、この前は悪かった。俺が悪かったから……別れないでくれ」
三橋はやよい細い足に縋り付くと頭を下げた。額が床にくっつくまで頭を下げて、やよいがどうにか自分と復縁してくれないかと深く願っていた。しかし、やよいの気持ちは変わらない。
「ごめんね。でもバーテンダーのみっくんにはたくさん女の子がいるじゃん。私もそのうちの一人だったのSNSで見てたから知ってるよ。これからはその子たちに養ってもらってね」
やよいは優しく三橋の手を足から振り払うと部屋の片付けを続ける。
「やよい、俺はお前がいないと生きていけないから、だから許してくれ」
「ねぇ、みっくん。おかしいよ」
「え?」
「私が、体を売ってさみっくんにたくさんお金をあげたよね。このマンションだってすごく高いんだよ。私が汚いおじさんとパパ活して借りてもらったマンション。私、すごく辛くて汚くて嫌だった。でもみっくんはさ私に言ったんだよ」
やよいはため息をついて、冷たい視線を三橋に向けた。
「みっくんは、私にお前重いんだよって」
「それは……」
三橋は何も言い返すことができなかった。口籠もっている間に、やよいは言葉を続ける。
「私、みっくんに振られるくらいなら死ぬって思っていたけど、気がついたんだ。私は私のためにお金を使いたいし、次は私をちゃんと愛して大切にしてくれる人と向き合いたいって」
やよいは三橋に発言させることなく
「だから、みっくん。今までありがとう。さようなら」
その言葉を聞いて、三橋の心は<焦り>から<絶望>に変わった。やよいを失ってしまうことで三橋は絶望したのだ。
「やよいがいなくなったら俺はどこに住めばいんだよ」
「どこかにお部屋を借りるとか?」
「じゃあ、ヤクザにしてる借金は?」
「それは自分で働いて返そうよ」
「無理だ、俺の収入じゃ」
「でも、私が払ってあげる義理もないんだよ」
やよいは正論だけを淡々と三橋に突きつけた。三橋の中の<絶望>は徐々に<怒り>に変わっていく。
「俺が、歌舞伎町でお前を救った。お前は俺がいなかったら今頃、ヤクザたちに売り飛ばされてただろ」
「あの時は、確かにみっくんがいなかったら私、今頃いないかもね。ありがとう。でも、十分もうお金も恩も返せたと思ってるよ」
やよいはもう三橋の方を見てもくれなくなった。三橋に背を向けて、荷物の整理をしていた。二人が写った写真をやよいはパラパラとゴミ袋の中に入れて、思い出のぬいぐるみや雑貨もすべて黒いゴミ袋の中に入れてしまった。
三橋はやり場のない理不尽な怒りを募らせていく。不安が絶望に、絶望は独りよがりで自分勝手な怒りに生まれ変わった。
彼はすっと立ち上がると台所へ向かった。彼岸堂の土間の台所では考えられいくらいハイカラできれいな台所だ。料理上手なやよいの揃えた調味料や料理道具がきれいに並べられている。三橋は棚の中から包丁を取り出した。彼の心にもう迷いはない。包丁を握って、真っ直ぐに片付けを続けているやよいの方へと向かう。
「やよい」
三橋の声は冷静だった。やよいは「何?」とこちらも見ずに答えるが、三橋に後ろから抱きしめられた感覚がしたのか首だけで振り返った。しかし、すぐに違和感を感じて離れようとする。
「み……くん」
「やよい」
三橋はやよいの背中に刺した包丁を引き抜くと、逃げようと四つん這いになったやよいをひっくり返して仰向けにする。やよいは大量の出血でもうほとんど動けずにいた。
「やめて……」
「お前の命を救ったのは俺だ。終わらすのだって俺だ!」
「いや…」
「うるさいっ!」
三橋は包丁を逆手で持つともう抵抗する力も無くなったやよいの腹や胸や首に突き立てた。やよいの体がビクビクと反射で跳ね、馬乗りになっている三橋がそれを抑えるように包丁を突き立てる。人間の油で切れ味を無くした包丁は次第にやよいの体に刺さらなくなり、ぶしゅりぶしゅりと鈍い音を立てた。
