職業体験
クロウの家の汚された外壁の掃除は一旦後回しにすることにして、三人はクロウのうちのリビングで気持ちを落ち着ける時間を取ることにした。とくに、クロウと少女の二人が、ティグヌスから暴力的な言葉を浴びせかけられたラーサの心理的影響を考慮してのことだった。
クロウはキッチンで入れたムギトハのお茶を少女に差し出した。ラーサの分はなかった。そのことを少女に指摘されると、クロウは昨晩の顛末を話した。「ああ……」と納得と困惑が入り混じった少女の顔が妙におかしくて、ラーサは少しだけ笑ってしまった。おかげで張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ気がした。
「そういえばわたし、まだきちんとラーサさんに自己紹介してなかったかも」少女はムギトハ茶で口を潤してから、ラーサに向き直った。「昨日少しお話しさせていただきしたけど、改めて自己紹介を。ベニーニャ・マグアイアです。先ほどは兄がひどいことを申しました。ごめんなさい」
「兄?」
ベニーニャは頷く。
「はい。先ほど一緒にいたティグヌス・マグアイアはわたしの二つ年上の兄なんです」
ラーサは驚きに目を見張った。兄妹で随分と印象が違ったからだ。
「ラーサ=マリー・グラドールです。そんなに畏まらないでいいよ? あたしたち同い年くらいなんだし」ラーサは言った。「気軽にラーサって呼んで」
「ありがとう」ベニーニャは朗らかに微笑んだ。「じゃあわたしのこともベニーって呼んで。親しい友達はみんなそう呼ぶから」
「うん。わかった。よろしくね、ベニー」
ラーサが言うと、ベニーニャは照れくさそうに長い黒髪で口元を隠す。本当に、兄とは印象が正反対と言っても過言じゃなかった。
「さて、これからどうするか」
クロウが口を開いたことで、重苦しい空気が少しだけ戻ってきた気がした。
「あたしのせいで……こんなことになって、ごめん」ラーサは俯いて言った。「これ以上あたしのせいでクロウくんに迷惑はかけられないよ。あたし……すぐにでもここを出て――」
「さっきも言ったけど」クロウがラーサの言葉を遮った。「おれのことなら気にしないでいいって」
「でも……さっきティグヌスさんが言ってたじゃん。出ていくか、解体か迫ってくるって」
「あー……」ベニーニャが辟易したように渋い顔を浮かべた。「ほんとうにうちのバカ兄がごめんなさい。けどひとまずバカ兄の戯言は無視していいと思うわ。クロ、長老がラーサの滞在を認めたんでしょ?」
視線を向けられたクロウは「ああ、間違いない」と頷いた。ベニーニャは続ける。
「なら、どんなにバカ兄が直訴したところで、長老はそう簡単に考えを変えないはずよ。長老の考えが変わらないうちには、流石にバカ兄も……バカ兄と同じ考えの人たちも今日明日でラーサには手を出せないわ。だから〈グローリア〉での立場がどうこうなる可能性はないと思うの」
「おれもそう思う」クロウが言った。「長老はティグ一人の意見で自分の決定を覆すようなことはしないだろう。だからラーサがここを出て行かなくちゃならない理由はないんだ。……もちろん、ラーサが自分の意思で出て行きたいっていうならおれたちに止める権利なんてないけど」
二人の視線がラーサに向けられた。彼女は小さく息を飲み、沈黙した。あたしはどうしたい? 自分に問いかけてみる。答えはすぐに出た。
「……あたしは、できるならもう少しここにいてみたい。……ここの人たちはあたしが出会った初めての人間だから」
クロウとベニーニャはそんなラーサの想いを正面から受け止め、頷いた。
「なら、おれもできる限りのことは協力するよ」そういうクロウは、しかしすぐに険しい表情を纏い直した。「問題はコロニーのほかのやつらの反応だよな。ティグ一人の意見じゃ動かなくても、ほかにもティグの意見に賛同するやつらが直接行動を起こしたら、長老も考えを変える可能性があるし」
「そのことだけど、ちょっと考えてみたの」ベニーニャが言った。「みんな、ラーサが長老のことを悪く言ったって言って、それだけの理由でわたしたちと違う彼女のことを排除しようとしてるじゃない? でもそれってみんな、ラーサがどんな人間なのか、それを知らないからだと思うの。わたしはもう、ラーサが長老を侮辱するような人だとは思ってないし、それに――実際に話してみて、人かロボットかなんて、そんなのどうでもいいって思い始めてるもの。みんなにもラーサのことをきちんと知ってもらったら、少しはなにかが変わるかもしれないんじゃない?」
「そんなにうまくいくか?」
クロウは懐疑的だった。
それでもラーサ自身はベニーニャの考えも尤もだと思った。
