第29話 チンパンジーとチャラ男と白い薔薇と
三月十三日 午前十一時二十分
私は今、須藤さんとデパートに来ている。
パパ活疑惑の謝罪パフォーマンスの対価は食事、プレゼント選びの対価はピアスなのだが、バレンタインのお返しとしてピアスの予算を二万にしてくれと交渉している。
「そんな上手い話がどこにある」
「ここに」
「無い」
須藤さんへ渡したチョコレートは二個入りで千円のチョコレートだった。三倍返しだから最低でも三千円の予算アップは見込めるはずだ。
「食事は無しにしていいですから予算二万にしてください」
「腹減ってるんだけど」
「……自分で払うからいいです」
「そうはいかないだろ」
「諒輔さん、奈緒の一生のお願いを聞いて」
「引っ叩くよ?」
不貞腐れた私は眉根を寄せた上司のチンパンジーと一緒にジュエリー売場に向かった。
◇
私は今、一目惚れしたピアスを眺めている。
18金の大ぶりのピアスだが、軽量で全面にカービングが施された美しいピアスに一目惚れしてしまった。
――お値段税込み二万三千六百円。
高い。大幅な予算超過だ。だがすっごく欲しい。
ピアスを耳にあてながらちらりと須藤さんを見るが、『自分で買え』とでも言いそうな目で私を見ている。
「須藤さん、私は松永さんと岡島と葉梨にバレンタインのチョコを渡したので、予算超過分を三人から回収するのはいかがですか?」
「バカなの? 俺がそんなことを出来ると思う?」
「諒輔くんはやれば出来る子です」
「殴るよ?」
仕方ない。一万三千六百円は自腹を切るか、そう思った時だった。
「何揉めてるんですか?」
振り向くとチャラ男がいた。
黒のデニムを腰で履き、白の長袖Tシャツを着てヒゲを生やしたパーマヘアで、気合いの入った金髪ハイライトの松永さんがいた。チャラい、チャラ過ぎる――。
――また日サロに行ったのか。
「お疲れ様です」
「すっげー頭してんな」
チャラ男松永にここで何をしているのか問われたが、私はチャンスだと思った。松永さんに一万円を払わせればいいと。ならば上手いこと誘導せねばならない。
「欲しいピアスがあるんですけど、交渉は決裂してます」
「いくら?」
「二万三千六百円で須藤さんの予算は一万円です」
残りの一万三千六百円のうち、松永さんはいくら出してくれるだろうか。バレンタインは三粒で八百円のチョコレートを渡したのだ。全額は無理でも端数の三千六百円は払ってくれるだろう。
「須藤さん、俺、加藤が須藤さんに渡すチョコレートを選んでるのを見てたんですけど……」
やはり見ていたか。しかし松永さんは私の味方らしい。
――頼むぞ、チャラ男松永!
「加藤はすっごく真剣に悩んでたんですよ」
――いや? そうでもないよ?
「売場を行ったり来たりして」
――レジの場所がわからなくて。
「俺と岡島のチョコなんて適当に選んでたのに」
――それは事実。
「須藤さん用のチョコを選んで、それを手に取った時に可愛い笑顔だったんですよ?」
――多分それは自分用に買った高級チョコです。
「上司に渡すチョコレートを真剣に悩んでたんですよ? そんないじらしい部下に二万くらいはいいじゃないですか」
――さあ、上司のチンパンジーよ、答えをどうぞ!