やよいが絶命し、部屋の中も三橋自身も血と体液と脂肪でぐじゃぐじゃになっていた。呆然とする三橋、目に入ったのはやよいのスマホだった。
暗証番号は知っている。三橋の誕生日だ。スマホの中にはやよいのメモが残されていた。
<彼岸堂 樹海入り口バス停からすぐ>
<彼岸さんに相談してよかった。前に進もう>
<みっくんのこと、彼岸さんに話してよかった>
三橋の心に再び<焦り>が現れた。もしかしたら、この彼岸という女は全てを知っているかもしれない。死体を処理して。それから、この彼岸堂に言って口封じをしよう。
三橋は狂った冷静になると風呂へと向かった。
「なるほど、ではあなたがやよいさんを?」
「そうだ、殺した」
「お金を払ってくれないから……?」
彼岸の質問に三橋は黙った。なにやら言いたいことがあるらしいが頭の中の整理がついていないようだ。
「俺は、奴隷なんだ」
「奴隷?」
「あぁ、俺はバーテンダーをしてるけど。給料はほとんどもらってないんだ。昔ヤクザの車にぶつかってさ。数億の借金があるんだ。それをヤクザに帰すために、ヤクザのお膝元で女を騙して金を貢がせてた」
つまり、やよいは良い金蔓るだったと言うことだ。やよいは本気でこの男を愛していたが、この男にとってやよいは単なる金のなる木だった。
「じゃあ、殺す必要はなかったんじゃないかしら?」
「それは……」
「だって、もっと良い金蔓るを捕まえればいいだけの話でしょう?」
三橋は俯いた。彼岸の言う通りだ、三橋はいい男だし若い。やよいでなくても別の女を見繕えばいいだけの話なのだ。何も、人を殺さなくたって。
「多分、俺はやよいと一緒にいるのが心地よかったんだと思います。あの時、やよいが俺に振り向いてくれないとわかった時、自分の感情がわからなくなって……。やよいが俺のそばからいなくなるくらいなら殺してやるって思ったんだ」
「愛していたのね」
「そうかもしれない。でも、もう……」
「やよい、ごめんな……」
「よければ、その思いを水に流しましょう」
「水に?」
「えぇ、ここは死の相談屋。死に対するさまざまな思いを私に託してもらって、裏庭で思いを水に流すのよ。そうして人は前に進み、死を乗り越えるの」
「なんだよ、それ」
「ふふふ、私と尾崎を殺して口封じをするのは、その後でも良くてよ。それに……」
「それに?」
彼岸は首をかしげる三橋に
「あなたの後ろにいる、やよいさんを成仏させてあげたいの」
三橋は涙を流し、ぐっと血が出るまで唇を噛んだ。自分勝手な男だ。人を殺しておいて……。
「やよい、いるのか」
「そっちじゃないわ、左肩よ」
三橋は左肩に手を置いた。うっすら、やよいの幽霊が揺れたような気がする。こんな時、やよいはなんて言うのだろうか。三橋を許すのだろうか。
妖力を渡せないくらい朧げなやよいの影は静かに揺れている。三橋の気持ちがわかって喜んでいるのだろうか。
「尾崎」
「こちらです」
俺は三橋を案内し、裏庭へと向かった。
玄関の外に出た時、無数の人間の気配を感じた。おまけに俺の大嫌いな匂いが1、2、3。
「きれいだな」
「えぇ、そうでしょう」
俺は三橋と短い会話を交わす。彼岸はすでに花をぽきっと折るとこちらへ近づいてきていた。
「彼岸花に思いを込めて、小川に流してくださいな」
三橋は彼岸花を両手で受け取るとぐっと目を閉じた。ふわり、三橋の方から形にならない影が離れ、彼岸花へと重なる。
「なんだ……これ」
三橋の手の中の彼岸花がぼんやりと光り出す。濃密な香りが夕方の風に乗って広がっていく。
「さぁ、小川へ」
三橋はしゃがみ込んで両手をそっと小川へと浸けた。彼の手の中から彼岸花はゆったりと浮かび、小川の流れに沿って揺れていく。
彼岸は「最愛」と書かれた半紙を彼岸花の後に水に流した。すると、三橋のまわりを美しい小さな光の粒がぐるぐると漂う。
「やよい、やよいなのか」
