レポート書くのは面倒だ。そうだChatGPTにやらせよう
葉山 宗次郎
課題レポートは面倒なのでChatGPTにやらせます。
某大学に通う文系の学生。
日本史の授業で織田信長について2000文字のレポートを書くように担当の講師言われた。
「……めんどくさい」
2000文字もの文字をキーボードや音声入力して変換するのがめんどい。
「そうだChatGPTに書かせよう」
最近流行で高性能のAI。レポートを書くのに使われているという。
「せっかくだから使ってレポートを作って時短だ」
User
信長のレポートを書いて
ChatGPT
はい、了解しました。では、日本の歴史上有名な戦国武将の一人である織田信長についてレポートを書いてみましょう。
織田信長は、戦国時代における天才的な戦略家として知られています。彼は、尾張国(現在の愛知県)の小領主から出発し、1551年に家督を継いだ後、領土を拡大し、近隣の勢力を制圧していきました。
信長は、強力な軍事力を持ちながらも、官僚制度の整備や法令の制定、商業の振興などにも力を注ぎ、国内の統制を強化していきました。彼の統治手法は、他の戦国大名に比べて近代的であったとされています。
また、信長は独自の軍事戦略を展開し、単なる軍事力の強化だけではなく、敵対する勢力を孤立させるための同盟戦略や、自身の地位を確固たるものにするための身内政策なども行いました。その結果、信長は、近隣の大名からの攻撃を受けながらも、数多くの戦いで勝利を収め、最終的には天下統一を果たした豊臣秀吉によって打倒されるまで、日本を統治する最強の大名として君臨しました。
信長は、現代にも多大な影響を与えており、彼の改革手法は、江戸時代に至るまで継承され、近代化の基盤となりました。また、信長は文化人でもあり、能や茶道などの芸術にも嗜好があり、その支援を行っていました。信長の事績は、日本の歴史において大きな位置を占めています。
「500文字程度か」
学生は字数を埋めることだけを考え、内容を読まずにwordにコピペして字数だけを確認する。
「2000文字なんだよな」
論文だと何万文字も書くので今から2000文字を書けるようにしておけというのだ。迷惑極まりない。
しかし課題なので言われたとおりにしないと評価されない。
学生はChatGPTに新たな指示を入力してやらせる。
User
2000文字のレポートにしてください
ChatGPT
はい、了解しました。織田信長は、日本の戦国時代において活躍した武将であり、その後の日本の歴史にも大きな影響を与えた人物の一人です。以下では、織田信長の生涯や業績について詳しく解説していきます。
織田信長の生涯
織田信長は、1534年に尾張国(現在の愛知県)に生まれました。父親は尾張の小領主であり、信長は家督を継ぐ前は、他の戦国大名の家臣として仕えていました。1551年に父親が死去し、信長は家督を継いで尾張の支配者となりました。
信長は、当初は他の大名に比べて小さな勢力しか持っていなかったため、近隣の大名に従属していました。しかし、彼はその後、勢力を拡大するために、敵対する大名を攻めたり、同盟を結んだりして、徐々に領土を拡大していきました。
信長は、戦略的な判断力に優れ、また、内政や法令の整備などにも力を注いでいたため、領土を拡大するだけでなく、国内の統制を強化していきました。彼の政治手法は、他の戦国大名に比べて近代的であったとされています。
信長は、武将としての力量だけでなく、文化人としての面も持っていました。彼は、能や茶道などの芸術に嗜好があり、また、文化人を支援することも行っていました。
織田信長の軍事戦略
織田信長は、単なる軍事力の強化だけではなく、敵対する勢力を孤立させるための同盟戦略や、自身の地位を確固たるものにするための身内政策なども行いました。以下では、織田信長が展開した代表的な軍事戦略について説明します。
① 計略戦術の展開
織田信長は、戦略的な判断力に優れ、敵対する勢力を孤立させるために、様々な計略を用いました。たとえば、信
「ありゃ、途中で途切れたぞ。ああ、長すぎると途中で出力が止まるのか」
ChatGPTに続きを書くように学生は命令した。
User
続きを書いてください
ChatGPT
