第10話 幻覚とラストノートと菓子折りと
バーを出て岡島と駅まで歩いている道すがら、私は疑問に思っていたことを聞いた。なぜ今日はいつものチンピラの姿ではないのか、と。だが岡島はその問いに答えなかった。
私は立ち止まり、声をかけると岡島は振り返った。
「なんでよ?」
私の問いに困った顔をした岡島は私の前まで戻って来た。目の前にいる岡島は、『少しは期待したんだよ』と目を伏せて言った。
『奈緒ちゃん、そういうの、俺、本気にしちゃうからやめておきなよ』
――あの時、私を試したのか。
岡島をからかってやろうとしたことがバレたのだと思っていた。違ったのか。
「あの、奈緒ちゃんさ、松永さんから言えって言われていること……まだある」
「ん?」
「俺は言いたくない。それだけは、理解して欲しい」
「……うん」
それはきっと、私にとっては都合の悪いことだ。でも岡島は言おうとしている。私と天秤にかけて、松永さんに従おうとしている。
「聞く。言って」
「奈緒ちゃんが先輩から酒に……あの時、俺、店で奈緒ちゃんたちを見てた」
「えっ……」
私はあの日、先輩と飲んでいて、トイレから戻って酒を飲んだ後の記憶が無い。
目が覚めた時に見たものは、シャワーを浴びて髪の毛を拭きながら歩いてくる全裸の松永さんだった。
目を覚ました私と目が合った松永さんは、『二年ぶり二回目』と言った。
私は甲子園かな、と思いながら再び目を閉じた。頭がグワングワンしていたから幻覚だと思っていたのだが、本物の全裸の松永さんだったと後で聞いた。
「あのさ、もう、本当に気をつけて欲しい」
「うん……ごめんなさい」
岡島がそれを見ていたから、私は保護されたんだ。
松永さんからは、『酔っ払ったお前を見つけたからホテルに連れ込んだ』と言われたが、そんなの嘘だとわかっていた。先輩はどうしたのか聞いたが、答えてくれなかった。
私は翌日から一週間の有給休暇を強制的に取らされた。ホテルには三日間いて、その後は実家に送り届けられた。休み明けには先輩は既に退職に伴う有給休暇消化に入っていた。どこにいるのか、もうわからなかった。電話も繋がらなかった。多分、生きてるとは思うが、本当の所はわからない。
――岡島は私と松永さんがホテルに行ったことも知っているのだろうか。
ホテルにはもう一人、男がいた。
その男は警察官ではない。松永さんの手駒だった。
そうか、岡島は先輩の後処理をしたのか。ならば岡島は知らないだろう。
私は岡島の顔を見ようと顔を上げると、岡島は目に涙を溜めていた。『先輩が奈緒ちゃんの酒に何か入れるの、俺見てた。奈緒ちゃんが飲む前に、俺、どうにか出来た。でも先輩だから、出来なくて』と言うと、頬に涙が伝った。
ごめんなさいごめんなさいと謝罪する岡島を見ていたら、私も涙が溢れてきた。
――私はずっと、守られてきたのに、誰のことも守っていない。
岡島は続けた。酩酊状態の私を抱えて車に連れ込もうとしていた先輩ら二人を岡島と松永さんの手駒二人で拘束し、松永さんに連絡を取った。
松永さんは五分もかからずに到着して、先輩らを完全に拘束していることを確認すると、岡島を暴行したという。理由はもちろん私が飲む前に何もしなかったことだ。岡島は松永さんに殺されると思ったという。
涙が頬を伝う私たちはハンカチを取り出して、お互いの頬に双方のハンカチを当てた。私は何も考えずにやったことだったが、岡島も同じようにしていて、笑ってしまった。
二人で泣き笑いながら頬に当てられたハンカチで涙を拭った。
「あの、えっと、直くん」
「えっ……」
「直くん、本当にありがとう」
「うん……」
私はやらなければならないことがある。
いつまでも守られていてはいけないと思った。葉梨に仕事を教えて、私も成長しなければならないと思った。
そのチャンスを、岡島が私に与えてくれたのだから、感謝しないといけない。
「葉梨は任せて。ちゃんとやるから」
◇
