第2話

今思えば、音楽という才能は調と律人の緩衝材になり得るものだったのかもしれない。

調にとって両親から与えられる音楽という存在は一つのカテゴリであり、鑑賞するもの味わうものであり、人生における一端を担うものだった。

両親は、音楽を人生の一端に留めておこうとする調に気づき嘆いた。

血管を通る血液のように、指先隅々にまで行き渡らせる神経のように、体を構成する一部として取り込んで欲しかったからだ。

しかし、絶望を感じていた母の胎内に宿った命は常に音楽に躍動し、うねり、かすかに唱和をしている―――

この子は、音楽を芯に宿した奇跡の子だ。

[調律]

調と対を成す律人が誕生した。

必死に光を取り込もうと瞼を開く眼には、うっすらと五線譜が映る。

誕生の瞬間から調の運命は決まっていたのかもしれない。

調を律するべき存在が生まれてしまったのだと。


幼少時から確かに両親の愛情は感じ取っていた。

でも、それは一ノ瀬家の長男への愛情であり、音楽の申し子への敬意を含んだ大いなる愛情とは違っていた。

父は家族の誕生日の時には帰国し、母はたくさんのご馳走を作ってくれてお祝いしてくれた。

調にはプラレールや図鑑といったプレゼントをくれたが、律人にはなかった。

後日、調は家事全般を担ってくれる江本さんと一晩留守番をすることになった。

両親と律人は大きなカバンを持ってどこかに行ってしまった。

後に知ることになったが、両親と律人は様々な芸術劇場をまわり、鑑賞会を堪能し、近くのホテルで川の字になって眠っていたのだという。

調は一度たりともその芸術鑑賞の旅に連れて行ってもらったことが無かった。

江本さんが見つめる中、一人でプラレールを走らせ、狭い空間の中で鉄道旅行を俯瞰するしかなかったのである。


「あーあれね、僕にとっては苦痛でしかなかったよ」

目の前の律人はにっこりと笑いながらつぶやいた。

調は口に運ぼうとする箸を止めた。

今夜は父も母も仕事で不在のため二人で向かい合って夕飯を食べていた。

江本さんが作ってくれた筑前煮や鯖の味噌煮、大根サラダ、味噌汁、ご飯と和食がテーブルに並んでいる。

母はよく洋食を好んで作ってくれるが、調は今日のような和食の方が好みだった。

律人は清真高校の試験を見事に突破し、来月から一年生として調と同じ高校生になる。

今まで夕飯の時間は大体調が一人で食べることが多かったが、音楽の英才教育というしがらみを一切取り去った律人は意気揚々と共にご飯をとることが多くなった。

何年も音楽という緩衝材を理由にこうして向き合って会話することもなかった兄弟が、あらためて話すことと言えば小さい頃の思い出しかなかった。

「だってさ、両側に両親に挟まれて当然とばかりにオペラ、歌舞伎、狂言、ミュージカルって小さい頃から連れていかれてみてよ。何の罰ゲーム?って思うよ。僕は兄さんみたいなプラレールとかおもちゃで遊びたかったよ」

「……そうだったのか?」

リビングでプラレールを走らせている調をドアの向こうからじっと見つめている律人を何度も感じたことがある。それは、親の正規な愛情を受けられない調に対しての憐憫たる感情なのだと思っていた。

「でもさ、遠回りしたけどようやく―――」

箸を握りしめながら律人は天井を仰いだ。

「―—―兄さんの人並みの弟して生きることができる」

調は口元を最大限に引き延ばす律人の笑みに、ぞっと寒気を感じることしかできなかった。

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