End roll1 結婚指輪 ー2024/7/24 Wed 19:15
放課後、十九時に橋本大和が迎えにくる。
バイトやサークル、養成所の稽古で忙しくとも、必ず王に使える騎士の如く迎えに来た。
けれど今日は誰も来なかった。
誠也は自分の足で榊優菜のマンションのエレベーターにたどり着き、自分でエレベーターに乗る。
階数は覚えている。
ドアが開いて彼女の部屋の前に。甘い匂いに酩酊する。この匂いを嗅いでしまった自分は、正常な判断ができなくなる。彼女の前に立って仕舞えば、自分は彼女の奴隷だ。命令に背けない。
「誠也くん、おかえり」
「……ただいま」
榊は恋人が死んだ眼を自分に向けていることなど気にも止めず、自らの部屋に招き入れる。そうして帰ってきた彼の腕を弾き、化粧を施すように首には首輪を、手首には手錠を。コロンとベットに横になる時には、彼はこの部屋から出られなくなっているのだ。
鎖は、どんなに引っ張っても外れることはない。
「大和くんがいなくてもちゃんと家に帰ってこれたの、えらいえらい。……私の可愛い猫ちゃん。えらいなぁ……」
甘ったるい声が耳から脳を犯す。初めはゾッと背筋が震えたその声にも、誠也はなにも感じなかった。この状況に慣れてしまっていた。
逃れられない逃げられない。
いいや、自分はもう逃げようともしていないのだ。
「ゆうな」
「ご飯にしようか。作ってくるね」
榊はスマートフォンを操作して、注文をする。宅配員がやってきたそのタイミングで助けを求めれば良い。そう思っていた時もあった。声を出して叫ぼうとした時、首筋のバーコードが焼き切れるように熱を持って自分の行動を止めたのだ。
その熱さはとうてい耐え切れるものではなく、口をパクパクと無様に開け、ベッドに磔になった。その時に榊はぬるまった白湯とタオルを持ってきて、湿らせたタオルから優しく水を飲ませてくれた。
一瞬で窒息しかけたのだ。
空気がちゃんと吸えるようになるまで、榊は献身し続けた。
「榊はさ、俺のことが好きなんでしょ」
「――なぁに? 好きだよ?」
「それって俺と結婚したいってこと?」
大学生の恋愛は、結婚を前提にするものではない。まだまだ婚姻には遠い。この四年間で彼氏彼女がいない自分にならないがために、しばしの青春を遊び呆けるために付き合っている。
だから四年が過ぎれば別れる人もいるだろう。もう簡単に会えないから、また新しい出会いがあるかもしれないから。
適当な理由をつけて。
でも、――榊優奈は違うような気がするのだ。
榊優奈は自分とずっと一緒にいる気なのではないか。
「俺は、ちょっとめんどくさいよ? 家のこととか……あるから……」
いつか継がなければならない家業。伯父の期待には背けない。きっと俺の奥さんになる人ならば、自分と同じように人生を縛られることになるだろう。そうしてでも俺といたい? その人生を賭ける気はあるのかと。君に真剣に問いたいのだ。
「俺と結婚するということは、そういうことだよ」
ある意味縛られている自分には、お似合いなのかもしれない。お飾りの世継ぎ。君のペットとしてこの先の人生を共に歩もう。
――自分で決めることのできない俺には、これ以上なくふさわしい末路だ。
「ゆうな、ねぇ」
「……嬉しい」
榊は手に持っていたスマートフォンを床に落とす。ガチャンっと音がしてつけていたスパンコールストーンが弾けて飛んだ。
「それで良いなら」
恐る恐る顔を上げると榊が口を手で覆っていた。榊の手を手繰り寄せ、自分の元に引き寄せる。ぐいっと腕を引くと、重心は崩れて落ちていく。そうして倒れかかった彼女の体を受け止めて耳元で囁いた。
「俺と――、結婚してください」
指輪は無い。
榊の胸を、後ろ手に構えていたナイフで刺し、その血潮が左手の薬指に赤いリングを作る。その指にキスをする。
その代わりにこれで許して。隙ができたね? 油断した?