涙が止まって二人とも落ち着いた時、岡島は私に聞きたいことがあると言った。なぜ私がこの格好をしているのかと問い、髪型は美容院に行ったのだと気づいていた。『少なくとも、俺のためにそうしたんだよね?』とも言う。
「目的は俺を喜ばせるためじゃないのは分かってるけと……」
「ん?」
「俺に会うから俺好みの格好をしてくれたって喜んでいいかな?」
「ふふっ、そうだね」
私は笑って、少し恥ずかしくなって俯いた。
すると、岡島の手が私の顎に添えられて、その手に力が入った。岡島と目が合う。
「奈緒ちゃん、お願いがある」
この先に言われるだろうことはひとつだ。だが私はそれに応じることは出来ないし、岡島が言うとも思えない。なんだろうか。
「俺のこと、褒めて欲しい」
岡島は私の顎に添えた手を離した。
「口説けば落とせそうなイイ女を諦めて、仕事を選んだ俺を褒めて欲しい」
ああ、そうか。さっき私は岡島にホテルに行くかと聞こうとして怒られたんだった。それを言っているのだろう。私は岡島の顔を見て微笑んだ。
岡島はそんな私から視線を外すと、照れたように笑った。
少なくとも三年前は、岡島は松永さんから信用されていなかった。松永さんが岡島を信用しなかった理由はおそらく私なのだろう。
今日の松永さんは私たちを置いて、帰った。それは岡島を信用したということだ。でもまだ不安があるから、私に全て話すか否かの最終確認をしている。
岡島は、松永さんから私に全て話せと言われたことを言わないつもりでいた。でも話した。話せば私を傷つけることが分かっているのに岡島は話した。ずっと隠していた自分の非を被害者である私に謝罪した。
岡島は松永さんに信用されたいから仕事を選んだ。
涙を流した私たちを松永さんの手駒は見ているはずだ。ならば、私は岡島のためにも松永さんへ符牒を送らなくてはならない。
「ねえ、直くん」
私は右手を岡島の肩に置き、左手で頭を撫でた。
目を細めて嬉しそうに笑う岡島を見て、私は微笑みながら言った。
「抱きしめて」
驚く岡島から目を伏せて、もう一度目を合わせて私は微笑んだ。岡島は『いいの?』と困った顔をしているが、『うん』と言った。
岡島は一歩前に出て、私を抱き締めた。微かにムスクとその奥のレザーの香りがした。ラストノートだ。
強くは抱き締めないが、背中にある岡島の手のひらは大きいなと思った。
「奈緒ちゃん」
私は肩に置いた手を動かして、指先が岡島の首に触れた瞬間――。
腕を下ろし
腕を交差させ
肩を窄め
腕を引き上げて
岡島の腕を解いた
岡島に背を向けた私は肘をみぞおちに打ち込み、前のめりになった岡島の顔を手の甲を叩いた。
これは松永さんから教わったのだ。これを手駒が報告すれば、松永さんは分かってくれるはずだ。松永さんは走って逃げろと言ったが、岡島と一緒に走れば分かってくれ――。
――あ、やべっ、制服がこっち見てる。
岡島の背面、方向十時、二十メートル、制服警察官二名現認。
マズい。私たちを見ている。『ぐえっ』と言ってみぞおちと顔を押さえている岡島の後ろ姿と仁王立ちする私を見ている。
マズい。しかもここは神奈川県だ。面倒は嫌だ。どうしよう。
だが基本的に男が被害者だと警察官はスルーする。だがら見なかったことにするだろう、面倒だし。あの制服二人だって面倒なはず――。
――あ、やべっ、こっち来る。
私は岡島の手を取り、逃げた。突然走り出して意味が分からない岡島は『ぼえっ』と言っているが、今はそんな場合ではないのだ。本来は逃げた方が面倒なのだが、私は走った。
「走って!」
この状況を松永さんの手駒は見ているはずだ。ちゃんと報告してくれるだろうか。
そう思いながらチラッと後ろを振り向くと、歩道ですっ転んでる男性がいた。それを見つけた制服二人は駆け寄っていた。男性に手を貸す優しい神奈川県警のおまわりさん――。
――あ、すっ転んだの手駒だ。見覚えある。
「走って!」
「ぐふっ」
私は心の中で、松永さんの手駒に菓子折り持って御礼に行こうと思った。
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