第3話


 峰田と別れた後、俺はもやもやした気持ちのまま彼岸堂へと戻った。彼岸堂の台所側からは白い煙が見え、甘辛い良い匂いが漂ってくる。

「戻ったよ」

「尾崎、ありがとう」

 彼岸は台所で料理をしていた。甘辛く煮付けられている魚と大根、七輪ではふっくらした油揚げが焼かれている。米の甘い匂いが漂い、釜はポコポコと音を立てている。

「ご飯、もうすぐよ」

「そりゃ、どーも」

 彼岸は少し辛そうに腰を叩くと鍋の中の大根に竹串を刺す。「いい頃合いね」とつぶやいて火から鍋を外した。

 俺は食器を用意したり、おぼんを用意したり、腹も減ったし仕方ない。手伝ってやるか。

 台所からすぐの食卓に料理を並べて俺たちは向かい合って挨拶をした。彼岸は料理を作るのがうまい。俺が峰田を送っているあの少しの間にこれだけの料理を同時並行で作っていたのだ。

 昔っからこういう人間っているんだよなぁ。

「さ、尾崎。食べたらお風呂に入って早く休みましょう」

「なぁ、彼岸。あいつ、嘘つきだよ」

「わかってるわ」

「え……」

 彼岸は俺が言ったことに驚きもせずに米を頬張った。

「死神のあなたとは違って、確実ではないかもしれないけれど……長年この仕事をしているとね。人がどんな時に嘘をつくのかなんてものは話し方や表情、瞳の動きや間の一つでわかるものなの」

 彼岸は少し誇らしげだ。白飯の上に漬物を乗せてうまそうに頬張り、そのまま魚を箸でつまんだ。

 俺はカリカリふかふかな油揚げを頬張る。俺がお使いに行ったからちょっと高いやつを買ってやったんだ。うまい。

「死神さんは嘘が見抜けるの?」

「まぁな。あいつがどういう人間か、あの瞬間にわかったよ。教えてやろうか」

 彼岸は首を横に振った。

「いいの。真実を彼自身が話すことが重要なのよ。この仕事は」

 彼岸はそういうと俺の前にあった油揚げを一切れ摘んだ。

「あっ、俺の」

 俺は稲荷寿司よりも油揚げをシンプルに炭火で炙ったのが好きだ。カリカリふわふわで醤油と生姜でピリッと食うのが最高だろ? もちろん、絵吉のやつが持ってきてくれた稲荷寿司も大好きだが。

「尾崎も少し考えてみるといいわ。人間という生き物が、死に対してどんなふうに向き合っているのか」

 彼岸は残った白米の上に緑茶をざっとかけると軽くほぐしてかっこんだ。俺も真似して茶漬けにしてしまう。この後は、風呂を沸かしてそれから……。俺はすっかりここの暮らしに慣れてしまったな。風呂は心地がいいからな。

 食器を洗い場に運びながら俺は彼岸に声をかける。

「なぁ、彼岸。お前はあいつが明日もあの嘘を突き通したらどうするんだ?」

 彼岸は少しの沈黙のあと

「そのまま、彼の望む形のまま思いを水に流すわ。生きている人間の思いが、記憶が真実になっていく。何かを残して死んでしまうというのは、嘘も真実も自分で変えることはできなくなってしまう。そういうものなのよ」

「そんなの納得いくかよ」

「そうね、おかしいわね」

 彼岸はいつもの薄ら笑いを浮かべて、食器を洗い始めた。



 順番に風呂に入った後、彼岸が咳をし始めたので俺は彼女を寝床まで運ぶと無理やり布団をかぶせた。彼岸はまだ眠くないと駄々をこねていたが、峰田がいるとはいえ彼女の余命が少なくなっているのは事実なのだ。

 数日前の俺は、別にこの女が死のうが生きようがどうでも良いと思っていた。彼岸が死ねば今までと同じように森の奥に戻って社のそばで死ににきた人間を驚かしたり、死体を弄ったりする生活に戻ればいいと思っていたが……。

——あまりにもここの暮らしが快適すぎる……!

 全く、人間に悪さをするのが生きがいの俺が、腐ったもんだぜ。

「尾崎」

「なんだよ」

「暖かい、お茶を」

「へいへい」

「ありがとう」

 峰田の記憶の中じゃ、一瞬で湯呑みの中の水を温かくする箱や、透明な紙に包まれたうまそうな握り飯なんかもあったな。もしかしたら、彼岸は変わっているからこんな生活をしているだけで、もっとハイカラで便利で俺様にぴったりの暮らしができるんじゃないか……?