俺は神様から貰ったチャンスを必ずものにしなければならないから。榊と身体を密着させ、返り血で自分の服が汚れることなど気に留めず。
倒れた榊の首筋にナイフを立てた。
息が上がっている。思ったよりも上手くいき過ぎていることに安堵した。いや、これは現実で人を殺したことへの興奮というべきか。
――あぁやっと、君に逆らうことができる。
「君を殺してほしいと神様は言った。おそらく良い神様では無い。けれどこの世界と現実を繋いで、――この偽りの夢の中から抜け出せる方法を示してくれた神様だ」
胡蝶の夢。
夢の中で蝶だった自分は本当に夢だったんだろうか。曖昧に混ざり込んだこの世界は、本当に現実の世界だろうか。
夢を何度も繰り返した。
その中で何度も違和感を感じた。君もそうだよ、なんだか別人みたいに感じていたんだ。見た目だけは同じなのに中身がそっくりと別人に置き換わってしまったようで。会う人間はどこか前の人間とは違っていて、その違和感を違和感であると感じる前に飲み込まされた。
これは本当に現実なんだろうか?
今や街を歩く誰もの首にバーコードが刻印されている。世界中の人間が管理をされているのだ、何者かによって。
――その相手は榊優奈ではない。
もっと上の、神と呼ばれるものだ。
「俺はいつからか、夢の中の世界に紛れ込んでしまった。この世界は現実じゃない。夢の中だ。夢の中だ。夢の中だ。だから――君を殺せば……」
ドロドロと血潮は流れていく。
シーツを手繰り寄せるように榊の手が動く。
あ、と思った時には遅かった。倒れた彼女の身体から。拘束されている身だとしても眺めている前に逃げればよかったのだ。榊の手はずるずると、少しずつ少しずつ、誠也の足首を掴んで引き寄せる。
ねちゃりと赤い液体が足を絡めとる。
「……せいや……っく……ん」
誠也はその手を振り解けなかった。おかしい。胸を刺したとはいえ出血の量が多過ぎる。血溜まりはまるで生き物のように誠也の足元に流れていく。逃げなければ。けれど後退りはできない。
榊の手が引っ張ってくる。
まるで沼底に引き摺り込まれるように。
「あっ……やだっ、やめて榊ってばっ!」
赤い鮮血は黒くどろどろと粘っこい、粘液のようなものに変わっていった。榊の身体を溶かして全てが黒く粘性のある液体に変わっていく。それが足を掬うようにまとわりついて引き摺り込む。
ぬめぬめと、まとわりつくように。
それ自体が意思を持って飲み込むように身体を攫う。
「いきがっ……」
気がつけば、そこはベッドの上ではなく、暗くどんよりした沼の底だった。榊の姿はない。粘液は自分の身体の周りにねっちょりとまとわりついて、自分の身体を下へ下へ引き摺り込む。その先は一体なにがあるのだろうか。暗い闇の奥はなにも見えない。
自分はどうなってしまうのだろうか。
――誠也はそれすらも考えたくはなかった。
苦しい。
息が、できない。
息を吸い込むと黒い粘液も吸い込んだ。ゲホゲホと吐き出す前に
そうなればもはや吐き出すのは不可能だ。
――あ、これ死ぬ。
いつのまにか夢の中を現実の世界だと思い込んでいる。いいや、これは夢なんだ、夢に違いない。ならば出なければならない。
このキーはこの支配権にある彼女を殺すことなのだ。
その推理は合っていたのかもしれない。けれどこれは目が覚めた時に現実に戻れているんだろうか。
戻れなかったら終わりだな。
藤ヶ谷誠也はこれが夢なら良いと少しの希望を持って、――意識を宙に手放した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます