The Mirror

#1 Encounter

「ペント、今日は月と砂浜を描こうと思ってる。それじゃ、行ってくるね。お留守番よろしく」

 

 満月の夜、青年は籠の中の緑色の蛇、ペントにそう言って、キャンバスや画材、イーゼル、ランプを抱えて家を出た。青年の名はフィリオと言う。

 やがて彼は家の近くの浜辺に着いた。


「よし……と。やっぱり海は落ち着くな……」

 

 フィリオがランプに火を灯し、イーゼルの足を砂浜に刺し、キャンバスをその上に乗せた。

 波が街に近づいて、そうかと思うと遠のく。そしてまた、近づいてくる。それを延々と、誰に言われた訳でもなく、誰の為でもなく、ただ繰り返すだけ。彼はそんな海が好きだった。そして、そんな海をより美しく引き立てる、この街を何よりも愛していた。

 彼は物体の比率を測ろうと、左手に持った筆を前にゆっくり突き出して片目を閉じた。その瞬間、穏やかな波が急激に激しくなり、波打ち際からはほど遠いイーゼルの近くにまで迫ってきた。


「おっと! なんだ? 急に波が荒くなってきた……」


 すると、フィリオのちょうど正面の波の中から、ほのかな黄色の光が見えた。


「なんだ? あの光は?」


 その光は強い波と共に彼の方へ来て、直接見ることができないほどまばゆくなった。


「う、眩しっ」


 波が光を置き去りにして引いていく。そして今度、それは急激に収まって、元の穏やかな海に戻っていった。砂浜に残された光は波の勢いに比例して、小さな光になっていき、やがて消えた。


「収まった? 何がどうなってんだ?」


 フィリオは消えた光の方へ、恐る恐る目を向けると、そこには人が倒れていた。背は彼の頭一つ分ほど小さい。


「おい! どうしたんだよ!」


 彼は筆をポケットに入れて、すぐに倒れている人に駆け寄ってしゃがみ込んだ。倒れているのは少女だった。そしてフィリオは気付く。


「君は……」


 長い亜麻色の髪。純白の白いワンピース。彼の夢の中に出てきたあの少女だ。


「そんな、こんなことって……」


 フィリオは今起こった出来事を信じることができなかった。


「君、もしかして夢の?」


彼が訊くと、少女はゆっくりと顔を起こして、震える手を彼の方へ伸ばした。彼はその手を思わず両手で握りしめた。


「レ……イネ」


 絞り出すようにそう言った少女の全身は濡れた砂で汚れていて、ワンピースはあちこちが破れていてボロボロだった。


「レイネ……? それが君の名前?」


 少女はコクリと頷いた。


「レイネか。にしても、夢の中の子にそっくりだな……」


フィリオは今の状況を飲み込めないまま話す。そして、夢で見たあの少女は本当にこのレイネという人物なのか……彼は気になってしょうがなかった。


「レイネ、僕のこと、知ってる?」


 フィリオが訊いてもレイネは何も言わず、頷きもしなかった。レイネの手が彼の両手の中で震える。彼は彼女の手が雪のように冷たいことに気付いた。


「そうだな、ひとまずこのままだと体冷えるから、僕の家でバターミルクでも飲むか?」


 フィリオは両手をレイネの手から離して、彼女を起こそうと上半身を持ち上げた。


「バター……ミルク?」


 彼の問いかけにレイネは首を傾げた。持ち上げたレイネの髪も砂だらけだった。


「ほら、バターミルクって、分かるでしょ? あったかいの用意するからさ」


「バターミルクって……?」


「え? バターミルク知らないの? どこでも飲める物だと思うけど……記憶でも無くしてるのか? ま、まぁ……とりあえず飲んでみれば分かるさ」


 フィリオはそう言ってレイネをおんぶしようとした。


「まって……」


 レイネが言った。それを聞いたフィリオは、持ち上げかけた彼女の両手を下ろした。


「つき……」


「月?」


 レイネは左手で体を支えながら座って、右手で月の方を指差した。


「そうか。今日は満月だったな。綺麗だ」


 フィリオが月を見上げると、彼はいつの間にか見惚れて、二人で一緒にしばらく月を眺めていた。母のような月の光が、二人を優しく照らしていた。

 その後、フィリオはレイネをおんぶして家に帰った。彼女は彼に乾いた砂を払ってもらった。


「ただいまペント。聞いてよ。浜辺で女の子を見つけて、今保護したんだけどさ、何度も僕の夢に出てきた女の子にそっくりなんだよね。何者かも分からないし、突然海から光が出てきて、その光の中から現れたんだよ。意味わかんないよな」

 

 フィリオはペントに話した。ペントは人の様に喋れる訳ではないので、これはいわゆる独り言だ。彼の話を聞いたペントが、舌を出して素早く上下させる。そして彼はレイネの方に振り向いて言った。


「レイネ、自己紹介がまだだったね。僕はフィリオ。この街で画家やってる。えっと、その格好じゃ寒いし汚いから、僕のお古を……どこにあったかな……」


 それからフィリオは寝室の棚を開けて、彼がレイネと同じくらいの年頃の時に着ていた服を探した。


「ほら、これ、男用の服で悪いけど、今の服よりはマシだと思うから着てみて」


 レイネはボロボロのワンピースのまま居間の椅子に座って、テーブルの上のランプの火を不思議そうに眺めていた。フィリオは綺麗に畳まれた服をテーブルに置いた。それから彼は台所へ行き、バターミルクを鍋に入れて、重厚感のある金属製のコンロに火をつける。


「バターミルク、あったまるまでちょっとだけ待っててな……あ! キャンバスと画材、砂浜に忘れてきちゃった。ごめんレイネ、ちょっと取りに行ってくるから、それ、着てみて」


 彼はそう言って家を飛び出した。レイネは彼の方に振り向きもせずに、ただじっとランプの火を見つめていた。

 数分後、フィリオがキャンバスと画材を抱えて帰ってくると、レイネは扉が開く音に少し驚いた様子でフィリオの方を見た。彼女は着替えを済ませ椅子に座っていて、ワンピースは雑に床へ放られていた。


「……」


 彼女はおかえりの一言も言わずにフィリオを迎えた。彼女は桃色の唇を少しだけ開けてポカンとしている。


「お、着替えてたか。サイズはぴったりそうで良かった。あ、バターミルクもあったまったな」


 フィリオはそう言って、台所で温めておいたバターミルクを、食器棚から取り出したコップに注いだ。


「はい、どうぞ」


 レイネはテーブルに置かれたバターミルクを、これまた不思議そうに見た。そして湯気が立っているそれを、彼女は取っ手を使わず両手で持って、ゆっくり飲んだ。


「どう? おいしい?」


 レイネは一口飲んだ後、フィリオに答えた。


「……あったかい」

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