「わたしも……」ラーサは言った。「わたしも……みんなのことをもっと知りたい」
* * *
ラーサの気持ちを聞いたベニーニャの行動は迅速だった。ラーサが彼女に案内されて連れて行かれたのは長老の大樹がある〈グローリア〉の中心から見て、西側に少し歩いたところにある一角だった。そこはラーサがこれまで見てきたコロニーの様子とは一線を画していた。クロウの家ならば三軒程度は優に収まってしまうのではないかというほどに大きな土壁のドーム状の建物がいくつも軒を連ねていたのだ。
「ここは色々な工房が集まってる場所よ」
「工房?」
ベニーニャの説明に辺りを仕切りに見回すラーサは首を傾げた。
「工房っていうのは〈グローリア〉での――というより、人間の日常生活で必要なものを作っているところよ。だから、色々な種類の工房があるのよ」ベニーニャは指折り数えながら言った。「たとえば森で伐採した木材を使って食器を作ったり、クロみたいなハンターが狩ってきた動物を加工して保存したり、あとは家具を作ったり、家を作ったり……色々な役目を持った工房がここにはあるのよ。それで、今向かっているのはわたしが働いてる工房」
「ベニーって職人さんだったの?」
ラーサはほんの少しの驚きを持って言った。ベニーニャは「ふふ、そんな大したものじゃないわよ」と笑った。
「ほんとうにちょっとしたお手伝い程度のものだから。でも、そこではわたしと同じようにお手伝いで働きにきている子も結構いるからね。ラーサのことをきちんとみんなに知ってもらうにはいいかなって」
「けどあたしが行って迷惑にならないかな?」
「大丈夫よ」ベニーニャは自分の胸をドンと叩いた。「交渉はわたしがするから。任せて、こう見えてもわたし、工房長とは仲がいいんだから」
ベニーニャの働いている工房というのは〈アイギス〉やその下に着る下着などの洋服を製造している洋裁工房だった。建物の中に入ると、大量のミシンや裁断道具が乗った横長の作業台が何列にも並べられた作業スペースがラーサを出迎えた。一つの作業台では五、六人の人々が横並んで作業している。その様は作業者自身もミシンや裁断道具を構成する一パーツのように馴染んでいた。
女性が多かったが、中には男性もいた。彼らは作業の手は決して止めることはしなかったが、それでも同僚が連れて現れたラーサに訝しみの眼差しを向けてきた。
作業台と作業台の間は細い通路となっていて、そこを小太りの中年の男が忙しなく作業をしている人々に視線を配りながら歩いていた。彼はベニーニャを発見すると足早に歩み寄ってきた。「よーマグアイア嬢。どうしたんだい、今日は出勤の日じゃなかっただろう?」言いながら汗の浮く禿頭をタオルで拭う。
「工房長、おはようございます」ベニーニャはぺこりと挨拶をすると、ラーサを振り返った。「こちらはここの工房長をしているオリバーさん。オリバーさん、こちらは――」
「知ってるよ」オリバーはラーサを一瞥して言った。それから険しい表情を浮かべる。「どうしてここに連れてきた」
「オリバーさんに折り入って頼みがあるんです」ベニーニャは言った。「今日一日だけでいいんです。ここでラーサを働かせてもらえませんか?」
「そいつぁ――」オリバーは眉間に皺を寄せ、さらに険しい表情を浮かべた。「お前さんだってそれが今、〈グローリア〉でなんて言われているのか知らないわけじゃないだろ? それに、ここで働いてるのはオレとお前さんだけじゃないんだ。だから……わかるだろ?」
ラーサはやっぱこうなるよね、と思った。予想の範疇だったからあからさまな拒絶でもショックは少なかった。少なくても、面と向かってバラすと言われるよりは百倍もマシだろう。もういいよ諦めよう、と彼女はベニーニャの腕を引こうとした。けれど、ベニーニャはまだ引くきはないようで「でも」と口を開いていた。
「それはみんなラーサのことをなにも知らないからだと思うんです。もっとラーサのことを知ったら、今言われてるみたいな噂がほんとうじゃないってわかると思うんです」
オリバーは困ったように禿頭を撫でた。
「マグアイア嬢にしちゃ随分と聞き分けが悪いなぁ。どうしてそんなに肩入れすんだい」
「ラーサはいい子だって知ってるからですよ。決まってるじゃないですか」
オリバーは嘆息した。左右に忙しなく揺れ動く視線は周りで聞き耳を立てながら作業をしている従業員たちに向けられていた。
「ん〜でもなぁ……。マグアイア嬢の頼みだし、できることなら叶えてやりたいと思うんだがこればっかりはなぁ……」
ベニーニャは俯く。
