第32話 エスコートと呪文とメッセージと
午後七時二十五分
フレンチレストランに入り、大きい方のカバンをクロークに預けようとスタッフに近づこうとした時、葉梨は私の前に入って『俺が預かります』と言い、葉梨がスタッフへ渡してくれた。
――そうだった。全て男性に任せないといけないんだった。
「お席まで、ご案内いたします」
スタッフはそう言うと私たちを先導するが、葉梨はそっと私の背中に触れて、先に行くよう促した。
――慣れてるな。さすが将由坊ちゃまだ。
葉梨は私の椅子を引いてくれた。エスコートが完璧だ。
官僚の子息で実家が太く、性格は温厚で真面目な葉梨は婚活パーティーなら優良物件だろう。だが高卒警察官だから給料はまだ安いし、そもそも学歴でハネられてしまう。
――もったいないな。
「加藤さん、ワインのお好みはありますか?」
――日本酒ならありますが。
「ワインは詳しくないから、葉梨にお任せするよ」
「わかりました」
葉梨はウエイターにメニューを見ながらワインの名前らしき言葉を言っている。呪文のようだ。
私の人生に無関係そうな言葉は、私の耳には残らない。右から左へと流れていく。
「どんなワインを頼んだの?」
「加藤さんが好まれるような白ワインです」
「ふーん……」
「加藤さんと初めてお会いした日、同じ日本酒を三合続けて飲まれましたよね」
――女将さんが勧めてくれたワインみたいな日本酒だ。すごく美味しかったやつだ。
「その日本酒に似たワインですよ」
「そうなんだ」
葉梨と初めて会ったのは去年の一月だ。そんな前のことをよく覚えているなと思うが、葉梨は人をよく見ている。私が何をしていたかなど、全て覚えているのだろう。
二の腕ムニムニの女将さんの件は、問題は既に解決している。あの日、葉梨が気づいてくれたから、女将さんと大将の夫婦仲に波風が立たずに済んだ。お店も問題なく営業している。
「葉梨、またさ、あの居酒屋に行こうよ」
「ええ、ぜひ行きましょう」
「二人でさ」
「はい!」
「二人で行かないと、葉梨は何も食べられないからね」
「ふふっ、そうですね」
◇
ウエイターが呪文のようなワインの名を言いながらグラスに注ぐ。私はそれを見ているが、葉梨の視線を感じて目をやると、目が合った。緩めた口元は笑顔へと変わる。
――今日の葉梨はずっと笑顔だ。
葉梨のグラスにも注いだウエイターは去った。
「加藤さん、あらためて、お誕生日おめでとうございます」
「んふふっ……ありがとう葉梨」
共にグラスを合わせて、口に近づけて香りを楽しんだが、あることを思い出した。
「あんたさ!」
「んっ!? はい!」
まだ葉梨は口をつけていなかった。間に合った。
「あんた車で来てる」
「ああっ、はい、大丈夫です」
「大丈夫って?」
「今日はここに部屋を取ってます」
「泊まるの?」
「えっと、あの、明日の午後から
――高卒警察官が高級ホテルに前泊。
庶民の私ならあのホテルに泊まるだろうなと、御帽子と御召し物が素敵なホテルの女性社長を思い浮かべながら、ワインを飲んだ。
今日は私の誕生日だが、本庁の研修に備えて高級ホテルに前泊する将由坊ちゃまの晩ごはんに私はお供をしているのか。なんとも言えない気持ちにはなるが、この白ワインは美味しいから気にしないでおこうと思った。
◇
お皿に乗るちまちましたフレンチを熊が食べている。
コースメニューだが、葉梨はオーダーしていない。事前に予約していたメニューなのだろうが、統一感が無い。魚か肉か、通常はどちらか選ぶものだが、魚も肉も出てくるし、私の好きな海老は前菜からずっと続いている。美味しい。肉、魚、海老。味の、玉手箱だ。
葉梨も私も共によく食べる。ちまちまフレンチではお腹いっぱいにはならないが、会話と料理を楽しむディナーもたまにはいいものだ。
「海老がいっぱい」
「加藤さんは海老がお好きですよね。なのでご用意しました」
「んふふっ……ありがとう。すごく美味しい」
葉梨は笑っている。いつもよりよく喋る。仕事の話をしているが、いつもより楽しそうにしている。葉梨も楽しいのだろう。仕事に追われ、食事をゆっくり楽しむことなど出来ないのだから。
「あの、加藤さん」
「なにー?」
「コースの最後に軽くデザートがつきますが、バースデーケーキは向こうのバーラウンジで出してもらうようにしました」
「そうなんだ」
「大きなケーキではありませんが、レアチーズケーキのバースデーケーキです」
「んふふっ……レアチーズケーキ、私が好きなの覚えていたんだね」
本当に葉梨は細かいことに気づくし、よく覚えている。仕事も有能だし、性格も素行も問題ない。
岡島が葉梨を可愛がるのもよくわかる。最初に会った日、岡島から『葉梨を仕込め』と言われた時はどういうことだと思ったが、今の私は、岡島と同じように葉梨が可愛い。
ポンコツ野川も私を慕ってくれている。
私のリビングダイニングがトレーニングルームでドン引きしていたが、『私も頑張ります!』と言ってトレーニングマシンを一通り使っていた。サンドバッグからは返り討ちに遭っていたが、私にとっては可愛い後輩だ。
岡島はあの日、葉梨はまだ吸収出来ると、葉梨は白い、誰にも染まりたくないのだろうと言っていた。
葉梨は、私から何か得たものはあっただろうか。
◇
ディナーを終えて、向かいのバーラウンジに行く前に化粧室へ来ている。
化粧室でメイク直しを終え、スマートフォンを見るとメッセージアプリにメッセージがいくつも届いていた。
――裕くんだ。
『奈緒ちゃんお誕生日おめでとう』
たったそれだけだが、相澤は毎年お祝いのメッセージをくれる。私の誕生日を覚えてくれているのだ。すごく嬉しい。
松永さん、玲緒奈さん、中山さんも須藤さんもお祝いメッセージをくれた。岡島は迷惑電話の途中で思い出したようで、誕生日おめでとうと言っていた。
両親は今朝、お祝いのメッセージを送ってくれた。狂犬病予防注射に行く前と行った後のマロンの写真を添えて。しょんぼりマロン――。
――嬉しい。
鏡に映る私は笑顔だ。
今年の誕生日は、なんだかいつもより嬉しいのはなぜだろうか。
もう一度鏡を見て、私は頬を緩ませた。
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