長は、天文の内乱において、当初は織田家に敵対する浅井・朝倉・畠山の連合軍と戦っていました。しかし、彼は独自の戦術を考え出し、天王山の戦いにおいて、敵軍を破りました。この戦いにより、信長は他の大名からの支持を受けるようになり、勢力を拡大することができました。
また、信長は、敵対する勢力を孤立させるために、同盟戦略を用いることもありました。たとえば、彼は徳川家康と同盟を結び、敵対する北条氏や武田氏と戦いました。
② 身内政策の強化
織田信長は、勢力を拡大するだけでなく、自身の地位を確固たるものにするために、身内政策を行いました。たとえば、彼は信長の弟・信行を尾張の治安維持にあたる「法師頭」に任命し、信長の妹・お市を徳川家康に嫁がせることで、自身の勢力を強化しました。
また、信長は、様々な制度改革を行い、領民の生活や経済の発展に力を注ぎました。たとえば、彼は「一国一城令」を出し、各地に城を築くことで、戦乱時の防御力を高めました。また、彼は、農民の生活を安定させるために、耕作地の再分配や税制改革なども行いました。
織田信長の死
1573年、信長は京都の本能寺で、自身の家臣である明智光秀によって襲撃され、自害することになりました。信長は、この時点で領土を拡大し、国内の統制を強化していたため、その死は、日本の歴史に大きな影響を与えました。
信長の死後、家臣の織田信忠や羽柴秀吉が、信長の遺志を継いで、織田家の勢力を維持し、日本の統一を目指すことになります。
まとめ
織田信長は、日本の戦国時代において、勢力
User
続きを書いてください
ChatGPT
を拡大し、国内の統制を強化することで、日本の歴史に大きな影響を与えました。彼は、新しい戦術や同盟戦略を用いて、敵対する勢力を破り、領土を拡大しました。また、身内政策を行い、自身の勢力を強化するとともに、領民の生活や経済の発展にも力を注ぎました。
信長の死後、家臣の織田信忠や羽柴秀吉が、信長の遺志を継いで、織田家の勢力を維持し、日本の統一を目指すことになります。そして、秀吉による天下統一により、信長の遺志は達成されました。
信長は、日本史上、最も有名な武将の一人であり、その業績は現代でも高く評価されています。彼が残した城や文化財は、今でも多くの人々に愛され、訪れる観光客を魅了しています。
織田信長は、戦国時代において、新しい戦術や同盟戦略を用いて、領土を拡大し、国内の統制を強化することで、日本史上に大きな足跡を残しました。彼の業績は、日本の歴史において、忘れがたいものとして、今も多くの人々に尊敬され、愛されています。
「うーん纏めても1600文字か、足りないから付け足させよう」
User
もう少し付け足して
ChatGPT
信長は、戦国時代においては異色の存在でした。彼は、豊かな家柄でありながら、貧しい身分の家臣を重用し、彼らを育て上げました。また、自身も文化人としての一面を持ち、能楽や茶道、文学などにも精通していました。
信長は、戦術や同盟戦略を用いるだけでなく、交渉術にも長けていました。彼は、敵対する勢力との交渉や和解にも積極的に取り組み、同盟関係を構築することで、自身の勢力を拡大しました。また、文化面でも独自の取り組みを行い、現在の日本の文化や芸能の発展に大きな影響を与えたとされています。
信長は、天才的な戦略家であり、政治家であると同時に、時代を超えて多くの人々に影響を与えた人物です。彼の業績は、日本の歴史だけでなく、世界の歴史にも大きな意義を持っています。
「これで良さそうだな。これで提出しよう」
レポートを、少し文章を繋ぐようにして学生は書いた。
織田信長の生涯
織田信長は、1534年に尾張国(現在の愛知県)に生まれました。父親は尾張の小領主であり、信長は家督を継ぐ前は、他の戦国大名の家臣として仕えていました。1551年に父親が死去し、信長は家督を継いで尾張の支配者となりました。
信長は、当初は他の大名に比べて小さな勢力しか持っていなかったため、近隣の大名に従属していました。しかし、彼はその後、勢力を拡大するために、敵対する大名を攻めたり、同盟を結んだりして、徐々に領土を拡大していきました。
