夏はブルー、ときどきオレンジ

衣草薫

第一章

第1話

 ばあちゃんが死んだのは、高校受験当日のことだった。

 電車に乗るときはいつも電源を切っていた携帯を、その日だけ切るのを忘れていた。学ランのポケットで震えるそれを、さらに震える手で取りだす。画面に表示された番号は病院のものだとわかってはいたが、つばめは心の隅で、間違い電話か、変な勧誘か、振り込め詐欺の電話であるようにと願った。

「恐れ入ります、みなとつばめさんの番号でお間違いないですか?」

「は、はい」

「すみません、お母様と連絡がつかなくて。おばあさまの――サチさんの容体が急変しまして――え? なに……あ、少々お待ちください、すみません――もしもし、失礼しました。その…ただいま、お亡くなりになりました」

 今日ほど、神様を恨んだことはない。よりによって、今日。昨日か一昨日か、はたまた明日でもなく、今日。こみ上げる涙を、つばめは日本史の参考書で隠した。三日前、鼻から酸素を吸入しながら、まんまるの頭をなでてくれた、か細い腕を思い出したからだ。

「ありがとう」

 小さな声だったけれど、その言葉はつばめの、芯の部分に染み込んだ。絶対に高校に合格して、安心させてあげよう。そう誓った。昨日からばあちゃんは、モルヒネの作用で意識は朦朧となり、話すこともできなかった。昨日もずっと眠っているようだったが、言葉が返ってこなくたってよかった。つばめにとってばあちゃんのそばは、たった一つの居場所だったからだ。

 電車を降り、逆方面のホームへ走りながら、母親に電話をかける。案の定、電源は切られているようだった。今日は悠太ゆうたのピアノのコンクールの日でもある。つばめの母が、何よりも大切にしている日だ。諦めてメッセージを残し、つばめが病院についたのはそれから一時間後だった。


 ばあちゃんは静かに横たわっていた。ばあちゃんはこの部屋で、一人で死んでいった。その事実を飲み込んで、つばめはよろよろと椅子に座った。酸素吸入器は外されて、見慣れたばあちゃんの顔に戻っていた。まるで眠っているようだとよく言うけれど、本当にその通りなのだと思う。

「ばあちゃん、ごめん」

 自分が悪くないとわかっていて、謝るのはやめなさい。つばめが謝るたび、ばあちゃんはそう言った。本当に、自分が悪いように思えてしまうからと。でも、つばめは謝らずにはいられなかった。もっとできたことはあっただろうかと、自分の努力が足りなかったのではないかと、つばめはいつも、そんな風に考えてしまう。

 ばあちゃんの体調は、良かったり悪かったりを繰り返していた。しかし去年の秋の終わりごろから急激に悪化し始め、一週間前、訪問医の先生から入院を勧められた。最後だとわかっていた。つばめとしては家で最期を迎えさせてあげたかったが、それは叶わなかった。かまわないと、ばあちゃんも言った。あのときのばあちゃんの、強がりの中に浮かんだ寂しさを、代弁できなかった自分が悔しい。やせっぽっちで、平均よりも小さいつばめの体格でも、容易く支えることができるその軽さや、ストローで必死に高カロリー飲料を飲んでいた小さな口も、いまは後悔の材料にしかならなかった。

「失礼します……」

 女性看護師が控えめなノックの後、そっとドアを開けた。

「このたびは、お悔やみ申し上げます。」

「あ、はい……。こちらこそ、お世話になりました」

「お母様と連絡、取れましたか?」

「すみません、それが、まだ」

 つばめはうつむく。看護師は可哀そうなものを見る目で、少し言葉に詰まってから続けた。

「そうですか……。まもなく主治医が参りますので、お待ちください」

「はい」

 情けなかった。自分の母親が亡くなったというのに、連絡がつかない母も、父に連絡ひとつできない自分も、なにも考えずに、ピアノのことだけ考えているだろう悠太も。つばめは携帯を取りだし、まっさらなメールの作成画面に文字を打ち込む。

