ペットボトルの中の猫
うろこ道
第1話 トラ丸が溶けた
ぼくの大事な猫が溶けてしまった。
猫の名前はトラ丸という。オレンジ色に白い虎縞の入った、十キロ強もあるでかいオス猫だ。
朝と夕方の一日二回、トラ丸のエサと水を取りかえてやるのがぼくの仕事だった。小学校から帰ると、トラ丸はひとしきりぼくの足に額を擦りつけたあとに、餌皿の前で「みぎゃおおおおう」とかわいくない声をあげる。はやく餌を入れろとの意思表示だ。
だけどその日は「みぎゃ」あたりで、ぱしゃんと溶けてしまった。まだしっぽの先が残っていたけれど、みるみるうちにしゅわしゅわと絨毯に染みていった。
ぼくは驚きのあまり、その場に動けなくなってしまった。
「トラ丸」
ぼくはキャットフードの袋を放り出し、床に這いつくばった。
だいじなトラ丸が絨毯に吸われてしまった。ショックで、頭の中が真っ白になった。
けれどすぐに空の餌皿にオレンジ色の液体がたまっているのに気づいた。餌皿に顔を突っ込んだときに溶けたから、トラ丸の一部が入ったのだ。しかも、けっこうなみなみと入っている。
ぼくキッチンに駆け込んで、分別ごみ箱から五百ミリリットルのペットボトルを引っ張り出し、しっかりゆすいで水をきった。
そして餌皿からトラ丸の一部をペットボトルに慎重に注ぎ入れた。けっこうこぼれてしまったけど、底から五センチくらいは入れることができた。
(トラ丸がぜんぶ絨毯にこぼれなくてよかった)
ほっとしたとたんに、涙で視界がにじんだ。袖で涙をぬぐいながら、このオレンジ色の液体をどうしようかと途方にくれた。
その時、玄関の鍵を開ける音が聞こえてきた。
(ママだ!)
ぼくは息を飲んだ。ママはこのオレンジ色の染みが広がった絨毯を見てかんかんに怒るだろう。
どうしようと右往左往しているうちにリビングのドアが開かれた。「ただいま」と部屋入ってきたママは、案の定、絨毯を見て目をつり上げた。
「ジュースをこぼしたのね!? 何やってるのよ!!」
ママはバッグをフローリングに叩きつけると、足を踏み鳴らしてこっちにきた。ペットボトルを持つぼくの右手をひねりあげる。痛みよりママの形相が怖くて、ぼくは悲鳴をのみ込んだ。
「ちがうよ! トラ丸が溶けちゃったんだよ!」
ママは嘘が大嫌いで、嘘をつくと殴られるじゃすまない。だから本当のことを言ったんだけど、とうてい信じてもらえる話じゃないことに気付いた。
ぼくは半年前にママに肋骨を折られたことを思い出して、足ががくがくと震えて立っていられなくなった。
ところが、ママは怒らなかった。
「なんだそうだったの。早く言いなさいよ」
ママの手がぼくの腕を離した。その場にへたりこみそうになるのをなんとかこらえ、ママを見上げた。
「……信じてくれるの」
「猫が液体であることは科学的にも証明されているのよ(※1)」
ママはそう言いながら、絨毯をつまみあげて四十五リットルのごみ袋に詰め込んだ。そしてぼくの握りしめたペットボトルにちらりと目を向けた。
「トラちゃん、ちょっとでも残っててよかったわね」
その声が思いのほか優しくて、また目に涙がにじんできた。
ママはごみ袋の口をぎゅうぎゅうに縛りながら、「こぼれるといけないからちゃんとキャップをしめとくのよ」と言い、ごみ袋を持ってリビングを出ていった。
ぼくは汗をぬぐい、大きく息を吐いた。つかまれた腕が赤くなって、じんじんと痛んだ。
トラ丸が溶けたことより、ママの怒りにダメージを受けていた。
(※1:2017年、フランスの研究者マーク・アントワン・ファルダン氏の「猫=液体」説がイグ・ノーベル物理学賞を受賞。)
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