信長は、戦略的な判断力に優れ、また、内政や法令の整備などにも力を注いでいたため、領土を拡大するだけでなく、国内の統制を強化していきました。彼の政治手法は、他の戦国大名に比べて近代的であったとされています。
信長は、武将としての力量だけでなく、文化人としての面も持っていました。彼は、能や茶道などの芸術に嗜好があり、また、文化人を支援することも行っていました。
織田信長の軍事戦略
織田信長は、単なる軍事力の強化だけではなく、敵対する勢力を孤立させるための同盟戦略や、自身の地位を確固たるものにするための身内政策なども行いました。以下では、織田信長が展開した代表的な軍事戦略について説明します。
① 計略戦術の展開
織田信長は、戦略的な判断力に優れ、敵対する勢力を孤立させるために、様々な計略を用いました。たとえば、信長は、天文の内乱において、当初は織田家に敵対する浅井・朝倉・畠山の連合軍と戦っていました。しかし、彼は独自の戦術を考え出し、天王山の戦いにおいて、敵軍を破りました。この戦いにより、信長は他の大名からの支持を受けるようになり、勢力を拡大することができました。
また、信長は、敵対する勢力を孤立させるために、同盟戦略を用いることもありました。たとえば、彼は徳川家康と同盟を結び、敵対する北条氏や武田氏と戦いました。
② 身内政策の強化
織田信長は、勢力を拡大するだけでなく、自身の地位を確固たるものにするために、身内政策を行いました。たとえば、彼は信長の弟・信行を尾張の治安維持にあたる「法師頭」に任命し、信長の妹・お市を徳川家康に嫁がせることで、自身の勢力を強化しました。
また、信長は、様々な制度改革を行い、領民の生活や経済の発展に力を注ぎました。たとえば、彼は「一国一城令」を出し、各地に城を築くことで、戦乱時の防御力を高めました。また、彼は、農民の生活を安定させるために、耕作地の再分配や税制改革なども行いました。
織田信長の死
1573年、信長は京都の本能寺で、自身の家臣である明智光秀によって襲撃され、自害することになりました。信長は、この時点で領土を拡大し、国内の統制を強化していたため、その死は、日本の歴史に大きな影響を与えました。
信長の死後、家臣の織田信忠や羽柴秀吉が、信長の遺志を継いで、織田家の勢力を維持し、日本の統一を目指すことになります。
まとめ
織田信長は、日本の戦国時代において、勢力を拡大し、国内の統制を強化することで、日本の歴史に大きな影響を与えました。彼は、新しい戦術や同盟戦略を用いて、敵対する勢力を破り、領土を拡大しました。また、身内政策を行い、自身の勢力を強化するとともに、領民の生活や経済の発展にも力を注ぎました。
信長の死後、家臣の織田信忠や羽柴秀吉が、信長の遺志を継いで、織田家の勢力を維持し、日本の統一を目指すことになります。そして、秀吉による天下統一により、信長の遺志は達成されました。
信長は、日本史上、最も有名な武将の一人であり、その業績は現代でも高く評価されています。彼が残した城や文化財は、今でも多くの人々に愛され、訪れる観光客を魅了しています。
織田信長は、戦国時代において、新しい戦術や同盟戦略を用いて、領土を拡大し、国内の統制を強化することで、日本史上に大きな足跡を残しました。彼の業績は、日本の歴史において、忘れがたいものとして、今も多くの人々に尊敬され、愛されています。
信長は、戦国時代においては異色の存在でした。彼は、豊かな家柄でありながら、貧しい身分の家臣を重用し、彼らを育て上げました。また、自身も文化人としての一面を持ち、能楽や茶道、文学などにも精通していました。
信長は、戦術や同盟戦略を用いるだけでなく、交渉術にも長けていました。彼は、敵対する勢力との交渉や和解にも積極的に取り組み、同盟関係を構築することで、自身の勢力を拡大しました。また、文化面でも独自の取り組みを行い、現在の日本の文化や芸能の発展に大きな影響を与えたとされています。
信長は、天才的な戦略家であり、政治家であると同時に、時代を超えて多くの人々に影響を与えた人物です。彼の業績は、日本の歴史だけでなく、世界の歴史にも大きな意義を持っています。
このレポートを学生は出した。
そして講師から再提出を命令された。
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