「しょーがねぇーな! 買ってやるよ!」
――チョロい。チョロ過ぎる。
私は初めて、チンパンジーが上司でよかったと思った。
◇
ちょっぴり嬉しそうに会計をする須藤さんを私と松永さんは眺めていた。
「チョロかったな」
「ええ、驚きました」
「奈緒ちゃん、俺はまた日を改めてお礼するね。ちょっと忙しくて」
「お気になさらず」
「そうはいかないでしょ」
あの日、バレンタインチョコ売場付近で私を待っていた松永さんと岡島は、本気でチョコをもらえないと思っていたそうだ。
だが私がチョコを渡すと二人共嬉しそうにしていた。私はこいつら本当にチョロいなと思った。
「奈緒ちゃんさ、五月のことは須藤さんから聞いた?」
「えっ……聞いてないです」
「そっか。六月から俺が
「わかりました」
◇
午後四時三十八分
私は今、ホテルのカフェに来ている。
葉梨がバレンタインデーのお返しにとホテルのカフェでスイーツをご馳走すると言ってくれたのだ。
「加藤さん、大ぶりなピアスをお召しなのは珍しいですね」
「んふふ……須藤さんのバレンタインデーのお返しなんだよ」
「えっ……」
葉梨の目が動いた。
ああ、そうか。葉梨もバレンタインデーのお返しでここに連れて来てくれたのだ。他の男、いや男ではないが、比較対象を出してしまったのはマズかった。
「あの、パパ活の件」
「んんっ!?」
「野川のパパ活の件で、私が刑事課員の前で謝罪してあげて、須藤さんのパパ活疑惑を晴らしたんだよ」
「そうだったんですか」
「で、デパートで葉梨と岡島に会った日に、ピアスをお詫びで買ってもらうはずが、買えなかった」
「はい」
「で、バレンタインデーにチョコをあげて、そのお返しとして、ちょっとだけ予算アップして、このピアスを買ってもらった」
「そうでしたか」
葉梨は安堵の表情を浮かべている。
申し訳無いことをしてしまったと思っていると、葉梨はカバンからラッピングが施された箱を取り出した。
「お礼のハンカチです」
「ええっ、ありがとう。開けていい?」
「はい」
ラッピングを解き、中の箱を開けると薔薇の絵柄のシックなハンカチが二枚あった。黒地に白い薔薇と、白地に赤い薔薇のハンカチだ。
「素敵。ありがとう、葉梨」
「とんでもないです」
◇
私は今、ちんまりとしたパフェを頬張る葉梨を見ている。
――可愛いな。
葉梨が手に持っているからちんまりとしているように見えるが、パフェは普通サイズだ。
甘い物は好きなのかと問うと笑顔で頷いた。約束したスイーツブッフェは楽しみにしていたそうだ。
「岡島さんがスイーツブッフェの話をずっとしてます」
「ん?」
「ブラウニーが美味しかったそうです」
「んふふふっ……」
あの日、相澤がいたことで予定より早くスイーツブッフェを後にした。岡島はスイーツブッフェを楽しみにしていたから、ちょっとだけ不満そうだった。
「あのさ、麻衣子さんは、その後どうしてるの?」
「えっと、岡島さんの件、ですか?」
「うん」
岡島は麻衣子さんからラブレターをもらったと言っていた。あれからデートの約束でもしたのだろうか。
「岡島さんと文通してます」
「ブフッ!」
ドリンクを飲んだ瞬間に想定外のことを言われてむせてしまった。恥ずかしい。
「大丈夫ですか!?」
「んっ、ンフ、うん、うん、大丈夫……」
葉梨は岡島から手紙を預かり、麻衣子さんに渡したが、岡島が断ったのだと思っていた。だが翌週、官舎の郵便ポストに妹から岡島宛に届いた手紙があり驚いたという。
岡島はレターセットと郵便局でグリーティング切手を買い、文通が始まったそうだ。
「メッセージアプリでいいんじゃないの?」
「俺もそう思います」
「だよね」
「んふっ……」
◇
私は今、カフェの会計をする葉梨を見ている。
財布をしまったことを確認した店員は、葉梨に白い花を渡している。店員は何か説明していて、それを聞いた葉梨は笑った。
私の元に来た葉梨は、手に持った白い薔薇一輪を私にくれた。
「開店一周年記念で、女性のお客さんに白い薔薇をプレゼントしているそうです。どうぞ」
白い薔薇――。
そういえば須藤さんの恋人に白い薔薇を選んだが、一本の意味は何だったか。白い薔薇の意味は何だったか。思い出せないから葉梨に聞こうと思ったが、葉梨は先に行ってしまった。だが立ち止った葉梨は私を呼んだ。
「加藤さん、これです」
葉梨はカフェ入口の脇にある店名の銘板に手のひらを向けている。
Café Rosa Blanca
「カフェ、ロサ、ブランカです」
「……スペイン語、かな?」
「そうですね、白い薔薇という意味です」
「あはは、だからか」
私は白い薔薇の意味を葉梨に聞いてみたが、葉梨は一瞬、目が動いた。何だろうか。
「何でしたっけ……すみません、忘れてしまいました」
「ああ、いいの。ごめんね」
葉梨は思い出せないから動揺したのか。
私も思い出せないから葉梨が謝ることではない。
「葉梨、今日はありがとう」
「とんでもないです」
葉梨は白い薔薇と私の目を交互に見て、笑っていた。
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