 今にも壊れそうなやかんでお湯を沸かし、茶を淹れる。彼岸はケホケホと苦しそうに咳をする。

 大丈夫だ。明日、あのクソ男の思いを彼岸花と共に小川に流せば彼女の余命は4日回復する。それを待たずに死んだりしないさ。

「ほらよ」

「ありがとう、尾崎。おやすみなさい」

「おやすみ」

 俺は彼岸の部屋を出ると屋根裏部屋へと向かった。




 翌朝、峰田は時間通りにやってきた。

 昨日と同じ服装、ただ表情は少しだけ明るくなっていた。

「おはようございます」

「尾崎、峰田さんを案内して差し上げて」

「どうぞ」

 俺は昨日と同じ部屋、同じ場所に峰田を座らせると彼岸を待った。昨日より少しだけ彼女の調子が悪い。

「尾崎さん、昨日はありがとうございました」

「何がですか」

「いえ、昨日暗い中送ってくださって」

「仕事ですから」

 その後の返事はなかった。峰田は気まずそうに目を伏せると目の前にある茶をずずっと啜った。この男、昨日より余裕がある。朝飯を食ったのか、かすかに口から甘い香りがした。

「尾崎さんはここで働いて長いんですか?」

「いえ、最近のことですよ」

「そうですか。失礼ですがご結婚は?」

「いえ、してませんよ。それに、彼岸ともそういう関係ではないです」

 峰田は「そうですか」と申し訳なさそうに笑うと静かに目を伏せた。この場にいる峰田は妻思いの優しい夫に見える。でも、俺がこいつの記憶の中で見たこの男はもっと邪悪で、粗暴で、最低なクズだった。

「男は大変です。どんなに仕事がきつくても妻や子供を守るために逃げることは許されないのだから」

 それが本心なのか、それとも取り繕った偽善なのか俺にはわからなかった。

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれませんね」

 峰田は困ったように笑うと、湯呑みを置いて部屋の入り口の方に視線を向ける。彼岸はまだ来ない。

(この男、ヘラヘラしやがって)

 俺は峰田をぶん殴りたい気持ちをグッと堪えて彼岸を待つことにした。


 しばらくして、彼岸は部屋にやってくると小さくお辞儀をして豪華な椅子に座った。

「それでは峰田さん。次は故人への思いをお聞かせくださいませ。悲しみを打ち明けて一晩、少しは悲しみの熱も冷め、心が冷静になったのでは?」

 彼岸の言葉に峰田は小さく頷いた。


「真奈美……妻は子供を死産してから人が変わってしまいました。何処か陰鬱で悲観的な性格になってしまったんです」

 

 峰田が話し出すと俺はぐっとやつの記憶に引き込まれた。




さとしくん。赤ちゃん、死んじゃった」

 まだ若い女だ。やつれ切った表情は痛々しく、化粧っけのない顔、眉毛のも薄く、悲壮感が漂っている。棚の上に飾られてある二人の写真に映る可愛らしい女性とは似ても似つかないほど変わってしまっていた。

「真奈美……しかたないよ」

「仕方ない? 何が仕方ないの?」

「だって、生き返らせることなんてできないだろ!」

「でも、大事にすることはできたじゃん! 智くんだってもっと」

「悪い、仕事。もう戻らないと」

「仕事? ねぇ、家族が亡くなったんだよ!」

「俺が働かないと生活していけないだろ!」

 すがる妻を振り払って玄関に向かう峰田の心は悲しみで溢れていた。

(峰田も子供が死んだことは悲しかったのか)



 ぐっと引き戻される。

 峰田夫妻の悲しい記憶だった。でも、目の前にいる峰田は諦めたようにヘラヘラと笑っている。

「奥さんが変わってしまって、峰田さんはどう変わったのですか?」

 彼岸の質問にヘラヘラしていた峰田は真顔になる。

「俺は……その、妻に冷たくなったと思います」

「冷たく?」

 彼岸は淡々と質問を続ける。

「はい、妻は俺に歩み寄ろうとたくさん努力をしてくれていました。でも、俺は素直になれなかったんです」

 俺は峰田の記憶の中を思い出す。あんなにうまそうな弁当、愛してる人間にしか作れない。きっと、毎日、毎朝……。こいつはそれを……クソが。

「素直に慣れなかった? どんなふうに?」

 彼岸はまるで真実を全て知っている遺体に峰田の痛いところをくすぐっていく。峰田は額に冷や汗をかき、息が荒くなってきた。

「些細なことです。妻が計画した旅行の日にわざと出張をかぶせたり、レストランの予約が取れないふりをしたり……。妻の健気さに俺の気持ちが追いつかなかったんです。俺は距離をとりたかった。でも妻には俺しかいなかった」