光の粒はキラキラと輝いて少しずつ、少しずつ天に登っていく。
「やよい、ごめんな……ごめんな。愛してる、愛してる」
三橋は光の粒を抱きしめるように両手を動かし、涙を流し、膝から崩れ落ちた。夕日が沈み、星が見え始める頃になれば光の粒はすべて天に還っていった。やよいは幸せだったのだろうか。それとも、不幸だったのだろうか。
最後の最後、やよいは大好きな男からの愛を聴いていたのだろうか。
「ウーー」
「ワンワンッ!」
獣の鳴き声、ドカドカと走る音、四方八方から聞こえる大型犬の鳴き声。
「こらっ、ヒカ号! そっちじゃない!」
彼岸花の花畑から飛び出してきた茶色い犬は俺めがけて飛び掛かってきた。咄嗟の判断で左腕を前に出したが、犬は大きな牙を俺の左腕に突き立てる。かなりの大きさの洋犬の勢いに俺はひっくり返って抵抗するも押し負ける。
「話せ! クソ犬!」
「ガルルル!」
「三橋みつる。浅岡やよい殺人容疑で逮捕する!」
遠くの方で男の声が聞こえた。こいつら……お上か! 俺に噛み付いている犬はたまに森にやってくるお上たちが連れている犬だ。デカくて、鼻が効く、やっかいな犬。
「すみません、すみません! ヒカ号、離せ! 離せって!」
弱々しい男が犬の綱を弾きながら俺にぺこぺこと謝る。
「あらあら、本当に尾崎はワンちゃんにモテるわね」
彼岸はそばまで寄ってくるとクスクスと笑った。この女、俺が狐で、狐の天敵が犬であることを知っているらしい。絶対に馬鹿にしてやがる!
三橋が連行された後、おれと彼岸はお上……じゃなくて警察という人たちに、やよいのことや三橋のことを質問された。ほとんど、彼岸が対応をしてくれていたから俺は傷の治療に当たっていたが、自慢の左腕に幾つかの咬み傷がついてしまった。
ヒカ号とかいうバカ犬は俺から離れても唸っていたが、今回は特別に許してやることにした。今後俺に噛み付いたらキュンキュン言っても許してやらないからな。
「そうですか、ご協力ありがとうございました」
俺たちに話を聞いていた警察は「刑事」というちょっと偉い人らしい。高そうなスーツを着て、こまめにメモを取っていた。
「少し、興味本位ですが」
玄関で気取った革靴を履きながら、島松は彼岸に言った。
「死の相談というのはいつから?」
「この家業はそうね、私が20歳くらいのころからかしら」
「危険では?」
「危険かもしれないですし、そうでもないかもしれないわね」
島松は立ち上がるとトントンと靴を鳴らし、彼岸と俺の方へと振り返った。端正な顔立ちだが嫌に冷静で感情がない。まるで能面のようだ。
「三橋もあなたがたを殺しにきたのでは?」
「えぇ、そうね。口封じと言ってたかしら。でも最後は泣いて行いを悔いていたわ。暴力でねじ伏せるのではなく、言葉で改心をした。それが相談屋の仕事ですもの」
「ほう、素晴らしい。ですが、死というのはお嬢さんが考えるほど甘いものではない。くれぐれも、死を甘くみないように」
偉そうな男だ。そもそも人の家業にごちゃごちゃいう資格もないし、こいつらは俺に犬をけしかけたんだぞ。舐めやがって。
「ま、俺がしっかり守るんで大丈夫ですよ。犬の教育はちゃんとしてくださいね」
島松は俺にぺこりと頭を下げると鋭い鷹のような視線を向けて「お邪魔しました」と玄関の扉を閉めた。いつの時代も、お上ってやつは気に食わないな。
「ふぅ〜」
彼岸はその場によろよろを崩れ落ちるとへなりと上半身も床に倒してしまった。
「彼岸っ?」
彼岸は気を失っていた。さすがの彼岸でも今回ばかりはひどく緊張していたらしい。軽い彼女を抱き上げて寝室へと運ぼう。
「ぐっ」
犬に噛まれた傷が痛む。頑張れ、オサキ。少しの辛抱じゃないか。
俺は彼岸を寝室まで運び、風呂も入らぬまま自分も屋根裏の寝床へと向かった。
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