「はあ、仕方がないっか。この手だけは使いたくなったんですけど」彼女は怪訝な表情を浮かべるオリバーに顔を近づけ耳元で囁いた。「今日一日だけでいいんです。もしお願いを聞いてくれたならはちみつクッキーをご馳走しますよ」
オリバーは驚いたように目を見開き、ベニーニャを振り返った。
「は、はちみつクッキー……? 種類は?」
「コハクミツバチの蜜ですよ」
ニヤリ、とベニーニャは誇らしげに言った。オリバーは眼窩から目がこぼれ落ちんばかりに目を見張った。
「ど、どこでそんな貴重なもんを!」
「うちの兄が狩りに出かけたときに偶然見つけたらしくて持ち帰ったんです。うちでもまだ一回しか食べたことがないんですよ?」
ゴクリ、とオリバーの喉がなった。彼はしばらくの間葛藤するように瞼を閉じていたが、果たして甘味の欲望には抗えなかったようで、大きく項垂れると「約束は守れよ?」とベニーニャの手を握ったのだった。
「もちろんです」
ベニーニャはそれはそれはもう清々しい笑みを浮かべていた。
オリバーはくるりと体を半回転させると、作業をしている人々に向かって叫んだ。
「皆、そのまま耳だけ貸してほしい。今日一日、この者をここで働かせることとなった。面倒は……」そこでオリバーは一瞬閉口してベニーニャに視線を向けた。彼女が頷き返すとの見て、改めて口を開いた。「面倒はマグアイアが、見てくれるからほかの者の手を煩わせることはないだろう。それでは今日一日、よろしく頼む」
オリバーが言い終えると、小さくないざわめきが沸き起こった。彼らは左右に座る者同士で顔を寄せ合い、ヒソヒソと言葉を交わし合う。
ラーサはオリバーに導かれて、そんな彼らの間を通り抜ける。彼女が通されたのはぽっかりと空席になっている席だった。
「ここはマグアイア嬢の席だ。お前さんはここで作業をしろ」オリバーが言った。
「作業はマグアイア嬢が教えてやれ。ミシンでも裁断でもなんでもいいが……物をダメにはするなよ? そればっかりはいくらコハクミツバチの蜂蜜を出されても許さないからな」
「もちろんです。わかってますよ」
ベニーニャが頷くと、彼は「ならよし。あとは任せた」と言って、最初よりも少しばかり疲れた様子でその場から離れて行った。
「ベニーって意外と強引なんだね。なんか意外」
ラーサは隣で満足げに微笑むベニーニャを見上げた。
「わたしもこんなことしたのはじめて」ベニーニャは照れくさそうに笑った。「それじゃあこれからやることを教えてあげるわね」
ラーサがやることになったのは生地の裁断だった。まず白線で図面が描かれた型紙をハサミでそれぞれの縫い代線に沿って裁断し、その後にヴァーサライトという鉱物を練り込んで作られた生地の上に配置していく。「布目線と布端が並行になるように配置してね」とベニーニャに指摘され、その通りにした。型紙と生地の上に錘を置き、ズレないようにしてから裁ち鋏を入れていく。裁断自体はそれで完了した。
「なんだ、簡単だね」
型紙一つ分の裁断を終わらせたラーサは率直な感想とともにベニーニャを振り返った。ベニーニャは驚きに言葉を失っていた。
「一つ聞きたいんだけど……ラーサって今まで一度も裁断とかしたことないのよね?」
「う、うん……」ラーサは戸惑った。「なんか間違っちゃった?」
「ううん。その逆!」ベニーニャは興奮を隠さずにラーサが裁断した生地をその場で掲げて眺め見る。「初めてでここまで完璧にできる人、わたし初めて見たわ! 普通は真っ直ぐに切るのだって難しくて歪んじゃうことがあるのに! ほんとうにすごいよ、ラーサ!」
掛け値なしに絶賛されてラーサは照れ臭くなった。
「ま、まあ? 夜月も『天才は才能を隠しきれないもの』って言ってるしね」
「夜月?」ベニーニャは小首を傾げるが、とくに追求はしてこない。それよりも、ラーサの才能をいち早くオリバーに伝えたくてウズウズしているようだった。実際、ラーサの裁断した生地を改めたオリバーは「こりゃすごいな」と素直な感想を漏らしたのだった。
「もう一度やってみてくれるか? 今度はオレの目の前で」
「いいですよ」
ラーサは請け合った。彼女はベニーニャに教わった要領でもう一度、一から生地の裁断を行なった。最初よりもスムーズな手際だった。また一つ裁断を終わらせると、オリバーは「もう一回頼む」と言った。彼女はもう一度裁断を行なった。それが何度か繰り返された。
結局、〈アイギス〉一着分の裁断をし終えてオリバーは感心したように唸った。
「こいつぁ本当にすごい」彼はラーサを見やるとニッと笑みを浮かべた。「次はミシンも使ってみるか」
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