「奥さんにはあなたしかいなかった?」

「えぇ、妻は妊娠と大学中退をきっかけに妻の両親とはほぼ絶縁状態でした。大学を中退して社会人経験もなく専業主婦になったので貯金もなかったから。だから、妻の中には俺と離婚して一人になるという選択肢はなかったんです」

 人間の世界のことは詳しくは知らない。でも、こいつの奥さんが弱い立場だというのはなんとなくわかった。

「つまり、奥さんはあなたに離婚されては路頭に迷ってしまうような状態だったのね」

「えぇ、俺自身も新卒ですから貯金できほど給料はなかったですし……それに妻はおっとりしていたので学生時代にアルバイトもしていませんでした」

「そんな状態でも結婚したのなぜ?」

 彼岸の質問に峰田は俯いた。子供ができたから結婚したと昨日話していなかったか? 黙り込むようなことか? 

 峰田があまりにも黙るので、彼岸が茶を啜った。

「それは、その……」

「愛しているから、とは言わないのね。峰田さん、あなたは真奈美さんへの思いを流すためにも心の奥にある本当の気持ちを言葉に出すべきよ。私も尾崎も、今後のあなたには関わらない。この場だけの関係」

 彼岸が目配せで俺にお茶を淹れろと合図する。俺は黙って彼岸と峰田の湯呑みに茶を注ぐ。

 それから数分、沈黙が続いた。彼岸は優しい眼差しで峰田を見つめたまま静かに黙っていたし、峰田は目を泳がせながら息を荒くしていた。切り子の飾りがカラカラと音をたて、窓から差し込む日光が眩しい。小鳥が近くに停まったのかちゅんちゅんと可愛らしい声をあげる。

(あぁ、さっさと話しちまえよ)

 峰田は突然、湯呑みをぐっと掴むと一気に茶を流し込んだ。



「本当は、愛してなかったんだと思います」


 峰田は肩で息をしながら、目を血走らせていた。

 彼岸は薄笑いを浮かべたまま、俺は峰田が彼岸に少しでも手を上げようとしたらすぐに妖術でぶっ飛ばせるように準備をする。


「俺は、子供なんてほしくなかったんだ。俺はできることを全部やった。金だって、出すって言ったのに。でも真奈美は頑なに赤ん坊を堕ろそうとしなかった。次第にもう産むしかない月齢になって……そのまま流れで結婚したっていうか」

 こいつ、腹の中の子供を……。くっ、なんて最低な野郎なんだ。

「峰田さん、どうして真奈美さんとお付き合いを?」

「それは、大学生で付き合うには真奈美は可愛かったし、それに実家も金持ちだったし。俺の計画ではもっとお互い独立してから結婚とかそういうの考える予定だったから」

「避妊はしなかったのかしら?」

「真奈美が、薬を飲むって言ってたから……」

 彼岸の目にかすかに軽蔑の色が写ったのを俺は見た。峰田が最低なのはわかっているが、ここまでとは。

「あなたが真奈美さんを愛してなかったのはわかったわ。では、

「それはどういう意味ですか」

 明らかに峰田が動揺をする。彼岸は鋭い視線で彼を見つめている。

「あなたは、一人では抱えきれない死への思いを流しにこんな樹海までやってきた。最初は愛する妻を亡くしたという辛い思いを流しにきたのかと思ったのだけれど、蓋を開けてみればあなたは妻を愛しているわけではなかった。なら、あなたは一体どんな思いを抱えているの?」

 俺は答えを知っている。この男は妻が居ながら他の女と逢瀬を重ね、不貞を重ねていた。奥さんが死んだ日、こいつは嘘をついて不貞相手と夜を過ごしていたのだ。その罪悪感に潰されそうになってここにやってきたんだろう。

(話しちまえよ、楽になっちまえ)

「本当に、本当にここでのことは誰にも言われないんですよね?」

「えぇ、本日話してもらったことは最後に彼岸花と一緒に全て水に流します。私たちがそれをどこかの誰かに話すことはありませんよ」

 峰田は俺の方を向いた。

「この人も?」

(この野郎、ここまで来てそこまで己が大事か。クズ男め)

「えぇ、尾崎もです」

 俺は彼岸の言葉に合わせて頷いた。聞いたところで俺が話せる相手なんか森の中の動物くらいしかいねぇよ。

「すみません、お茶をもういっぱいもらってもいいですか」

「尾崎」

 俺は保温用の水差しから急須にお湯をうつすと峰田の湯呑みに茶を注いだ。峰田は少しぬるい茶を一気に飲み込むと唇を震わせた。俺には負けるがそこそこいい男が台無しだ。脂汗をかいて、目は血走りそのくせ唇は真っ青だ。



「わかりました。全部、話します」




 


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