私ではない私へ

雪待びいどろ

第1話

 天高く続く空は、雲一つない青色だ。太陽がちょうど頭の真上にあるので、砂の地面に写る影は短い。風が吹くと、アリアの特徴的な赤髪と砂ぼこりとが舞う。

 闘技場コロシアムは静まり返っていた。何百という人が集まって自分たちを囲んでいるのにも関わらず、のその静けさは少々不気味だと感じるらしいが、別にどうでもいい。騒がしくても静かでも何か運命が変わるわけでもあるまいし。

 アリアは息を止めて静寂に耳を澄ませた。五感が時間の流れに比例するように鋭くなっていく。

 右手からは、握った両刃の剣の鼓動すら感じられる。陽光をきらりと反射させる一振りは、ここから北にある帝国の騎士ナイトが実際に帯剣しているらしい確かな威力をもつものだ。

 もっとも、アリアはこの闘技場の外のものを見たことがないので、誰かの作り話かもしれない、という疑いは捨てきれていないのだけど。

 直径百メートルの円の中に立っているのはたったのふたり。アリアと『豪剣』と称される剣闘士グラディエーターシュヴァゲイル。形容するならまさに壁、という巨漢のシュヴァゲイルは、今日のためにはるばる南の闘技場からやってきたらしい。剣闘士には相手の剣闘士の情報は与えられないので、出典は仲間たちの地獄耳だ。

 身長は二メートルを超えているだろうし、肩幅がアリアの身長ほどだろうか。いや、それは言い過ぎか。

 くすり、と笑みをこぼすとシュヴァゲイルはその黒い瞳をこちらに向けて、ぎろりとにらむ。

 短い茶髪に対比して、口元を覆うひげは長い。この闘技場のルールにのっとって、上半身は裸、腰に鹿の皮でできた布を巻いている。武器は『豪剣』の名にふさわしい、大きな両刃の剣だ。確かにアリアと同じ武器だが、大きさが桁違い。斬るというよりは叩くためのものだ、と言われた方が納得する。空いているもう一方の片手で鋼鉄の大きな盾を構えていて、あれに攻撃を弾かれたら面倒だなぁ、なんて考える。ただ、アレコレと戦いが始まる前に考えるのはよろしくない。

 アリアはもう一度、空を仰いだ。

 勝てば生き、負ければ死ぬ。

 明確なのはただそれだけ。

「『豪剣』のシュヴァゲイル、『火炎』のアリア」

 観客オーディエンスが座っている階段状の座席から、アリアとシュヴァゲイルが佇む舞台ステージに出っ張った場所で声を張る支配人オーナーが、握りこぶしほどの大きさのものを空に放つ。

 残念ながらそれが何なのか、アリアは知らない。二つの目は相手の動きを見逃すまいと全力で、そちら側に神経を使う余裕がないのだ。

 白い何かが、地面に落ちる。

 観衆が歓声を上げる。

 その全てをどこか遠くに感じながら、アリアは剣を構えた。




 シュヴァゲイルは、まず突っ込んできた。剣を大きく振りかぶって間合いまで来ると、剣がものすごい速さで振り下ろされる。微動だにしないアリアを見て、何人かの観客の悲鳴が聞こえた。

 アリアはゆっくりと自分の真上に落ちてくる剣を後ろに下がって避ける。その動きは予想していましたと言わんばかりに、シュヴァゲイルは剣を横に振る。アリアは避ける。またシュヴァゲイルは剣を振る。アリアは少し右にずれて避ける。

 一切剣を振ろうとしないアリアに苛立ったのか、シュヴァゲイルは雄叫びを上げて剣を振りかぶった。再びの悲鳴。

 アリアは、自然体の構えから急に一回転した。剣の遠心力をそのままにシュヴァゲイルの首筋を狙う。が、盾が剣を阻んだ。

 キィン、と金属と金属がぶつかる甲高い音が響き渡ったと同時に、アリアはさらにその反動を利用して逆回転、そして反対側を斬りつける。それを見たシュヴァゲイルは咄嗟に一歩後ろに下がる。空ぶった剣を見て、にやりと笑みを浮かべたシュヴァゲイルは盾を捨てて剣を両手で構える。

 そのとき、シュヴァゲイルの前にアリアはいない。

 普通の剣闘士ならば、ここで勝負は決まっていただろう。けれども素早くシュヴァゲイルの腕が動く。剣と剣が交わる。右に動いて視界から外れ、そこから地面を蹴って飛び出したアリアの動きが止まる。

 手を伸ばせば届くほどの距離で、一瞬の間。アリアの燃えるように赤い瞳が光る。

 大柄な体に似合わない俊敏さでシュヴァゲイルは後ろに下がった。

 闘いが始まって数十秒間の緊張がほぐれ、アリアの耳に大衆の声が届く。シュヴァゲイルの消極的な後退に対するブーイングが何重にもなっていた。しかし、すぐに意識はまた沈んでいく。

 裸足で砂を蹴り、相手の懐に飛び込む。何度も何度も剣と剣とがぶつかりあって、何度も何度も観衆の声が闘技場に響く。

 永遠に続くのかと思うほどの攻防だが、終わりというのは唐突に来るものだ。そのことはきっとシュヴァゲイルも知っているだろう。

 視界から外れたアリアを追って、シュヴァゲイルの体が後ろを向く。そのときにはすでにアリアの体は、シュヴァゲイルの間合いの中、懐にいた。

 速度を重さに変えたアリアの剣が、シュヴァゲイルの胸を貫いた。

 力を失って崩れ落ちるシュヴァゲイル。

 血飛沫をまとって立つアリア。

 一拍おいて、観衆の叫び声が轟いた。歓声、罵声、怒声と、万雷の拍手。そのどれもがアリアにとっては無縁の、興味のない雑音だった。

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