『今日、ばあちゃんが亡くなりました。おれは病院にいます。お母さんとは連絡が付きません。どうしたらいいですか』

 書いては消し、書いては消したメッセージを、しかし結局送ることはできなかった。

 その時、またノックがした。主治医は、もう一人白衣を着た人を連れていた。その人は静かにつばめとばあちゃんに礼をして、手を合わせると、「失礼します」と言って、ばあちゃんのまぶたを上げ、瞳孔をライトで照らした。

「二月二十一日、九時四五分。ご臨終です」

 照らされた光に全く反応しない、ガラス玉のような目を見て――つばめは、ばあちゃんがただの「物体」になってしまったことを思い知る。

(ああ、ばあちゃん。死んじゃったんだな)

 意識が重りを付けて、水底に沈んでいき――生ぬるい水がじわじわと入ってきて、内と外との境目が曖昧になっていく。主治医の人が何か言っている。でもその声はつばめの脳内でぼわん、と鈍く響くだけで、意味を持つ言葉になる前に波紋となって消えていく気がした。

 ばあちゃんは癌だった。発覚したのは三年前、七十二歳の時。見かけは平穏な家庭に降ってわいた介護問題は、それなりにこの家にも波風を立てた。だがばあちゃんと一緒に住むことをつばめが買って出たことで、それはすぐに収まった。ばあちゃんが心配だったからなのか、単に家を出たかったからなのか、いま問われても、つばめは即答することはできない。週末は帰ってきなさいよと言われたが、一年前から、正月とお盆以外では家に帰らなかった。母も父も何も言わなかったし、つばめはつばめで、そのことにほっとしていたからだ。

 小学生だった、あの日。玄関で脱いだ靴を揃えようとして、いつもの定位置に小さな靴が置かれていたのを見たときから、自分はここにいてはいけないと悟ったのを、つばめはよく覚えている。いや、母が再婚して、悠太が生まれた十年前から、つばめの居場所はもう、あの家にはなかったのかもしれない。

「つばめ!」

 気付けば病院の待合室にいた。ベージュのワンピースを着たお母さんは、疲れたような顔をしていた。つばめはそのことに、少しだけ傷つく。

「受験はどうしたの」

「……受けてない」

 お母さんの目に浮かんでいるだろう失望を見るのが怖くて、小さく呟いた。お母さんはため息をついて、つばめの隣に座る。

「どうするのよ、私立の受験だって終わっちゃってるのに」

「もう一年、バイトしながら都立目指すよ」

 私立の学費なんて出せないくせに、母は平気でそんなことを言う。悠太のピアノのレッスン代や遠征費、塾代は惜しまなくても、自分に使うお金はないことを、つばめはよくわかっていた。ふつふつとわき上がる憤りに気付かないふりをして、つばめは話を変えた。

「ばあちゃん、もう霊安室にいるって。いつまでも病室に安置しておけないから」

「……コンクール中に携帯が鳴ったらだめだから、昼まで電源切ってたのよ。あとでまた、悠太を迎えに行かなきゃならないの」

 つばめとしては責めたつもりはなかったのだが、お母さんは言い訳するように、そわそわと時計を何度も見ながら言った。

それからつばめでは対処しきれない、病院との手続きや、葬儀の段取りはあっけないほどスムーズに進み、ばあちゃんはそのまま、葬儀屋に運ばれていった。途中、父の「一日葬でいいんじゃないか」という提案にだけ、つばめは激しく反対した。お通夜を省いて欲しくはなかった。お別れくらい、悔いなくやりたかった。説得することさえ面倒だったのか、その要求は通った。家族葬なんだから、別にいいじゃない――母は困ったようにそう呟いたけれど。

 当日は、ぽっかりと穴が開いた気分のまま過ぎて行った。

 想定外の弔問客が現れたのは、お経をあげてもらい、お坊さんが退出し、通夜が終わりかけた、冬にしては明るい夕方のことだった。

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