第4話

律人は暇を持て余しているのか、普段以上に調の後をついてくるようになった。

今まで甘えたくても甘えられなかった時間を埋めるかのように、調が近くのコンビニにアイスを買いに行く時にでさえ、どこからか気配を察して、声をかけてくるようになった。

弟として慕ってくる律人は、可愛い。

ただ、小さい頃から接している時間が少なかったせいか、弟というより夏季休暇の際に遊ぶ遠方に住まう従弟という感覚がある。

今現在の律人が何が好きで何が嫌いか、どんな服や音楽が好みか、そういった一切の情報が全く享受できていない状態で、調は兄として接していかなければならない。

兄と接していくとは別に、一ノ瀬調として一ノ瀬律人という人物の心の奥底に住まう深淵も、同時に暴いていかなければならない。

何て複雑で苦痛極まりない作業だろうか。

だけど、ずっと霧がかかったようにすっきりしない、美月の死の真相も自分がきちんと突き止めなければ、依月や菜月たちに顔向けができない。

調は悟っていた。弟として可愛がりたい気持ちと、11年前の真相を探りたい気持ちと、相反する感情を押し殺しながら、薄っぺらい相槌を打ちながら日々を過ごしていくしかないのだと。


「兄さんは、ジブリ作品で何が好き?」

「ジブリ?宮崎駿監督の?」

江本さんが夕飯の片づけをしている中、調は図書室が借りてきた分厚い本を読んでいた。最近は日本の小説よりも海外の小説を好んで読んでいる。

律人は、ゆっくりとご飯を食べたりテレビを観たりする機会が少なかったせいか、今は調とおしゃべりをしながら食べた後、リビングのテレビ画面に釘付けになっていることが多くなった。

ジブリのようなアニメ映画は調は大体幼少期に観てしまったため、律人は高校に入るまでの春休みの間に、観れていなかった有名作品を補完するように観続けているようだった。

「……うーん、ナウシカかラピュタあたりか」

「初期の作品も面白い作品が多いよね。でも僕は『耳をすませば』が一番好きかも」

「耳をすませば?」

意外だった。勝手な想像ではあったが、ナウシカやラピュタのような冒険譚か、もべつにしくはトトロやポニョのような心がほっこりするような作品のどちらかを選ぶのではないかと思っていた。

ジブリの中でファンタジー要素の低い、日常系の作品を選んだその意図は何だったのか。

「叶わないことが分かっているのに近づきたくて一生懸命に努力して、それがほんの一瞬の恍惚で終わり、下位の成績からの無慈悲な出発を余儀なくされるって、涙が出てくるくらいに主人公が滑稽すぎて、笑いが止まらなくなるんだよね。でも、その滑稽さがいいのかな、主人公がいとおしいって思えるんだよね」

さあ、っと血の気が引くような感覚に襲われた。

人によってその作品への感想はそれぞれだが、やはり律人の着眼点には異様さを感じずにはいられなかった。

律人はその後も作品そのものというよりは、主人公の少女に関する感想を訥々と語っていたが、調の耳に入ってくることはなかった。

かたん

そろそろ本を読むのを止めて、風呂に入る準備をしようとした途端、玄関の扉の施錠音が聞こえてきたので調は急いでソファから立ち上がった。

律人は気付いているのかいないのか、テレビの前から離れようとしなかった。

「母さん」

リビングのドアを開けて、調は声を掛けた。

母の路香は憔悴しきったようで、目の下には隠し切れないくまが見受けられた。

「調……夕飯は済んだの?」

「うん。江本さんが筑前煮を作ってくれた」

くっと、母は自嘲気味に声を上げた。

「……母さんが普段から作らない和食ばかりね」

「―—―母さん、明日も仕事?」

「そうよ。明日から今度は九州のツアーの方が始まるから。今日は荷物を取りに来たの」

「今日は、泊まっていかないの?」

調の言葉に心底分からないというようにこちらに目を向けた。

「あの子が、嫌がるでしょう」


律人が清真高校へ進学を決めた頃から、あまり母が家に寄り付くことがなくなった。

今まで律人の教育のために全国ツアー参加の打診を断っていたが、その誘いも断らず、積極的にツアーに参加するようになった。

そのため、家に帰る頻度も極端に減り、月に一度や二度ほど荷物を取りに来ることでしか顔を見せなくなった。

そして、母が帰ってきても律人は我関せずとばかりに声を掛けることはなかった。

調は律人と比べて母と接する時間が極端に少なかったため、母が家に帰る時には極力顔を見せようと声を掛けた。

だが、調が顔を見せても母の表情が晴れることもなく、むしろ今までないがしろにしていたもう一人の息子への贖罪の感情があふれ出ているようだった。

自分は、声を掛けない方がいいのだろうか。

そう毎日自問することがあったが、律人が母の存在を拒否することがあっても、自分はこの家で息子として母の帰りを笑顔で迎えたいと、心底そう思っていた。

それが、母の重荷だったとしても、自分のこと、律人のこと、家には二人の息子が母の帰りを待っていることを伝えたいと思っていた。

「じゃあね、あとのことは江本さんに任せているから」

「……母さんも、体に気を付けて」

調の言葉に、母はふふっと少し口元に笑みを浮かべたようだった。それだけで、調の心はふわっと天にも昇る気持ちになる。

荷物を抱えて、母が去っていくと、知らず知らず肩に力が入っていたのかふっと力が抜けていくようだった。

「放っておけばいいのに、兄さんは律儀だね」

後ろから声がして、調はゆっくりと振り返った。

リビングのドアから律人がひょこっと頭だけ覗かせていた。

「母さんの束縛から抜け出してやっと自由になったのに、兄さんが代わりに味わいたかった?」

律人の言葉にかっと体に熱が巡った。

「ごめんごめん。そんな目くじら立てないでよ。ろくでもないよ、自由のない押しつけがましいがんじがらめの愛情は。ずっと体験していた僕だから実感を持って言えることだよ。兄さんには、そうなって欲しくないし、僕がそんなことさせない。あの人たちは自分の器の中で自分に満足しながら自分の世界で生きていけばいいんだよ。他人を引きずり込むものじゃない」

「律人は、今までずっと辛かったのか?」

調の言葉に律人は一瞬表情をなくしたが、すぐににこっと笑みを浮かべた。

「過去は過去だよ。もう忘れた。もう僕は前しか見ていないから。兄さんと一緒に通学する未来しか今は楽しみじゃないよ」

早口でそう言うと、律人はひょこっと顔を引っ込めた。

母が律人にどのぐらいの音楽の教育を施していたのか、よく分からない。そして、その教育を否定することなく享受し続けた律人の心の内を今の調に知る由もない。

二人がどのような交流をしていたのか、知ろうとしなかったのも調自身だ。

自分は愛されていない。どうせ律人の方が音楽の才能がある。

そんな不貞腐れた思想で、自分の思考を止めて耳をふさいで、考えないようにしていたのも調自身だ。

二人を、理解しないようにしていた。

その事実に、あらためて直視し、調は愕然とそのまま立ち尽くしていた。





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